第12話 惚気とカステラと公務員住宅と

 六月十五日 午後一時二十分


 今日は葉梨の実家に訪問予定だが、その前に玲緒奈さんの家に来ている。


 あの日、むーちゃんの件に一切触れなかった玲緒奈さんは、今日はずっとむーちゃんの話をしている。

 笑ってはいけない先輩宅再びなのかと思ったが、そうではなかった。


 ダイニングテーブルの席に座り、キッチンでお茶の準備をする玲緒奈さんを見ているが、なんとなく機嫌がよさそうに見えた。


「敦志でむーちゃんって、何でよって思うんだけど、私も何でかわかんないのよ」


 ――お前は何を言っているんだ。


 キッチンに近い私の右手に座った玲緒奈さんからお茶を頂き、玲緒奈さんはダイニングテーブルに置かれたカゴに手を伸ばした。

 私はそれを見ながら問いかける。


「玲緒奈さんは敦志さんと仲良いですよね」

「うーん、ケンカはしないね」


 警察学校に入ったばかりの敦志さんに、一つ年上の玲緒奈さんは『あんたの嫁になる』と言って交際を始め、玲緒奈さんが二十二歳の時に結婚したそうだ。


「あんたさ、むーちゃんって、言ってみ」

「……むーちゃん、むーちゃん、むーちゃん」

「口論になった時、むーちゃんって言うと、何かバカらしくなると思わない?」


 ――バカはおま、なんでもないです。


「仕事も同業だし、先輩後輩だし、多少は揉めることもある。けど、むーちゃんって呼ぶようになったら、そんなに揉めなくなったんだよね」


 玲緒奈さんは私の指導員だったが、初めて会った時は第二子の産休明けすぐだった。

 お子さんは玲緒奈さんのお母様と、松永さんのお母様が一緒に見てくれていたという。

 だがそれを良しとしない先輩からは陰口を叩かれていたし、新人の私にも悪意を持って同意を求めるようなことを言われた。

 それに夫は敦志さんで義弟の敬志さんもいた。義父も現職だった。

 この松永家を良く思わない先輩たちから、当時二十六歳の玲緒奈さんは格好の餌食になっていた。涙を流す姿は見たことは無い。無いが、目を赤くしている姿を見たのは、一度や二度ではない。


 警察官で、仕事、勉強、新人育成、子育て、家事、そして警察官の妻を、若い玲緒奈さんはやっていたのだ。その時の玲緒奈さんの年齢を経た私は、自分の未熟さに呆れてしまう時がある。


 カゴの中の、袋を洗濯バサミで留めてあるお菓子を次から次へと私の前に置き、皿の上に取り出している玲緒奈さんだったが、ふと手を止めた。


「ねえ、裕くんにさ、そろそろ想いを伝えたら?」

「えっ……」

「もう奈緒ちゃん、三十二歳だよね? そろそろ、さ……」


 玲緒奈さんは私がずっと相澤に片思いをしていることを知っている。これまで何度も、『あんたが言わないなら私が言う』と言われたが、その都度断っている。

 私は相澤が好きだが、想いを受け入れられなかった時に相澤を失うのが嫌で、ずっと恋心を隠している。

 無事に、心身ともに健康で退官する日を相澤と迎えたいと思っているから。


「うーん……」

「奈緒ちゃんもね、幸せな結婚して欲しいんだよ」

「はい……」


 いつもそうだ。この話になるとお互いに無言になってしまう。私の答えが今日こそは違いますようにと願っているような、玲緒奈さんの表情に胸が痛む。


「あの、敦志さんと結婚してよかったと思っていますか?」


 私の質問に玲緒奈さんは少し、目線を外した。だが頬が緩んだ気がする。

 もう一度目線を合わせた玲緒奈さんは言った。


「敦志はね、私以外の女に男を見せないから」

「ん?」

「女を勘違いさせないために、男を見せないんだよ」


 どういう意味だろうか。

 玲緒奈さんの表情は優しい。

 小さく息を吐くと、玲緒奈さんは話してくれた。


「あのさ、敦志に女の影があると、私を不安にさせるでしょう? だからそうならないように、関わる全ての女性に、敦志は男性性を感じさせないように対応してる」


 ああ、そういうことか。

 言動、行動全てに気を遣って事前に色恋沙汰を回避しているのか。そしてそれは、玲緒奈さんのためでもある、と。


「奈緒ちゃん、一人の女だけを夢中にさせる男はいい男なんだよ」

「……はい」

「敦志はいい男だから……ふふっ、いい男が夫だもん、結婚してよかったと思うよ」

「えっ……」


 ――これは惚気だ。完全に、惚気だ。


 玲緒奈さんが私と葉梨の前で『むーちゃん』と言ってしまった時は若干殺気立っていたが、今はどうだ。後輩に少し恥ずかしそうに惚気ている。

 だが、初めて見た惚気ける玲緒奈さんを可愛いなと思った。


 一人の女だけを夢中にさせる男はいい男、か。

 むーちゃんは反社とインテリヤクザの間くらいの顔をしている。二年前、公務中の怪我で顔に傷を負って少しだけ皮膚が引き攣れていて、とっても怖い顔になってしまったが、後輩に優しいむーちゃんであることは変わらない。この前は見捨てられたが、むーちゃんは優しい先輩だ。この前は見捨てられたが。


「えっと、ごちそうさまです!」

「んふっ。お菓子食べな」

「はいっ!」


 私は鈴カステラを一つ、手に取った。



 ◇



 午後二時四十五分


 私は今、自宅最寄り駅にあるデパートで菓子折りを選んでいる。

 カステラがいいだろうと選んでいると、後ろから声がした。


「あの、加藤さん……カステラ?」


 私はカステラではないが、カステラを選んでいる加藤ではある。振り向くと、ネイビーのデニムに黒い半袖Tシャツを着て、リュックを背負っている葉梨がいた。少し、困った顔をしている。


「お土産に、カステラがいいと思って」

「あー、そうですか……」


 なんだろうか。商品什器の向こうにいる店員は突如現れた大柄な男を目を見開いて見上げている。

 葉梨はカステラを買ってこいと言われ、買いにきた所でカステラを買おうとしている私を見つけたと言った。


 ――それは確かに困るな。


 私は別の物をお土産にするからと葉梨に言うと、葉梨はホッとしたような顔をした。私はあのくるくるっと巻いたクッキーでいいだろうと思っていると、葉梨は店員に『予約していた葉梨です』と言って引換券を渡した。


 ――予約、引換券、カステラで。


 何か特別なカステラなのだろうかと店員を眺めていると、店員が手に持った商品に驚いた。


 ――桐箱に入った、カステラ。


 私は思った。買わなくて、本当によかった、と。

 葉梨は『このカステラ、美味しいんですよ』と頬を緩ませている。

 そうだ、私は葉梨家の子息の先輩なのだ。ご両親は気を遣っている。お茶うけに出す物のグレードを上げざるを得ないのだ。警察組織で働く息子のために、もてなしに粗相があってはならないと、ご両親は思われたのだ。


 ――ご実家に訪問はやめておけばよかった。


 だが私はモメラニアンに会いたかったから、今日を楽しみにしていた。

 モメラニアンと桐箱入りカステラ。

 私は葉梨に符牒を教えるのは後日でもいいだろうと思った。モメラニアンと遊んでカステラを頂いて、さっさと帰ろうと思った。



 ◇



 私の自宅最寄り駅は、葉梨の実家の最寄り駅でもある。だが双方の家は駅を挟んで反対側だ。『駅が同じでびっくりしました』と言った葉梨だったが、初めて葉梨に会った日に覚えた違和感が今、なんとなくわかった気がした。


 ――葉梨は良いところの坊っちゃんだ。


 葉梨の見た目は闇金の取り立てみたいな格好がよく似合う体格のいい熊だが、言葉遣いや食事のマナー、脱いだコートや靴の扱いなど、細かい部分に躾が行き届いていると思った。


 これは松永さんもそうだ。五年前、茶髪パーマで日焼けサロンで焼いた筋肉質な肌が映える白いタンクトップを着て、下は赤いジャージを腰で履いてアクセサリーもジャラジャラ付けた松永さんが飲み会に来た時、私は心の中で『ギャングだ、ギャングギャング』と思っていたのだが、座敷に入る時に松永さんが、ギャングが、丁寧に靴を揃えたのだ。

 ギャングの格好をして目つきも悪くしているのに、躾が行き届いている本来の松永さんの姿にそれはないだろうと、須藤さんが指導していた。

 松永さんは靴を脱ぐ時に靴で靴を踏むことを嫌がり、眉間にシワを寄せながら練習していた。



 ◇



 葉梨の実家のある地域の先には公務員住宅がある。葉梨の実家は、その公務員住宅入居者の購入を目論んだ分譲地だ。これは私の実家もそうだった。だが、葉梨の実家がある分譲地は国家公務員が多い。葉梨の親御さんも国家公務員なのだろうか。


 葉梨の実家へ向かう道すがら、私は少し、緊張してきた。





 

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