わが身は地を往き、心は月を想う 1

「起床ーッ!」


 天幕の外、槌で木製のドラをガンガン叩きながら歩く男の乱暴な声によって、レンジュは目を覚ました。


 天幕のすぐ向こう側を右から左へ、かと思えば左から右へと走り抜けていく、ばたばたと忙しない軽くて騒々しい足音は世話女たちのもの。天幕を透かせて入ってくる光はまだまだ青暗くて、地中からくる寒さを防ぐために敷いた毛皮は体の下にしている場所以外、夜の冷気を含んで冷たい。

 どうやら夜はまだ完全に明けきってはいないようだ。


「起床ーッ! 各自荷を整え、終えた者はすみやかにそれぞれの所属する下隊長の元へ集え!」


 そんな言葉が通りすぎる足音に混じって繰り返し聞こえてくる。


 もう移動するのか。


 身を起こし、前にきた横髪を梳き上げながら溜息をついた。

 前の移動からまだ十日しか経っていない。いつもなら最低でも半月はいるのに。


 おそらくは北からやってくる寒気のためだろう。敵軍よりも厄介な、自然現象。真冬の到来。北寄りに位置するこの辺りは冬の訪れとともに凍りつくから、その前にもう少し南下して、春まで持ちこたえられる堅固な陣を敷くのだ。

 二ヵ月も定置にとどまるのは敵に居場所を悟られ、襲撃を受ける危険が少なくないが、飢えと凍死を免れるにはそれしかない。


「また生き残るに厳しい季節に入るな……」


 眠気のとれきれない声でそう呟きながら上着をはおり、胸あてや膝あてといった軽武具をまとう。突然の移動命令にもすぐさま対応できるように、もとから整えるだけの荷は広げていない。敷物の中に碗とカップをくるみ、枕がわりの数枚の衣服ごと荷袋の中へ入れて口を引きしぼる。上がけにしていたのはマントで、それを肩にはおって外へ出ると、どこの者も慣れた手つきで丸めた天幕をさっさと荷袋の中へ押しこんでいた。それにならうよう、かがみこんで天幕の端へと手がける。


 いつも通りの手順で杭をはずすレンジュの心を占めていたのは、今冬の宿営地と定められた場所――寒さを凌ぎ、また敵の来襲をも防ぐことのできる数少ない宿営地の一つ――シュダがどうなっているのかということでも、行きがけに通ることになるアーシェンカの市で買いそろえないといけない冬越えの品目のことでも、はたまた今日を無事生き延びることができるかという不安でもなく。夏の終わりに滝で出会った乙女のたおやかな姿態であった。


 あれからもう五ヵ月も経つのか。


 その日数に、あらためて溜息がもれる。

 作戦が終了し、隊が逗留している地までの帰還中、偶然遭遇した帝国軍と一戦を交えた。秋の訪れで気の立った野の獣を警戒し、帰還を諦めて陣を張り、浴びた返り血や負った腕の傷から流れる血を洗い落とそうと行った滝。そこに、かの乙女はいた。


 まるで天空から惜しみなく降りそそがれる月光を収束したような細い金の髪と、真冬の湖水を用いて作られた水鏡を思わせる、青みがかった銀の瞳をしていた。その肌も、生きた人間の持ち物とは思えないほど白く、向こう側が透けて見えそうなほどだった。


 おそろしいまでに整った顔立ち、容姿  そして、そんな彼女を外界から遮断するように、全身を不思議な金の光が縁取っていた。


 五ヵ月という、無限にも思える月日を経た今も、わずかも色あせることなくあざやかに浮かぶ、その光景。


 人でないことは目にした瞬間からわかっていた。


 金の光に縁取られていたということもあるが、人であるなら一分と入っていられない清水に腰まで浸り、水浴びでもするように月の光を浴びていたからだ。そのなよやかな手足は少し力をこめただけで折れてしまいそうなほど細くて、小さくて。何より、儚げで……。


 月の光に溶け入り、そのまま消えてしまいそうな気がして、気付けば前へ踏み出ていた。


 われながら不用意にもほどがある。弁明をするなら、それだけ意識が彼女に集中してしまって、他を顧みられなくなっていたのだろうけれども。


 うっかり立ててしまった枝葉の擦れあう音を聞いて、何気にふり向いた面が、音を出した主が野の獣などでなく自分であると知った一瞬に、恐怖に強張ったのがわかった。それは、自身が今裸体で身を守る物を何一つ持っておらず、現れた自分が成人男子であるというおびえによるものではなく、もっと、根本的なものに対する恐怖らしいということも。

 たとえば、神の降臨を目前に委縮し、畏怖する人間のような……。いや、そのたとえは彼女に悪い。あれは、そう、陽をきらって地中を這いずり回り、虫を喰らって生きる化け物を間近にした思いで身をすくませていたのだ。


 声をかけるのはためらわれた。おびえた女性にかける言葉など、自分は知らない。どうすればその恐怖をとり除いてやれるかなど、思いつくはずもない。けれど、彼女から目を放すことも、その場を離れることも、不可能だった。



 月の光の下、視線が交差する。

 自身の黒い闇色の目と、乙女の無垢な青銀の目が。互いを映しあった気がした。



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