この道の行く手に待ち受けるは……。それでもなお 4

 周囲には、大勢の者が上げる悲鳴と、動物たちの狂ったような鳴き声が充満していた。幻覚とはいえ、思わず耳をふさぎたくなるような苦悶の呻きがあちこちから聞こえ、バキバキと木の板が折れる巨大な音がしている。青い煙が充満し、炎が燃え上がる中を、マテアは布を目深く被って慎重に歩いていた。


 ビイイィンと弓弦のしなる音がして、マテアのすぐ目の前にいた女性が、喉に矢を貫かれて悲鳴を上げることなく倒れる。地に押し倒され、首飾りを胸から引きちぎられる少女。逃げようとした背中に男の剣がくいこみ、鮮血が吹き出す。


 一方的な略奪と暴力が、そこかしこで展開されていた。


 布の下から辺りを見回し、何かを捜していたマテアの手首が、突然煙の中から現れた手に掴みとられる。


「いやっ、はなして!」


 もう片方の手で、相手の胸らしきところを懸命に叩いていた。けれどすぐにその手もとられ、マテアはあっけなく抵抗する力を失う。男は強引に身をかぶせ、のしかかり、マテアは地面に押し倒された。


「……っやぁっ……」


 死に物狂いで手足をばたつかせ、男の暴力をなんとかして阻もうとする。けれど、マテアの腕は男の半分の太さもなくて、ものの数秒であっけなく組み敷かれてしまった。


「いやっ! やめて! 助けて!」


 伸び放題の不精髭の隙間から覗く、男のひび割れだらけの肉厚な唇が鎖骨に触れ、服の上から胸を鷲掴まれる。どんなに泣き叫び、拒否を伝えようとも男は己の望みを達成することに躊躇すら見せず、動きをとめようとしない。男の手が下腹部を伝って下におりたとき、マテアの体が大きくのけぞった。


「い、やあああああああ――っっ!」


 もはやどうあがいたところで彼女に選択の余地は残されていない。彼女の命も肉体も、もはや彼女のものでなく、この男に掌握されているのだ。

 堪えきれず、マテアがぎゅっと目を瞑った直後、『マテア』は目を見開いていた。



 唐突に襲った長い一瞬の白昼夢にとまどう両目をなだめようと、指をおしつける。

 声が出なかった。

 なんという屈辱。わたしはわたしの肉体を、暴力により地上界の男に蹂躙されるのか。



 あれが、地上界へ降りたわたしを待ち受ける出来事。



「震えているのね。ごめんなさい、あんなおそろしいものを見せてしまって。でもまだ遅くありません。今なら変えることができるのです。あちらへ行くのはおやめなさい」


 月光母の手が、心底から申しわけなさそうにマテアの固く握りしめられた両手を包みこむ。じんわりと伝わってくる彼女の手の温かさに、ふと気付いた。

 大丈夫と、返さなくてはいけないというのに、黙りこんでしまって。

 自分が彼女の不安を助長していることに気付いて、マテアは急ぎ首を横に振った。


「行ってまいります、月光母さま」

 面を上げ、目を見つめながら言う。


 今なら変えられる、と月光母は言った。その言葉通り運命は必ずしも不変ではなく、未来に続く道は複数存在する。強力な引き綱でもって自分を引っ張ろうとするけれど、周囲に気をつけていれば、必ず道は他にもあるのだ。なら、何が起きるかこうして知っていれば、対処の方法も見つかるだろう。


 何も心配することはないのだとほほえみながら手を抜き、背を向けて。

 マテアはレイリーアスの鏡へと踏みだした。

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