この道の行く手に待ち受けるは……。それでもなお 3

月光母の優美な指先が触れて、通りすぎた後は、きれいに痛みがひいていた。すり傷に塩をすりこまれたように絶えずひりひりとして、熱っぽくうずいていた肌の感覚が消え、瞬くたびにこすれて涙がにじんだ目許の違和感が失われる。


 治癒は、鏡で見ずともはっきりしていた。


 今までに増して崇拝の念をこめて自分を見つめるマテアから、月光母はすっと手を退く。

彼女の一途な瞳の中に、はたして月光母は何を見たのか。眉を寄せ、美麗な面には不似合いな皺を眉間に作った。


「先に言ったことは嘘ではないわ。あなたはとても賢い子だもの、界渡りを禁じるのはあなたを案じるからこそだと、わかるわね? わたしがあなたに腹を立ててはいないことも。だから、それ以上自分を傷つけるのはおやめなさい。自己崩壊の痛みにいつまでも堪え続けられるほど、あなたたちは強くできてはいないの。まして、あの世界では、あなたたちがあなたたちとして生きるのはとても難しいわ。リイアムが大地母神ではないように、大地母神がリイアムでないように。あそことここではすべてが違いすぎるの。<リアフ>をとり戻したいというあなたの気持ちはわかるわ。でも今のあなたでいることが、あなたに課せられた罰であると思うことはできない?」


「それは……」


 マテアは口ごもった。

 月光母に対し、反する言葉を口にしていいものか、ためらって目をそらす。自分から流れた視線に揺れるマテアの心を悟り、月光母はさらに告げた。


「あなたは先に<リアフ>を失った自分をみすぼらしいと言ったけれど、あなたの友達がそう言ったわけではないのでしょう? まして、今のあなたを見て、<リアフ>がないから友達ではないと言った者も。それともあなたは、友達の誰かがあなたのように考え、行動して<リアフ>を失ったとしたら、友達ではないと言うのかしら? みすぼらしいと、彼女を軽蔑する? そうでないのなら気に病むことはないでしょう。わたしは今までと変わらず、他の聖女たちと等しくあなたを愛しく思っているのですし」

「それは……、ですが月光母さま」


 意を決し、再度マテアは月光母と視線をあわせた。


「たとえわたくしの友人たちがそうであっても、いつか噂が立ちましょう。わたくしは許されざる行為を行い、罰を受けたのだと。そして禁忌を犯して<リアフ>を失ったような者がいつまでも月光聖女であるのはおかしいと。わたくしはここで生まれました。ここしか知らず、月光母さまと月光神さまに仕えることしか知りません。また、それ以外の場所にこの身を置くことも、他の者に仕えることも、わたくしはしたくないのです。

 それに……! それにわたくしは、永遠に半身を得られないのだということがおそろしくてたまりません……! 誰とも何もわかちあえず、独りで生きていかねばならないなど――想像するだけで、この瞬間にも無に帰してしまいたいという苦しみが我が身を襲うのです!」


 どうかお許しくださいませ……!


 両手を床につき、慈悲を求めて深々と頭を垂れたマテアの手に涙が滴ったのを見て、月光母はそっと彼女の丸まった背を抱きしめた。

 月光母の<リアフ>から放たれる波動がマテアをやんわりと包みこみ、激しく波立った水面のような心を少しずつ癒してゆくのが彼女にも感じられた。その心地よさに目を閉じ、疲れた心身をゆだねる。ささくれだった気持ちが、水飴のようにとろけてゆく。


 マテアの耳元で、月光母は悲しげに呟いた。


「そうね……。『月誕祭』は目の前で、あなたにも、もう決めた相手がいてもおかしくないのよね。そればかりはわたしにもどうしようもないわ。いくらわたしがそちらを選ぶことを望んでも、あなたの運命ですもの、最終的にはわたしがどうこうできることではないということは、わたしもわかっています。たとえどんなにあなたが愛しくても……。

 でも、これだけはわかってちょうだい。あなたが憎いから、あなたに独りの道を選んでほしかったんじゃないの。あなたを愛しく思うからこそ、あの苛酷な地に赴くだなんて、そんなつらい道を歩いてほしくなかったのよ」

「もちろんです、月光母さま」


 マテアは涙ぐみながらそう答え、そっと月光母の腕の中から抜け出た。月光母もまた、マテアを抱く手に一層の力をこめるなどして、それをとめようとはしない。

 立ち上がったマテアは、まっすぐレイリーアスの鏡のある祭壇の奥へ向かう。


「あの地で何が起きようとも、十日後の『月誕祭』までには必ず戻ってまいります」


 月光母の、彼女の身を案じる波動を背で感じとり、笑顔で振り返って応える。

 己の知らない神が支配する、誰一人知る者のいない地へ身一つで行かなくてはならないのだ。その胸は心細さで一杯だろう。不安で、自分を立たせるだけで精一杯だろうに、見送る彼女を気遣って笑みを作る、そんな健気なマテアを見た瞬間、月光母ははじめて苦いものを口にふくんだように面を歪めた。



 まただわ、と胸の中で呟く。

 また、わたしは愛し子を失うのだと。



 だが『それ』を口にすることはかなわない。運命は神にすら手の出せない領域。創世神とはいえ、生まれおちた命に干渉することは許されない。マテアの運命はマテアのもので、月光母のものではないのだから。

 説得がかなわなかった今、彼女の意志を無視し、力ずくでとめることもできる。でもそうして彼女に残るのは、他者によって歪められた運命でしかないのだ。


 自分にできる事は限られている。


 月光母は、おもむろに右腕を肩と水平の高さで伸ばした。


「マテア。これがわたしの最後のひきとめです。わたしを目覚めさせた、あの地であなたを待ち受ける出来事を見せてあげましょう」


 月光母が言い終わるよりも早く、その掌から生まれた光球がマテア目指して飛翔する。

 まるで吸いつけられるようにまっすぐ顔面へと向かってきた光は、睫に触れるかどうかのところでぱちんと弾けた。

 おそらくそれは、一瞬の出来事だったに違いない。反射的に目を閉じて開いたほんの瞬きほどの間に、マテアは月光母・リオラムの予見――未来の断片を受けとっていた。

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