暴風雨ガール 45



       四十五



 九月が急ぎ足で駆けて抜けようとしていた。


 私が関わっている少数の人々の周辺は、幸せとは堂々と言えないかも知れないが、幾分落ち着いている気がした。


 有希子は退院後の経過も順調で、これならもう少しすれば働けるかも知れないと言っていた。


 予告もなくやって来る癖も復活したようで、数日前の土曜日の朝、突然部屋にやって来た。


 先への進展も見えない半面、とくに後退もない別居中のおかしな夫婦関係だが、私はあまり深く考えないことにした。


 ただ、有希子が部屋に来ている日は真鈴の様子が気になって落ち着かない。


 出来るだけ外で会おうと有希子に提案したが「何で?私はあなたと部屋で落ち着きたいのよ」と不思議がった。


 突然やって来て部屋でゆっくりしたいと言う有希子のわがままは、彼女の置かれている状況や病気のことなどもあって、私は強くは言えなかった。


 真鈴はときどき思い出したように電話をかけてきた。


 私がこの前「辛い」と弱音を吐いたことをずいぶんと気にしていて、「今から部屋に行ってもいい?」と、以前とは逆に向こうから来たがった。


「何があったのか話をしてくれてもいいじゃない。岡田さんと私とは塞き止めが崩れれば一気にどこかへ行ってしまう関係じゃないの。どうして打ち明けてくれないの?」


 そう言って私を責めた。


 でもこの部屋で真鈴と二人きりになると、何かの拍子に今度こそ間違いなくダムが決壊してしまうだろうと思ったし、有希子が連絡もなくやって来たならパニックになってしまうので、理由を付けて断っていた。


「何よ、前はこっちへ来ないかってしつこく誘ってたくせに」と彼女は不満がったが、まだ環境が整っていない。


 私はこれまでの人生の失策を語って、それをキチンと聞いてくれて、同情や非難や共感などの感情を持って欲しい女性は、有希子なのかそれとも真鈴なのかを考えてみた。


 正直なところ、妻の有希子よりも真鈴が一歩リードしているような気がした。



 九月最後の日曜日、朝からあいにくの雨だった。

 私は午前中、出来上がった調査報告書をT社へ届けたあと、スーパーで少し買い物をして帰って来た。


 マンションのエレベータのところまで来ると、確かに見覚えのある女性が佇んでいた。

 穴吹療育園の関さんだった。


「驚いたな、いったいどうされたのですか?」


「ごめんなさい、いきなり来てしまって・・・」


「電話してみたんだけどお留守だったから、いただいていたお名刺の住所を地図で確認して、途中の交番で訊いたの」


 関さんはダークグレーのジーンズに数種類の色のタータンチェックのシャツを着ていた。


 穴吹療育園を訪れたときの事務服姿とは印象がずいぶん違っていて、すぐに彼女とは分からなかった。


 関さんと判断した決め手は、彼女の背中には、まるで「空を翔ける少女」のような大きな羽が一瞬だけ見えたからだった。


 穴吹療育園の受付でも、遠くを見るように目を細めながら五メートルほど離れた席から駆けて来てくれた。


 そのとき彼女の顔が「時を駆ける少女」の映画の主人公みたいだと思った。


「駆ける」ではなく「翔ける」、「時」ではなく「空」を翔けて来る感じで、なぜか関さんはマンションの階段の踊場にいた。


「飛び石連休を使って京都と大阪に来ました。明日徳島に帰ります」


「旅行ですか?」


「そう。たまに山奥から出ないとおかしくなってしまうの」


 関さんは不安そうな表情だった。


 穴吹療育園を訪ねたあと、思いがけず電話をくれたときも、「森さんみたいに、私も誰かにここから連れ出して欲しい」と言っていた関さん。


 仕事自体は好きだが、山奥に長くいると気分が滅入ると語っていたことを私は思い出した。


「どうしましょう、ともかく僕の部屋に来ますか?汚いですけど」


 関さんは頷いた。


 部屋に入り、関さんをリビングの椅子に座らせてコーヒーを淹れた。

 真鈴が万が一、この様子を見ていたとしたら、依頼人が相談に来たんだと言い訳しようと思った。


 仕事関係の書類が散らかっていたテーブルを整理し、コーヒーカップを彼女の前に置いた。

 私も椅子に座り、一緒にコーヒーを飲んだ。

 関さんは私の動きや部屋の様子を不思議そうに眺めていた。


「お部屋をきれいにされているのね」


「ある程度はね。暮らしが荒んでいると、せめて部屋だけでも普通にしておきたいですからね。部屋も荒れ放題で生活も荒んでいると惨めじゃないですか」


「分かる気がします」と関さんは同意した。


「ひとり旅ですか?」


「そう、いつもひとりなの」


「彼氏はいないの?」


「うーん、少し前までは中学校の同級生と付き合っていたんだけど、遠距離恋愛だったからうまくいかなくて別れました」


 関さんは、微笑んで言った。


「まだまだ若いし、これからいくつも恋愛しますよ。問題ない」


 私は慰めにもならない無責任な言葉を関さんに与えた。


 彼女はまだ二十代半ばの年齢に見え、態度は落ち着いていたが、その落ち着きは少し脆さがあるように思えた。


「沢井さんのことではすごく感謝しています。あなたの情報がなければ、彼を捜すことができませんでしたから。あらためてお礼を言わせていただきます」


「見つかってよかったですね。森さんも一緒でしたか?」


「いえ、沢井さんとその森さんという女性とは、すでに別れていたようです。ただ、ときどきはお会いされていると仰っていました」


「そうなんですか・・・」


 関さんは残念そうな表情をした。


「もしよろしければ、大阪市内を少し案内しましょう。今夜のホテルはどちらですか?旅行バッグはここに置いておけばいいです。帰ってきてからホテルまで送りますよ」


「ホテルは東急インというところです。じゃあ、厚かましく案内してもらおうかしら」


「東急インはすぐそこですね。情報を提供していただいたお礼です、全然気にしないで下さい。」


 私は関さんを最も大阪らしいところに案内することにした。

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