暴風雨ガール 44


        四十四



 説明が終わって有希子は病室に戻った。

 両親も一緒にエレベータで上がった。


 エレベータの中でも、彼らは私に話しかけては来なかった。

 有希子は小さな声で「来てくれてありがとう」と言った。


 有希子はベッドに横になり、手術前日の緊張感からか、憔悴しきった表情に見えた。

 そんな有希子に両親は「必要な物は明日持ってくる」と、ほぼ無表情で言って、病室に戻ってから間もなく帰ってしまった。


 私にはひと言の声かけもなく、最初の会釈だけが彼らとの消えそうな関係を表していた。

 まるで有希子の乳癌が私の責任でもあるかのような態度に私には思えた。


「一週間程度で退院できそうなのよ。でも排泄の回復具合によってはもっと早くなるかも知れないわ」


 有希子はまだ手術前なので、普段の状態と全く変わりはなかった。


「大丈夫かな?」


「不安だけど、切除するしかないものね」


 有希子は元気のない声で言った。


 確かに私たちは五か月ほど前に別居状態になった。

 原因は私の甲斐性の無さは確かにあったとしても、彼女の両親が物言いをつけて引き裂いたのだ。


 だから両親の私への不満はある程度は理解できる。

 でも、それなら私を呼ぶなと思った。私を非難しているのなら呼ぶな。


 私は自分の気持のまま正直に生きてきた。

 その正直さが、金融業で独立したが客に情を挟みすぎて失敗してしまったのだ。


 私の考えは間違っているかも知れないが、この世の中ではたくさんの人間が多くの間違いを犯して生きている。

 法の裁きの対象とならない過ちを、人はいっぱい犯して生きているに違いない。


 私はビリージョエルのオネスティの歌詞を思い浮かべた。

 これまで正直に生きてきたが、それに誠実さが表れていたかは分からない。

 だが有希子の両親に非難される筋合いはない。


「ともかく明日は滋賀へ出張だから、帰ってきてからすぐに様子を見に来るよ」


「ごめんね、忙しいのに」


 目の前の有希子を今も愛している。


 彼女は一歳年下だが、私より一年早く大学を卒業した。


 大学のキャンパスで私が何度断っても積極的に声をかけてきて、すぐに怒るおかしな女の子だった。

 もう十五年以上も前のことだ。


 その女の子が今ベッドに横になり、明日乳癌の切除手術を受ける。

 人生は予期しないことの繰り返しだ。


 うまくいくだろうと思っていた金融業があっけなく潰れてしまうことや、女子高生を尾行中に捕まって恋愛関係に陥ってしまうことも、いずれもイレギュラーな出来事だ。


 イレギュラーなことの繰り返しこそが現代の人間社会とも言えるのだ。


 私は病院を出て近鉄奈良線で上本町まで戻った。

 そのまま帰らずに、駅の近くにある早い時間から営業している居酒屋でビールを飲んだ。

 大瓶を一本空けたところで真鈴のスマホに電話をした。


「どこにいるんだ?」


「家にいるけど、どうしたの?」


「何してるんだ?」


「明日から二学期がはじまるの。だからいろいろ準備している」と真鈴は言った。


「参った」


「えっ、何?」


「参っているんだ。僕だって参ることもある」


「何があったの?」


「うん、ちょっとな、奥さんがね。今度会ったときにちゃんと話をするよ」


「私、今からそっちへ行こうか?」


「嬉しいことだけど、今日これから君と会えば、間違いなく僕の意志が崩れてしまう。歯止めが利かなくなってしまうから来なくていい」


「いいじゃない、崩れたって、歯止めが利かなくなったって」


 今の気持のまま真鈴と会えば、おそらく許されぬ方向に突き進んでしまって、あと戻りはできなくなる。


 真鈴の父みたいに彼女をさらって霧島温泉へ行ってしまうような気がした。


「辛いんでしょ?」


「辛いな、すごく」


「だったらすぐ行くから。私が辛いときに岡田さん、いっぱい助けてくれたじゃない。だから今日は私が助けてあげる」


 私は涙が溢れてきた。店のカウンターの中の若い従業員が心配そうに見ているのが視界に入った。

 でも男だって泣きたいときは泣く。


「明日から学校、頑張るんだぞ。もうすぐお父さんも帰って来るんだからな」


「分かってる。岡田さん、好きよ」


「でもいろいろたくさん辛いな」


「泣かないで」


「うん、ところで今度一緒にホテルでテレビゲームをして欲しいな」


「いいよ、いつでも言って」


「じゃあ、もう少ししたら帰るよ」


 電話を切って勘定をして地下鉄に乗った。

 車内には大勢の人たちがいたが、彼等の中にも辛くて泣きたい気持ちの人がきっといるのだろうなと思った。

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