暴風雨ガール 41


        四十一



 翌日、有希子を昼前には車で家に送っていった。


 よっぽど疲れがたまっていたのか、少しはホッとして気持ちが落ち着いたのか、阪神高速道路を飛ばす車の中でずっと彼女は眠っていた。


 一時間半ほどで有希子の家に着いて、彼女の父も母もそろって玄関に出てきて恐縮がったが、決して家に上がれとは言わなかった。


 でもそんなことはもうどうでもいいと思った。

 有希子は両親の許認可など必要ない。


 人間は自由に生きていけばいい。それを阻む人がいても、その場面でやむなく従うのか、或いは自分の意思を通すのかが問題になるだけだ。


 急いで帰る必要はないので高速道路には乗らず、阪奈道路から国道八号線をゆっくりと車を走らせた。


 ハンドルを軽く握りながら、今の暮らしと人間関係について、本当に自分が満足しているのかどうかを考えてみた。

 私にとっての幸せな人生とは、いったいどのようなものなのだろう?


 人間はひとりで生まれ、ひとりで逝く。

 人生でどれだけ多くの人と関わったとしても最期はひとりだ。


 両親に守られて成長し、平穏な学生生活を送り、その過程で多くの友人を得て楽しくつながりのある生活を送る。


 結婚して子供をもうけて妻とふたりで力を合わせて幸せな家庭を築いていく。


 職場での人間関係、平穏な家庭、過去から続く友人たち、そういった人と社会とのつながりのある生き方が真っ当な「人生」なのか?それを人々は「良い人生」と呼ぶのか?


 喧嘩もせずに仲良く年齢を重ね、孫の世話をして、次第に身体が動かなくなって朽ちていき、最期は妻や子供や孫に見守られて次の世界へ旅立つ。


 溢れるほどの様々な思いを胸に抱いて逝ければ幸せかもしれないが、たいていは認知症や病気のために思い出など消えてしまっているに違いない。


 それが素晴らしい人生なのか?孤独死が同情されるべき死に様なのか?


 孤独死という名称は、人と社会とのつながりを維持し、経済的にもそれなりの優越感を持ち備えた、鼻持ちならぬ人間たちが勝手に名付けたものではないのか?


 当人はひとりで逝くことなど覚悟の上かも知れないではないか。

 多くの人たちに見守られながら最期を迎えることが素敵なのか?


私はゆっくりと車を走らせながら、様々なことを考え続けた。


 車が峠に差し掛かったあたりでスマホが震えた。

 私は右手だけでハンドルを握り速度を緩めた。


「今どこにいるの?」


 電話は真鈴からだった。


「阪奈道路かな」


「どこって?」


「生駒から大阪へもどる国道だよ。もう少しで峠を越えるけど、どうしたんだ?」


「どうしたんだって、酷い言い方ね」


「じゃあ、いかがされましたか?」


「からかっているのね。もういい!」


 スマホが切れた。

 ちょっと悪かったかなと思ってすぐにこちらからかけた。


「ごめん、謝るよ。悪かった」


「・・・・・」


「悪かったよ。もうすぐ奈良から大阪に入る。そっちは何処にいるんだ?」


「今は京橋の駅だよ」


「京橋?また変なことしてないだろうな」


「まだそんなこと言うんだ、信用してくれてないんだね。ガックリだよ」


「いや、信用してるよ。でも心配してるんだ」


「今から学研都市線に乗ってそっちへ行く。どこの駅で降りたらいい?」


「じゃあ、四条畷の駅まで来るか?」


「仕方がないから付き合ってあげる」


 真鈴は勝ち誇ったような声で言った。


 彼女と話をしていると、心が自然と弾んでいる自分が分かる。


 有希子への愛情を持っていることは間違いない。

 しかし何度も思うのだが、真鈴への気持ちは種類が異なるのだ。


 京橋から四条畷まで三十分もかからない。

 私は真鈴と午後二時頃に待ち合わせをした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る