暴風雨ガール 32

        三十二



 翌日の夜、私は宮崎港にいた。往路を逆戻りして明日の朝には大阪南港に戻る。


 昨夜、沢井氏とは一時間も話ができなかった。

 私が少し感情的になって真鈴のもとに帰って欲しいと説得すると、彼は黙り込んでしまった。


 五分も経ってからようやく「岡田さん、あなたの言うとおりです。私は逃げていました」と静かに言った。


「明日、岡田さんの都合がよろしければ、私の寮に来て下さい。今夜はこのあと少し残務がありますので失礼しなければいけません。明日午前中でしたらゆっくり話せます」


 もしかすれば今夜のうちにここを去って、再び彼は姿を晦ませるのではないかと一瞬思ったが、万が一そんな行動に出たとしたらそれは仕方のないことだ。

 そんな父親なんてもう捜さなくてもいいと真鈴を説得してやろうと思った。


 翌日、私は天降川のせせらぎに目覚め、温泉にゆっくりと入ってから十時過ぎに沢井氏の寮を訪ねた。


 寮は田丸本館に隣接する旧館のはずれにある木造二階建のアパートだった。

 彼はどこにも姿を晦まさず私を待っていた。


 きれいに片付いた一DKの部屋の隅には絵画用材が無造作に置かれ、未完成の風景画がキャンバスに貼られていた。


「休みの日は特に何もすることがなくて、少し前から絵を描くようになりました」


 沢井氏は苦笑いをして説明した。


 絵なんか書いている場合かと、私は苛立った。

 彼はインスタントコーヒーを私の分も淹れて、それらをテーブルの上に置き、それからゆっくりと語り始めた。


 沢井氏は森京子と一緒に穴吹療育園を出て、この田丸本館に住み込みで働くようになった。


 京子が調理補助の仕事、彼は宿全般の雑用係と客の送迎や食材などの買い出しに従事した。


 しばらくは従業員寮でふたり暮らしをしていたが、三年ほど前に京子は実家のある鹿児島県垂水市に帰り、今ではときどきここに京子が来るか、沢井氏が彼女の実家を訪ねるかという関係になっているという。


 沢井氏は離婚していないので京子と結婚できるはずもないが、実質二人の関係はすっかり冷えてしまっていると彼は語った。


「妻や真鈴のことは気がかりでしたが、人間、一方向へ走ってしまうと歯止めが利かなくなるのです。それに今更、どんな顔をして戻ればいいのか考えているうちに六年程が経ってしまいました」


 沢井氏はそう説明した。


「甘いな」と私は思った。


 甘すぎるよ、沢井さん。家族を抱えている人間の言葉じゃない。

 私は苛立ったが、その感情を言葉には出さなかった。


「ともかく帰ってあげるべきです。私はこれで失礼しますが、真鈴さんにはあなたの居場所は教えます。でも彼女がここを訪ねてくるかどうかは分かりません。

 いえ、訪ねては来ないでしょう。もし彼女が行きたいといっても私が止めます。

 だから沢井さんのほうから電話をしてやってください。自宅でも携帯でもかまいません。必ず連絡してやってください」


「分かりました。できるだけ早くそうします」


「できるだけ早くじゃだめなんだ、沢井さん。しっかりしてくれ。娘さんがピンチなんだって、昨夜も言ったじゃないか。

 気持ちの整理があるでしょうから、今ここから彼女に電話をしてやってくれとは言わない。明日電話してくれとも言わない。でも事前に私が真鈴さんに伝えておきますから、今度の土日には必ず連絡してやってくれませんか」


 私は言葉の途中から勢いを抑えて、彼に頼み込むような気持ちで言った。


「岡田さん、よく分かりました。すみませんでした。必ず数日中には電話します」


「だめなんだ、そんな曖昧なことを言っていては。明後日、土曜日に電話してやってくれませんか。踏ん切りがつかないならもう一日だけ待ちます。

 だから土曜日が無理なら日曜日には絶対に電話をしてやってくれませんか。ずっと待ち続けている彼女の身にもなってやってください」


「分かりました。必ず・・・必ず土曜日に電話をします」


 ようやく彼はそう言った。


 私は真鈴の自宅とスマホの電話番号を書いたメモを二枚渡した。

 一枚だけでは失くしてしまうと困るからだ。


「この二枚のメモは大切です。それぞれ違うところに保管して下さい。スマホをお持ちでしたら、あとで登録して下さい」


 沢井氏は頭を下げた。そして「真鈴は許してくれるでしょうか?」と言った。


「当たり前です。許すも許さないも、あなたたちは親子じゃないですか。真鈴はずっと待っています」


 沢井氏はそれからきっかり五分間、泣き続けた。


 私はその間、窓の外に見える緑の山々と、その上の晴れ渡った青空と、部屋の片隅に置かれた風景画とを交互に見ながら、出されたコーヒーを飲むふりをし、そしてもらい涙を抑えられなかった。


彼も苦悩したのだ。


 捨てたほうも捨てられたほうも苦悩する。

 再会し、再び元に戻ることで、その苦悩はようやく報われる。


 化学薬品か化学肥料か知らないが、そんなものの研究開発がだめになったからといって、妻子を捨てて女性と行方をくらまし、挙句はどのような顔をして帰れば良いか分からないとは、「馬鹿なこと言うな」と私はこころの中で沢井氏を罵倒した。


 そんな私の気持が顔に出ていたのだろう。

 昨夜は最初から沢井氏に対して攻撃的な態度になってしまった。

 本来の調査案件だとそんなことは決してないのだが、この件は仕事ではない。


 私の素敵な天使への贈り物だと思っていた。

 だから自分の自然な気持が攻撃的な態度に出てしまったのだ。

 でも、それでよかったのだろう。


 午後からもう一度ゆっくりと温泉に浸かり、沢井氏に再度念を押してから別れを告げた。


 宮崎に向かいながら、真鈴に電話した。


「今ちょっと電車の中なの。あと三十分ほどしたら家に帰るから自宅に電話して」


 真鈴は早口で言って電話を切った。


 私はいつも彼女が電車の中にいるときに電話をしているような気がした。

 尾行中に捕まってからこの日までのことが不思議だった。


 えびのジャンクションから宮崎自動車道に乗り換え、最初のパーキングエリアで車を止めて真鈴に電話をした。彼女はすぐに出た。


「どこに行っていたんだ?」


「心斎橋まで文房具を買いにいっていたの」


「本当なのか?」


「岡田さん、しつこい。私がまだつまらないことをしていると思っているの」


「だったらいいんだ。心配しているんだよ、真鈴のことを」


「大丈夫だから、信じて」


「お父さんに会った。おそらく今度の土曜日か日曜日には家に電話が入る。かかって来たら怒らないで許してやってくれ」


「・・・・・」


「泣いてんのか?」


 しばらく言葉が戻ってこなかった。無理もない。


「明日の朝早く大阪南港に着いて、昼ごろには自宅に戻るから、帰ってから詳しく話す。それでいいかな?」


「お父さん、帰ってくるかな?」


「決まってる、絶対に戻ってくるから心配するなって」


「うん」


 これ以上は私も感情が昂ぶってしまって話が出来ず、電話を切った。


宮崎港に着いたころには陽が沈んでいた。


 今回の調査は仕事ではなく個人的なものだったが、鹿児島にたどり着くまでがまるでドラマみたいだと思った。


 私の知人に「人生はシンプル・イズ・ベスト」などとカッコつけて言う奴がいたが、そんな簡単なものじゃない。

 物事はすべてにおいてややこしくできている。


 その難事をいかにシンプルな思考で、難しく考えずに切り抜けるかが大切なのだ。

 難しく考えてしまって現実逃避に走ったり、精神的に参ってしまってこころの病を患ったり、人は苦悩する。


「ともかくよかった」


 宮崎港の突堤から満天の星の夜空に向かって声に出して呟き、しばらく満足感に浸った。


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