暴風雨ガール 31


        三十一



 昨今は事情が違っているようだが、昔からパチンコ店の従業員や地方の温泉旅館、さらに風俗業界などの従業員は、雇用の際にキチンとした身分の確認をしない業種といわれてきた。


 悪い言い方をすれば「どこの馬の骨か分からない」人物を躊躇なく雇ってきた。


 それは、いちいち手続きを踏んでいたら人が集まらない、雇えないという業界事情もあったからだ。


 だから家出人捜しの依頼があれば、先ずは手がかりを依頼人から聞いてから、本人が暮らしていそうな地域が推測されればその地域のパチンコ店、温泉街があれば旅館などから聞き込みを開始したものだ。



 沢井圭一は森京子とここに移って来た。

 ふたりが知り合ったのは、彼の姉が昔から療養していた穴吹療育園だった。


 ふたりはずいぶん前から関係ができていたのだろう。

 会社経営が順調なら真鈴たちと平穏な家庭生活を継続していたに違いない。

 でも会社は潰れた。

 そしてそれが引き金になって、沢井氏は森を頼って穴吹療育園に来た。


 人間は金銭的なことよりこころの部分がはるかに重要だ。

 沢井氏が妻子を捨てて、ひとりの女性にこころの中の城を求めた行為は、やはり責められるべきことだろう。


 でも、道徳や観念のとおりに生きていけないのが人間だ。

 社会のルールどおりに皆が生きていければ、世の中に犯罪は存在せず不幸も少なくなる。


 世界は戦争のない、公園が町のいたるところに溢れる平和な楽園になるに違いないのだ。


 私のような人間が沢井氏の行為を批判する資格はないかも知れないが、降り続く雨のような天降川のせせらぎを聴きながら、私はそういうふうに思った。



 疲れからしばらくうたた寝をしていた。

 コツコツという音に目が覚めたのが午後六時過ぎだった。

 ドアを開けると年配の男性が宿の茶羽織を着て立っていた。沢井圭一だった。


「ようこそいらっしゃいませ。係りの者から聞きましてご挨拶に参りました」


 彼は戸惑ったような表情だった。


「少しお時間はございますか?」と私は訊いた。


「いま少し雑用がございまして、午後九時を過ぎますと手が空きますので、よろしければそのころもう一度こちらに寄らせていただくということでいかがでしょうか?」


 彼は申し訳なさそうに前かがみになって言った。

 私はお待ちしていますと返事し、沢井氏は「それではのちほど」と言い残して部屋を出て行った。


 食事前にもうひと風呂浴びてから部屋に戻った。

 ちょうど仲居が食卓に山菜料理を中心にたくさんの小鉢を並べていた。


「この辺りは山に囲まれて、綺麗な川が滔々と流れていて、本当にすばらしい景色ですね。温泉も濃厚で疲れが取れます」


「観光地の温泉と違って、何の色気もありませんけどね」


 仲居は笑って言った。


 私はこの温泉宿がこんな安価で営業されていることへの驚きや、宿は家族で経営されているのかなどを訊いてみた。


 当たり前だが、この宿は名称のとおり田丸氏という昔からの地主がオーナーで、明治の中ごろから営業を行っているとのことだった。


 ビールを二本飲み、出された料理をすべて平らげ、午後九時を少し過ぎたころに沢井圭一があらためて部屋に来た。

 茶羽織を着ていたが、仕事は一段落ついたと言った。


「もうビールを飲んでもいいのですか?」


「いただきましょう」と沢井氏は言って部屋の電話からビールを二本頼んだ。


「今日のお仕事は終わりですか?」


「いえ、まだ雑用がございますが、皆様の夕食が済みますと、ほぼ終わりでございます」


 運ばれてきたビールをグラスに注ぎ、私と沢井氏は一口飲んだ。

 化学関係の会社を経営していたとは思えないほど彼の茶羽織は似合っていて、有名旅館の有能な番頭のような感じがした。


「岡田様とは以前どちらかでお会いしておりましたでしょうか?」


 ビールを旨そうに飲み干してから彼は遠慮がちに言った。


「いいえ、初めてお会いします」


 沢井氏は腑に落ちないような表情をして、何かを思い出そうとしているように思えた。

 私はビールを飲み干してから名刺を取り出し、それを手渡した。

 彼はその名刺をジッと見ていた。しばらくの沈黙があった。


「実は沢井さん、お嬢さんがピンチなんです」


 私は沢井氏を正面から睨みつけるようにして言った。

 コップ一杯のビールで酔うはずもないが、怒りが急に込み上げてきたのだ。


「自分勝手な行動をとるな。娘がどんなに困っていると思っているんだ。僕が真鈴に捕まらなかったら、アンタの娘はどうなっていったか分からないんだ。売春をしていたかも知れないんだぞ。

 アンタは会社をつぶして現実逃避で女と行方をくらましてそれでいいだろう。でも残された奥さんや真鈴はどうなるんだ。娘はアンタを求めている。素晴らしいお父さんだったと言っている。それが何だ、このザマは」


 私は様々な思いが次から次へとこころに湧き上がってきて、興奮で震えているのが自分でも分かった。


「妻からの依頼ですか?」


 沢井氏はしばらく考えてから言った。


「真鈴さんから頼まれたんです。沢井さん、何も言わないで帰ってやってください」


「真鈴がですか?お金はどうしたんでしょうか、それに妻は・・・」


「お金は関係ありません。真鈴さんとは友達だからです。奥さんは事情があって家にいません。家には彼女がひとりですが、精一杯頑張って暮らしています」


「妻はどうしたのですか?」


「帰ってやってくれませんか。あなたの事情は訊きません。女性と一緒にいるのかどうか、そんなことはどうでもいいんです。沢井さん、帰ってやってください。

 真鈴は、いや真鈴さんは今、大変なんです。彼女は母親を庇っています。あなたの奥さんはあなたがいなくなってからずいぶん苦労をしたようです。精神的に参ってしまって、宗教団体を頼って家を出てしまっています。

 真鈴さんはそれを咎めていません。彼女はいい子です。素晴らしい高校生です。ただ、今すごく苦しんでいます。寂しくて死にそうです。お父さんが必要なんです。帰ってやらないといけません」


 私は言葉の最後のあたりで感情が込み上げてきて、どうにも制御できずに涙声になってしまった。


 真鈴、絶対に帰ってもらうから心配するな。私は心の中で叫んだ。

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