35話 過去のヤサシサ2

「あ、ぅ、こんにち……ぐ」


 母が来ると二人きりにはしない。後ろで誰かが控えている。ヘドロの化け物は沈痛そうな顔つきでうつむいている。昨日嗤った化け物だった。


 母の「憎い」と小さくこぼした声を拾った。まだまだ幼かった月音でも、先生の心ない言葉でなんとなく察している。


 月音は、憎い男――虎沢秀喜との子供。


 それでも母は同時に「愛したい」とも囁いた。

 ぎょろりとした濁った瞳に涙を浮かべて、嫌悪でいっぱいでも月音を求めた。


 ――哀れだ。可哀想だ。人生めちゃくちゃになって、その子供に会うのも強制されて。怖がったら化け物に「お母さん頑張って」といらぬ言葉を、無責任に押しつけられて。不幸を他人の生きる糧にされて、あざ笑われて。



 わたしは、かのじょを、あわれだと。



 もしかしたら。


 先生と同じように、自分より不幸な人間に安堵したかったのかもしれない。


 ならば自分も人間などではなくヘドロの化け物だ。


 そんな月音に母は諦めなかった。

 元から壊れかけていたのに、会うたびに酷くなっていく。昔は花の匂いを纏っていたが、最後の方はアルコールのような、怪我のとき入る部屋と同じ臭いがした。


「来なくてもいいよ」と告げられたらどんなに良かったのか。

 

 母はたまにここではないどこかに意識を飛ばすことがあった。誰にいうでもなく独り言を延々と呟いている。


「ごめんなさい、おかさん。おとうさん。わたしはだめなむすめです。ちゃんと責任をとります。会いに行きます。だからだからおこらないでぶたないで」


 まるで幼子のような懇願。

 うずくまって頭を抱えてしまうと、面談は中断される。

 親とはほど遠い姿なのに、次の日は打って変わり、母としての威厳を保とうと必死になる。


 とても不安定な人だった。


 触れればひび割れた硝子のように崩れてしまいそうな母に、月音から近づくのは危険すぎた。

 恐怖に支配されて、会話はできない。だからいつも月音は彼女から話しかけられるのを辛抱強く待った。


 来る途中、薄紅色のかわいい花が咲いていた。

 今日は天気がいいから、ひなたぼっこすると気持ちが良い。

 最近折り紙で花を作ったと聞いたけれど見せて。


 たわいもない会話の中で、距離が縮まらない。

 月音自身、会話を弾ませるタイプではなかったせいもある。



「今日はね、お料理してきたのよ」


 そんなときだ、母が手料理を持ってきてくれたのは。


 秋も終わるころ。

 室内に入らず、紅葉が舞うグラウンドの隅。設置された古びた木製ベンチに座る。

 一人分の間を開けて、母は鞄を探った。


 火傷したのか指から手の甲まで包帯を巻いて、透明なプラスチック製の保存容器を差し出した。

 中身は卵の色など消え失せた黒い塊で、お世辞にも美味しそうとはいえない代物。


 母も気落ちしたように顔をうつむかせていた。


「ごめんね、だめなお母さんで。お料理下手なの、一番うまくできたのを持ってきたつもりだけれど。だけどやっぱり食べれないわね」


 月音は食事に興味がない。

 味を感じないのだ、塩辛いやら甘いやらは分かっても美味しいが何かを理解できない。


 それでも月音の手は伸びた。


 行儀悪くつまんで口に放り込むと、じゃりじゃりと砂のような食感に苦みが舌に伝わる。


「おいしい」


 嘘ではなかった。

 ぽろりと、自然とこぼれた感想だった。


 自分でも驚き、思わず口を押さえる。

 本当に自分で喋ったのかとうろたえていると、母の動揺が空気をふるわせた。


 視線が絡む。

 きょとんとした顔で、月音を見つめる。

 苦痛でもなく緊張で強ばっているのでもない。


 そして。


「――ありがとう」


 本当に嬉しそうに、顔をほころばせた。


 幸せを噛みしめるように、涙を浮かべた目を細める。頬は紅葉と同じ色に美しく染まった。


 母の微笑みを、初めて見た。

 初めて、月音に向けてくれた。


「また、作るから。今度はとっても美味しくなるように、お母さん頑張るからね」


 一人分の距離は、拳一つ分になり。

 彼女の小指と月音の小指は絡まって「約束」と囁いた。


 そして内緒話をするかのように、耳に唇を寄せて無邪気に言った。


「おかあさんね、頑張るから。頑張って、迎えにくるから。ちゃんと家族に、なるように」


 ささやかな願いを月音は耳を澄まして黙って聞き入った。

 ずっと、聞いていたかった。


 ――その翌日から、母は、来なくなった。

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