過去の約束は今も色鮮かに

34話 過去のはなし1

 物心つく頃には間違いの子だと言われた。


 合意のない行為から、愛されぬ間から生まれてしまった忌む子供だと。



 施設の先生と呼べる人間たちが陰湿に、それこそ壁の隅っこでお喋りのを月音は、幼いながらも己のことだと瞬時に悟った。


 そしてけっして彼らが自分に対して良い感情を抱いていないのも。おそらくこれからも上辺だけ優しくして、過ごすのだろう。


 先生の本心を物心ついたときには知っており、極力関わらないように感情を押し殺して人形のように黙っていた。

 ただ暇つぶしに辞書やら本を読んで知識を得る日常。それがまた薄気味悪さを増して大人たちは嫌煙していたようだった。



 そんな中、ある日突然母と名乗る人間が面会するようになった。


「ほら、お母さんよ」


 笑顔のくせに哀れみと軽蔑を含んだ目をした先生に、背中を押される。よたついた先にいたのは、


「……っぁ」


 うつくしいひと、


 だった、というのは文字通り過去の話で。

 きっとうつくしい人だったのだろうな、と思える整った顔立ちだった。

 しかしこの日出会ったときには、やつれて枯れた花のよう。


 青白いを通り越して土色の肌こけた頬。艶やかさを失った、ばさばさの黒の長髪。乾いて切れた端から血をにじませる唇。骨と皮しかない指先。


 死んでいる。

 それが母への評価だった。


「う、ぇ、おえ」


 くぼんだ瞳が月音をとらえると、ぎしぎしと痩躯を軋ませて戦慄く。痙攣を起こし、くの字に曲げると口から吐瀉物があふれ出した。過呼吸、喉が鳴り呼吸すらままならない。


 途端に先生たちが慌て始めて騒然とする中で、月音は立ち尽くしていた。瞬きもせず一挙手一投足を見逃すまいと凝視する。


 これが母親。

 実の子を拒絶し嘔吐する姿に、会うべきではなかったのだろう、と目を伏せた。



 それが母との初対面だ。




「そりゃそうよ。だって強姦から生まれたのよ? トラウマの娘だもの。気持ち悪いを通り越して、おぞましいでしょ」


 先生の言葉から、辞典を引っ張り出し調べる。

 望まぬ子供とはそういう意味なのかとこれまた何も心に響かず、感じず理解した。



 もう二度と、来ないのだろうな。



 辞典を閉じて。

 他の子供が作った折り紙の花が飾られた掲示板を眺めた。


 自分が折ったのは、どこにもなかった。



「う、ぅぅう」

「……」


 予想とは違う状況に月音は幾何、驚きを覚えた。

 初めての感情だった気もする。


 母親は何度も来た。

 何度も会い、何度も拒絶反応を起こした。

 酷いときには気絶するのに何度も、――何度も何度も飽きもぜず、諦めず。


「どうして毎日懲りずにやってくるのかしら」

「それがね、言われてるみたいよ。自分の両親から」

「え? なんて?」

「こういうことになったのは、お前にも非がある。生んだ以上、責任をとれって。中絶するのを止めたのは両親らしいけど。酷な話よね」

「犯人は捕まったの?」

「いいえ、だってあれよ。ほら何だったかしら。ええっと、そう。あの虎沢秀喜らしいわよ」

「うそ、やだ。厄介ごとを持ち込まないでしょうね」


 月花や凪之の名は、幼子さえ知っている。

 何よりこの孤児院を経営しているのは凪之であり、行事があれば彼らはやってくるのだ。

 お菓子やら服やらを置いていくので、皆からは好かれている。


 虎沢秀喜は聞き覚えがないが、先生から醸し出された嫌悪感から疎まれて恐れられているのは確かだった。

 当然凪之たちにも畏怖はあるが、それとは別の何か。


 先生は茶菓子を片手に、ほうと息をつく。


「可哀想ねぇ」

「本当に可哀想」


 口さがない先生たち。醜い顔で嗤っていた。

 他人の不幸を噛みしめて、鬱屈とした日常を彩っている。

 

 その瞬間から、月音の目には大人たちが化け物に見えた。

 ヘドロまみれの化け物だ。


 可哀想という言葉が、月音の心に黒くへばりつきやがて燃えるように焦げ付いた。


 沸き立つ激情の正体は分からずくすぶり続けた。

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