12話

 目の前の彼が、箸を置いて月音を見つめていた。静かな瞳は、穏やかな水面を彷彿とさせて眺めていると、ざわめいた心が凪いでいく。


 息をついて、月音は正直に話そうと口を開く。嘘を述べて食べるよりは誠実なはずだ。


「ごめんなさい。私、あまり美味しいとか、わからなくて。だから、食べても、その……貴方が喜ぶような返答は……」


 あるいは、と以前、唯一美味しいと思えた玉子焼きをつまんでみた。


 だが結果は無情だった。やはり舌にのせて咀嚼しても、変わらず。感想すら伝えられない。


 彼は逡巡のち、首を傾げる。


「玉子焼きが嫌いとかではなく?」

「いえ、むしろ、玉子焼きだけは一度だけ美味しいと思ったのですが。……それも気のせいだったのかもしれません」

「それは、どんな味付けだった? もし覚えていたなら近いものを作るが」


 そこまでしなくても、と首を振ったが、諦めるつもりは毛頭ないらしく黙って待っている。


 月音は根気強さに負けて、記憶を掘り起こす。視線を頼りなく彷徨わせて、ふわりと浮かび上がった情景に、言葉が詰まった。吐息で消えしまいそうな、頼りなく儚いそれを、丁寧になぞるように目を細めた。


 忘れていない。ずっとそばにある、数少ない母親との思い出。


 施設でお世話になる月音に会いに来ると、毎回気分を悪くし、倒れてしまう母親だった。酷いときは嘔吐と過呼吸で、運ばれる。会話もろくにできやしない。


 そんな母親が一度だけ、やつれた姿で手料理を持ってきた。青ざめて、今にも気を失いそうに震えながら。

 月音を直視できないと、顔を背けてでも手渡した。


 それは。玉子焼きと呼ぶにも躊躇われるほど、黒く焦げた何かであった。スクランブルエッグ、に近い気もする。味は苦くて、食感はじゃりじゃりで、かたい。


 それでも月音は『美味しい』と呟いていた。

 心の底から、そう思ったのだ。


 母は目がこぼれそうなど見開いて。じわりと涙を浮かべると、頼りなさげに、しかし、とても幸せそうに笑った。


 花が綻ぶような母の笑顔を、月音は、そのとき初めて見た。


「――は、母、が」


 静かな室内に転がる声は、存外震えており感情が露わになっていた。それ以上は、喉につまる。一向に出でこない、諦めて顔を俯かせた。


 随分と昔なのに、味も、母の些細な動作も、鮮明に焼き付いていた。ずきりと痛む頭にそっと手を添えたが、和らぐことはない。


「どうでもいい話です。忘れてください」


 逃げるために、早口で告げた。


 これ以上、踏み込むのが恐ろしい。

 自分の中にある揺れを認識し、解析するのが嫌で仕方ない。何もわからないまま、耳を塞いでいたい気持ちが大きく膨れ上がる。


「大切だろう」


 彼は、そんな弱気を許しはしなかった。

 のろりと目線をあげれば、泰華がいる。けっして強引ではなく、しかし聞くもの惹き付ける声は力強い。月音の記憶を宝物のように繊細かつ丁寧に言葉を紡いだ。


「そうやって感情を揺さぶられるほど覚えているのは、きみにとって特別な記憶で、味だということなんじゃないか」


 それが良かれ悪かれ。

 何度か彼の教えを復唱して、母の微笑みと丸焦げの玉子焼きを描く。締め付けられる胸の痛みに、肺に溜まる重い息を吐き出した。気だるさから、机に手をつく。


 彼は窓からこぼれる朝日に照らされ、慈しみを瞳に宿していた。春を連想させる柔らかな眼差しで見守る姿に、月音は、つい、本音を吐露した。


「でも、思い出せば、苦しい」


 もう戻らないと知っているから。

 二度とあの安らぎはやってこない。壊れてしまった。


 指先が冷えていく、凍り付いて動かない。全身の痛みすら助長させて、縛り付ける。呼吸が満足に出来ない、冷たい水底へと沈む感覚に、視界が黒く染まって。


「それでも」


 力のある声と共に、彼のぬくもりが分け与えられる。

 まばたきの向こうに、彼が変わらずいた。ゆっくりと引き上げて、日差しの元へと誘う。いつの間にか繋いだ手は、離れず溶け合うように引っ付いたまま。


「抱えていかなければ、後悔する。忘却は救いだが、特別だと思った理由さえも拒絶すれば、本当に全てを失ってしまう」


 真摯な態度に月音は、瞬きすらできない。ただ彼を見つめる。


「急がなくていい。何故特別なのかを知るのが大切なんだ。ゆっくり自分の中に取り込む」


 できるか、と問われて半分無意識に頷いた。


 ふっと離れた手が名残しくなるのを誤魔化すように、慌てて自分の箸を握り直す。


 並べられた食事を、再度見渡して、いただきます、と呟く。今度は泰華に倣ってではなく、自分の意思で。


 そっと玉子焼きをつまみ、口に入れた。じゅわりと広がるだしの味、卵の甘み。香りに、柔らかな食感。感じること全部を逃さないように、しっかり拾って味わう。


「食べれるか」


 美味しいとは問わない彼が眩しく、そっと目を閉じた。瞼で黒く染められた視界には、泰華と母の微笑みが浮かぶ。

 月音は、静かに、首を縦に振った。

 

 それが今出来る、精一杯の返事であった。

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