11話

 キッチンが設置された場所に踏み入り、月音はぽかんとした。開いた口がふさがらない、と周囲を見渡せば、隣の泰華が手を離す。


「取り急ぎ調理器具とテーブル、椅子。それから日用雑貨だけ用意した。他のは追い追いで」


 お茶碗を持つ姿に、月音は目を閉じる。

 無意識に言葉がこぼれた。


「私、これ運び入れているとき、寝てたんですか」

「ああ、熟睡してたな。疲れてたんだろう」


 さらりと答えられて、月音は自分の無防備さに嫌気がさした。運ぶ音で起きないのはまずい。


 彼を信用する要素は揃っていないから、心を許すなと己自身に言い聞かせていたが。目の前で、睡眠を取るのは避けるべきだった、と目頭を軽くもむ。


「さぁ席について。ご飯を食べなければ倒れてしまう。腹が減っているときは、悪いことばかり考えてしまうからな」


 椅子を引いて、促される。


 にこりと人の良さそうな笑顔は、裏の道を歩くものとは到底思えない。春の太陽を彷彿とさせる、穏やかかつ優しさで満ちあふれていた。どんな心も溶かして入ってくるような。


 警戒心などいとも簡単にほぐして消してしまう。


「月花さんが、作ったんですか」

「泰華と呼んでくれ。その姓は、いささか悪目立ちするからな」

「……では、泰華さん。あなたが、この食事を?」


 ふんわりと漂う香りは胃を刺激して、きゅうと切なげに鳴く。


 テーブルには、香ばしく焼いた脂ののった鮭。湯気をほわほわと、立ち上らせる味噌汁。黄色いたくわん。ふっくらとした玉子焼き。白く輝くごはん。


 完璧な食事が、並んでいた。


「はは、料理が趣味なんだ。口に合うといいが」


 献身的な態度に、絆されそうになる。


 ぐっと唇を噛みしめて耐えれば、彼は月音の失礼な疑惑すら見透かした。


「毒は入っていない。不安だったら、俺のと取り替えてよう」


 特に気にせず言ってのけた泰華に、はっと息を呑む。


 用意してもらった立場、ご厚意に甘えて返せるものひとつない身だ。疑うのは失礼にもほどがある。たとえ相手が月花で、怪しい人物であろうと。相応の誠意を見せるべきだ。


 芽生えた罪悪感に苛まれ、ぐっと眉根を寄せる。それから深く頭を下げて謝罪した。


「ごめんなさい。せっかく作ってもらったのに、変な難癖をつけて」

「昨日の今日で、俺のような男に心許すほうが異常だ。それぐらいでいい」

「ですが、服まで、お金とか返すのは、今は無理でも必ず」

「俺がしたいことを、しているだけだ。金だっていらない」

「ご、めんなさい」

「こういうとき、なんて言うか知っているか?」


 ふいに、泰華の声音が変化する。


 諭すかのような、まっすぐで揺るがない瞳。月音は一瞬固まってから、ゆっくりと首を横に振った。


 再び謝罪を口にしようとして、


「簡単だ。たった一言『ありがとう』でいいんだ」


 底の読めない笑顔ではない。あるのは、清らかな誠意と優しさだと、感じ取れた。


 わかるか、と首を傾げて月音の手を握った。温かさが、じんわり広がり、身体中に行き渡る気がした。強ばった心がほぐされていく。


 肩の力が抜けて、自然と言葉はあふれた。


「――ありがとう、ございます」

「こちらこそ、俺と一緒にいてくれてありがとう」


 俺はきみのそばにいれるだけで、幸せになれる。だからありがとう。


 繰り返した言葉を噛みしめるように、大切に紡いだ泰華の瞳が揺らいだ。それは瞬きの間で、見間違いのようにも思える。それほどに、小さな感情の変化だった。


 泣き出しそうな、迷子の子供のような。


 月音は、よく見てみたくなったが、すぐになりをひそめてしまった。余裕のある、決して心中を悟らせない完璧な笑みで隠された。


「ほら、ご飯が冷めてしまう」

「……はい」


 そっと席につく。なれない動作に戸惑いつつも、泰華にならって手を合わせる。


 向かいの席で彼は、では、と合図をした。


「いただきます」


 声を重ねた。

 月音は、彼を盗み見た。


 背筋を伸ばし、姿勢よく手を動かしている。綺麗な所作から、にじみ出る育ちの良さが彼の美しさを際立たせていた。


 月音も新品だろう箸をそっと手に取り……止まる。

 よみがえるのは施設の記憶だ。遠い、色褪せた過去。


 月音がいた施設は治安の悪い羽無町では、比較的まともで、子供の数も多かった。幼い頃から、物静かで不気味だと評された月音が、紛れるほど賑やかで、良い意味で羽無町らしくない場所であった。


 用意された食事や、おやつに喜ぶ子供たちの顔が浮かんでは消える。


 今日のごはんは好き、嫌いと騒ぐ中で、月音だけは無表情で食べていた。何かの記念日やイベントだと、ご馳走が出てきたが、それでも変わらない。


 味が、分からないわけではない。

 甘い、辛い、酸っぱいなど舌が拾い上げる。だが、それに対して美味しい、不味いという感想を抱かないのだ。腹が減り、胃袋に収める。食欲という欲求を抑える行動でしかない。


 これを、食べたら。わたしはなんて、言えば、いいの。

 なにを、言えるの。


「月音、食べないのか」


 不思議そうな声に、思い出から浮上する。

 

 月音は。

 言い訳も、喉に詰まる正体不明の何かも、胸の奥を突き刺す痛みも、咄嗟に吐き出せなかった。


 

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