10話

 どっとあふれる冷や汗が、頬を伝いシーツに吸い込まれる。視界が明滅して、恐怖という冷たい氷を押しつけられた。身震いすら出来ず、傷が鈍く痛みを訴える。


 無意識に距離を取ろうと身動ぎすれば、泰華が目を細め唇に弧を描く。大きな手のひらが優しく月音の頭を撫でると、大丈夫だ、と囁いた。


「そう。凪之なぎの。でも陽野はるのさんは気にしなくていいよ。そこにいるドクズ野郎が守ってくれるから。悪魔みたいに性格最悪だけど責任感はあるし、約束は果たすやつだし」

「ずいぶんな言いようだ」

「自覚はあんだろ」


 軽口をたたき合う仲らしい。

 月花の首領である泰華に、気安い態度で接するなど相手も、それなり――同等の立場に君臨する人間なのだろう。

 だとすれば凪之の。


 そこまで考えて頭を振る。ひたりと忍び寄る冷たい足音を確かに聞きながらも月音は沈黙を貫いた。


 下手な質問は身を滅ぼす。


 引っかかる事柄は多い。特に泰華との会話内容。

 だが気軽に問いかけるほど凪之は、心を許せる相手ではない。


 こわばった月音は一瞥した泰華は、悩むそぶりを見せてから満足そうに頷く。


「さて、俺たちはそろそろ朝の食事なんだ。切るぞ」

「のんきだなほんとに! 僕はこれからむさ苦しい男どもの説得なのに、可哀想だと思わないのか」

「男を慰める趣味はない」

「友人を労る心ぐらい持てや」


 騒ぐ誠司を意にも介さず、人差し指で無情にも通話終了した。静かになった携帯電話をスーツのポケットに仕舞う。


 凪之の声が聞こえなくなったのを確認して、震える声で問うた。


「あなたも、狙われているの」


 ぎゅうと胸辺りの服を握りしめる月音に泰華は、悠然たる面持ちで応えた。


「ああ、少々面倒な事態でな。月花と凪之は恨みを買いやすいから仕方ない。逆らう人間は奇特だがな」


 日常として受け入れているらしい彼に、もう一つの疑問をぶつける。


 先ほど虎沢秀喜についてだ。


 二人一緒だと知られたら、の続きはわからないが、良くないのは十分に察せられた。


「あの、私といると、あなたに不都合があるのでは?」

「心配か、嬉しいな」

「茶化さないでください」

「本気なんだがな」


 怒気を含んだ声音にも泰華は怯むわけもなく、のらりくらりとかわしていく。それから、やはり真意が読めない笑みで覆い隠した。


「きみがそばにいれば、助かる」


 意図を感じ取れるほど月音は聡くない。訝しく見つめれば、泰華は立ち上がった。


「きみはきみの心配をしていればいい。それだけで俺は救われる。もちろん、きみには危害が及ばないように、ちゃんと隠しているが」


 一瞬、彼の表情が見えなくなった。明るい部屋だというのに、逆光ぐらい関係ないはずなのに。


 それが酷く不気味で、身震いをした。

 短く息を吐いて凝視すれば、彼は変わらない笑顔があった。


「簡単なものだが、朝食を用意した。一緒に食べよう。お腹が空いただろう」


 昨日の殺伐さなど霧散され皆無だ。

 泰華は優雅な仕草で、月音へと手を差し出す。ダンスを誘うかのような動きにキザで大袈裟だが、やけに似合っていた。


 細い手と顔を見比べて、月音はおそるおそる手を乗せた。

 ゆるく掴まれてひかれる。されるがまま立ち上がって、そこでようやく気が付いた。


 己が着ている服が寝る前と異なる。


 着古した白いシャツにジーンズという軽装が、滑らかな生地で仕立てられた、紺色のパジャマに変化している。


 ボタンを指の腹でなぞり、確認すべく彼へと目を向けた。


「サイズがあっていて良かった」


 考えなど見通しなのか、さらりと応える。

 彼が着替えさせたのか。だとすれば、意識のない人間相手では苦労しただろう。それも新品を用意して。


 月音は警戒を解くわけにいかない。

 だが己を律しても、世話になって、礼のひとつも言わないのは躊躇われる。


 逡巡のうち、潔く頭を下げた。


「色々してくださり、ありがとうございます」


 嫌な沈黙が流れた。


 聞こえていないのかと、そろそろ顔を上げれば。


 目を見開いた彼がいた。戸惑い、だろうか。

 笑顔とは別の、初めての表情に、月音もキョトンとした。


「きみ……いや……」


 言い淀む彼は、諦めたようにため息をつく。

 呆れもまざっており月音は居心地が悪くなる。


「きみには色々教え込まなければいけないな」


 不穏な呟きに反応する暇もなく、導かれて寝室を出た。

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