9話

「何を考えてんだ!」



 泥へと沈んだ意識が、鋭い怒号に一気に覚醒する。

 強引に引っ張り上げられた不快感に眉をひそめて、重たい瞼をあげた。


 眼球を貫き、奥まで突き刺さる朝日が視界を焼く。

 何度か瞬きを繰り返し、まどろみから抜け出した。見慣れない白い天井に、自分が寝ているベッド以外は何もない部屋。


 清潔感のあるカーテンをひいて、窓際に背を預ける人影に身を固くした。


「お前のことを躍起になって探してる!」


 機械を通した声に、人影が揺れた。

 楽しげに、ゆったりと笑みを浮かべて「それを押さえるのは、お前の仕事だろう」と揶揄した。


 人影、月花泰華は黒いワイシャツの袖をまくり、携帯電話を耳にあてていた。


 怒り狂う声は電話から離れている月音にすら届く。


 怒鳴り声に泰華は平然としている。気だるさすら隠す気はない。


「大体お前、現状をわかってるの? なんで女を囲ってんの、のんきかよ! それも陽野月音ってふざけてんのか!」

「今日も誠司は元気だな。尊敬するよ」

「ころしてぇ」


 恐ろしい殺人予告すら聞き流して、泰華はふと流し目に月音を見た。


 目覚めていたのを、知っていたのか驚いたそぶりすらなく、空いた手を軽く振る。清々しい朝にお似合いの、完璧で清らかな笑顔だ。


 泰華は何を思ったのか月音のそばにより、ベッドに腰掛けた。携帯電話をシーツの上へ放り、足を組む。


 月音が、ちらりと画面を見ればスピーカーになっていた。先ほどより鮮明に、相手の声が部屋に響く。



「今、その女に接触したら、疑えって言っているようなもんじゃん。僕にめっちゃ負担がかかるんだけど」


「はは。確かにお前のところの若い連中は、鬼の首を取ったように騒ぐだろうな。大義名分を得たと俺へ殴り込みに来そうだ」


「情報を押さえられるのも時間の問題だぞ」


「だが、己の組織を指揮するのはお前の仕事だろう。月花とは関係ない。自分の責任を押しつけるのはやめろ」


「お前の正論は人を殺せるから禁句だっつってんだろ」

「自分の不甲斐なさで、俺に当たるのは間違っている」



 ぐっと、つまる相手は、しばしの沈黙から大きなため息をついた。


「その通りだよ、僕ではうちの連中をまとめられない」


 ひどく落ち込んだ声に、何も知らぬ月音ですら胸が痛んだ。


 憔悴しきった様子だが、泰華は反対に嬉しそうだ。

 嗜虐的な男なのは察していたが、予想以上に良い顔をする。


「僕の未熟さはわかってるだろ。これ以上挑発的な行動したら」

「そうかもな。だから、俺も動くさ」

「お前は冷酷だから、不安なんだよ」

「お褒めにあずかり光栄だな」

「……虎沢秀喜も、おそらくお前と陽野月音を逃したくないはずだ。二人一緒なんて知られたら」

「ちなみになんだがな」

「っンだよ、人の話を遮るなよ!」

「この会話、月音も聞いている」


 ぴしりと空気が固まったのが電話越しに伝わった。


 重苦しい沈黙の末に、ばこんと何かが叩かれた音が響く。

 地を這う怨念が吐かれた。


「先に言えや、陰険野郎……!」


 忌ま忌ましげな声に、泰華は今度こそ腹を抱えて俯く。

 微かに肩が揺れ、笑いをたえていた。悪戯が成功したと喜ぶ子供のように無邪気さが垣間見える。


 相手は怒りに震えているのか、暴言を続けていた。


「なんでそういうことすんの? 馬鹿なの? やだお前嫌い」

「月音、こちらは僕の友人の誠司。仲良くしてね」

「……っ、おま、ぐ、ぅ……!」


 何か言いたげだが、言葉にならず呻く。


 突然、話を向けられた月音は、碌な挨拶もできない。壊れた機械のように固まった。


 起き抜けだった頭が覚醒して、警戒が強まる。

 泰華の知り合いが一般人の可能性は低い。

 会話からしても、おそらくは。


「はじめまして」


 月音を慮ってか、いくぶん先ほどより柔らかい声音で語りかけた。姿が見えずとも、怖がらせないように微笑んでいるとわかった。


「泰華の友人、凪之なぎの誠司せいじです。性格悪いやつが迷惑かけてごめんね」



 ――


 一気に体温が奪われ、血の気が引いていく。


 その、姓は。


 羽無はなまちを管理する裏の世界で生きる二大組織。月花つきはなと。


 凪之なぎの


 月花つきはなと同等に危険と噂される名。

 まさか関係ない、などありえない。その姓を名乗れるのは彼らだけだ。

 つまりは、この電話の人間は。


凪之なぎの、の、人」


 

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