第四話 逃げない心臓
右の鉄骨を、バランス棒を持って豪さんが進む。
左の鉄骨を、猪から逃れるため、ぼくらが進む。
最初の一歩を踏み出した瞬間――無論ぼくの名前のことではない――感じたのは、案外なんともないという感情だった。
思ったよりも、迫り来る恐怖などはなく。
そのまま勢いで、二歩、三歩と前へと進みだしたところで――狂う。
距離感が、大きく狂いはじめる。
高所において、前だけを向いていると言うことは難しい。
自然と視線は不安定な足下……その遙か下へと続く大奈落へと向けられる。
白波に弾ける音だけが響く暗黒。
一度でも視線が向けば否応なく想像するのは、そこへ落ちていく自分。
瞬間、身がすくみ固唾を飲み下すこととなる。
恐怖。
圧倒的恐怖。
だが、これに
ただでさえ高層ビルの間を吹き抜ける乱気流は強く。
海から吹き付ける風が混じったそれは、もはやどの角度から殴ってくるかも解らない刺客のようなもの。
前から押し返されて踏ん張れば、次は背後から突き飛ばされる。
恐ろしい。
足がすくむ。
けれど。
この羽白一歩には、全てをはじめた責任がある。
背負ったジュラルミンケース越しに、託された思いがある。
だから、吐き出す決意。
己を奮い立たせるための
「生きて帰る!」
そうだ、なんとしても生き抜く。
だからこそ、仲間が大事なんだ。
これは、個人競技に見えて全容は全くの別物。
誰かが先に落ちれば、己の心もブチ折れる。
全員の完走が前提の、生存競争……!
「田代さん! 六車さん! 大丈夫ですかっ?」
豪さんには訊ねない。
彼は既に真っ直ぐ、前へと進んでいるから。
ゆえにこそ、彼女たちを案じる。
「むーりー」
「蔦をもっと張りましょう。田代氏が揺れています」
限界チックな声を上げる肉屋の意見は一端無視し、医者の言葉にぼくは従い、数歩前へと進む。
すくむ足、引きつって、鉄骨に突っかかりそうになる。
それでも、前へ。
既に後方では、〝鬼〟達が解き放たれ、不満に満ちた鳴き声を上げている。
餓えきっているのだろう、正常な判断力とか、猪特有の警戒心などそこにはない。
一頭が、たまりかねたように鉄骨へと突っ込む。
刹那――バチン!
紫電が弾け、断末魔が上がった。
そして、海水面が弾ける音。
何か重いものが、着水した音。
考えたくもなかったが、猪が一匹、落ちたのだ。
この高さでは、水面はコンクリートよりも堅いだろう。
それは即ち、死を意味する。
落下=死!
「無理、絶対無理!」
「目を開けなさい、涙で視界が曇れば目算を誤り落下しますよ」
「無理だってー!」
ぼろぼろと泣き崩れた田代さんが、その場に
これを六車さんが抱き起こす。
ぼくは命綱を震える手で握り、万が一に備えつつ、前へと少しずつ進む。
諦めなどしない。
絶望などしない。
なぜならば、見えていたからだ。
この喧噪の中、なにも聞こえないかのように歩み続ける名優の姿が。
本業が、軽業師だと言われれば納得する。
それほど、甲斐田豪の鉄骨渡りは見事だった。
両手に持ったバランス棒を巧みに使い、風圧を感じさせない重心移動で滑るように前へと進んでいく。
これがサーカスなら、あまりに物事がスムーズすぎて、逆にお叱りが飛んできたかも知れない。
けれどこれは死亡遊戯。
彼が
全長十五メートルほどの鉄骨。
その中程まで、豪さんが到達した時だった。
ギュインと音を立てて、軍用四つ脚ロボットが立ち上がる。
まさか、逃げる?
そんな仕様を作った覚えはない。しかし、この運営ならば、ヒグマを配置するような異常者達なら、十分にあり得ることで。
「……違う」
悪意は、ぼくの予想など容易く上回った。
拍動する心臓を乗せたロボットは、鉄骨を渡りはじめたのだ。
豪さんへと向かって!
§§
立ち上がった逆関節の四つ脚ロボットが、鉄骨へと一歩踏み出す。
絶縁体で脚部が精製されているのか、スパークは起こらない。
ロボットは着実に足場を踏みしめ、迫る――逃げ場のない、甲斐田豪へと向かって。
「おもしろい、心臓に追い詰められるとはな!」
などと豪さんは強がりを言うが、前門の心臓、後門の猪である。
挟み撃ちされていることに変わりはない。
豪さんの命を優先するとなれば、彼が持っているバランス棒でロボットを突き落とすという手段もあるが……
「それは無理だ」
既に彼は、実践していた。
己の心臓が失われるかも知れないなどという恐怖で止まる男ではない。
バランス棒が容赦なくロボットを打ち据えるが、そのたびに軍用機械は巧みに重心を移動させ、時にノックバックし、体勢を立て直してしまう。
そして、またじわりじわりと距離を詰めてくる。
「しまりました、長期戦となれば人間が不利!」
「そんなことは解っている。トウサク、六車、そして……田代」
豪さんが、こちらを見ることなく。
けれど真っ直ぐな言葉を放つ。
「前へ、進め」
そんな。
「聞こえなかったのか? 進め」
「でも」
「田代を守れ、俺が役へと専念できるようにな」
「どうして」
泣きじゃくっていた田代さんが、涙を止めて、豪さんを見詰めていた。
「どうして、あたしに優しくしてくれるの……?」
「ふっ」
口元をニヤリと歪める名優の姿は、この死地にあってなお絵画的であり。
「俺は、おまえの父親の商売を台無しにした」
「え?」
「食中毒など、飲食店にとっては何より嫌う風聞だろう。俺が潰したようなものだ。であらば、報いるのが定め!」
ぐっと、彼が力強く踏み出す。
田代さんの答えはない。後ろを振り向く余力も、ぼくにはない。
けれど彼女は、そのとき。
「甲斐田、豪……あんたって、まさか」
「さあ、さあ、遠くあらんものは耳にも聞け、近くは寄って眼にも見よ。稀代が名優甲斐田豪、一世一代の大演目、
横に構えていたバランス棒を、真っ直ぐに上へと向かって伸ばす彼。
その姿は、曲芸師のそれではない。
――陸上選手のフォーム。
「田代さん! 六車さん! ぼくらも急ぎます!」
名優決死の意図を察したぼくは、とにかく前へと一歩を踏み出す。
足手まといにだけは、なってはならない。
動け、足よ。
走れ、我が身よ!
「いくぞ、心臓。おまえも俺の一部なら、相応の性能を演じてみせろ!」
助走。
そして、一瞬でトップスピードへ。
胸を反らせたままの豪さんが、無謀な速度でロボットへ突っ込んでいく。
このままでは激突し、彼の鍛え上げられた肉体ですら弾かれて海へと落ちる――だが、そうさせないのが、甲斐田豪!
振り下ろされたバランス棒が、狙い澄ましたようにロボットの足下をすり抜け、背後――鉄骨の根元へとぶつかる。
彼は止まらない。
真っ直ぐに、最高速で動く身体は、自然と棒を
いま、しなりによって天空へと肉体を飛躍させる。
棒高跳び。
反動によってかち上げられた豪さんの肉体が宙を舞い、さらにロボットもまた、膨大な慣性と位置エネルギーの変換によって巨体が持ち上げられて、ずるずると背後へ後退。
オートメーション化された人工知能が、落下を阻止して背後へと飛ぶ。
即ち、鉄骨から、ビルの上へ。
だが、一歩足りない!
ロボットは、まだ鉄骨の上にいて。
「往生際が悪いぞ、ロボット三等兵!」
それが、押し込まれる。
落下してきた豪さんの強烈な蹴りを受けて!
ロボットと彼は絡まり合い、ゴロゴロと屋上を転がっていく。
どうなった?
心臓は?
それよりも、豪さんは……?
「はーはっはっはっは!」
闇の中から轟いたのは高笑い。
すくっと立ち上がった甲斐田豪が、その手にしていたのは。
「心臓、確かにもらい受けた!」
ロボットの背中へ接続されていた、心臓で。
『ぶーぶーぶー! イベントに勝者が発生しました。それではこれより――鉄骨を、落下させます』
は?
と聞き返す暇もなく。
ビルの両端、鉄骨の接続部で、炸薬ボルトが、爆発した。
ぼくらの足場が、音を立てて崩れ落ちる――
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