第七話 絶対者~人と鬼を食らうもの~
ありえないという驚愕と、また助けられなかったという激憤が同時に心中を駆け巡る。
しかし、生き延びるための生存本能が。
なによりクリエーターの本分が、そんなことはどうでもいいとねじ伏せる。
状況を理解しろと。
分析し、余さず記録しろと、ぼくの脳髄へ厳命を下す。
【しんにげ】というゲームのどこにも、ヒグマなどという生物は登場しない。
隠しコンテンツとしても、没データとしてもだ。
だが、確かにそれがいる。
眼前に、仁王立ちしているのだ。
全高は優に成人男性の倍。
横幅は三倍以上。
ナイフが生易しく見えるほど鋭利な爪。
生えそろった牙はそれ以上に凶悪で、死を想起させる。
赤茶色の毛並みは、以前調べ物をしたとき、鎗による刺突すら受け付けないと聞いたことがあった。
規格外生物。
獣界の最強。
暴虐生物兵器――ヒグマ。
存在しないはずのバケモノ。
イレギュラー。
それが、おじさんを殺した。
誰かが悲鳴を上げている。田代さんだろうか?
六車さんがこちらへ語りかけているような気もする。どうでもいい。
ぼくは、黙って足下に落ちたおじさんの生首を拾い上げた。
リモコンや両手が朱に染まることも厭わず、首の切断面をマジマジと見詰める。
機械によるそれではない。
間違いなく生物が、
ついでおじさんの顔を見遣れば、見開かれた、命の光が失せた虚ろな双眸と目があった。
――そこで、正気に返る。
「うぐっ」
吐きそうになった。
両足が急速に
想定外の事態に対する混乱?
違う。
運営の悪意に打ち負かされて?
違う。
己の無力さを痛感した?
――違う。
ぼくがまた誰も助けられなかったことは事実だ。
しかしそれ以上に許せないことがある。
いま、羽白一歩は、好奇心を優先したのだ。
その所業が、容赦できない。
ひとの命が失われたのに、心が弾んだなんて、そんなこと認めては――
「はーっはっはっは! 顔を上げろ、愚か者ども!」
誰かがぼくの腕を掴み上げ、無理矢理に立たせる。
甲斐田豪。
彼は真剣な表情で笑っていた。
恐怖、怒り、憎悪、そう言った全てを表情という仮面の下一枚に押し込んで。
全員を励ますように、檄するように、己の職務を
『ぷぎいいいいいいいいいいいいいいい!!』
野獣の咆哮。
そうだ、この場で脅威なのはヒグマだけではない。
人食い猪が、ぼくに――違う、ぼくが抱いている海島さんの頭めがけて突っ込んでくる。
「ふん、前座にもならん」
冷たい声音とともに、豪さんが何かを抜き放つ。
凄まじい炸裂音。
それが吹き抜けるのと同時に、猪の身体が停止し崩れ落ちる。
イケメン俳優の手には、猟銃が握られていた。
日本で許可されているような、弾数と威力を絞られたものではない。
本場である大陸で、数多の獲物を狩り取ってきたボルトライフルの最新式。
30口径ベレッタBRX-1!
ガチャリと排莢を行いながら――それすら、絵画の一場面のように絵になる――彼が告げる。
「次はどうする?」
え?
「言ったはずだ、トウサク。指示を出すのはおまえ、俺は演じるだけだと。己の邪悪を恥じ、嘆き悲しむのは自由だが、それで得られるものは、あとでも手に入る。いまおまえが下すべき決断はなんだ? 後悔しない行動はなんだ?」
語りかけながらも、彼は次の猪を撃つ。
さらに撃つ。
あっという間に三頭を仕留める。
だが、ここで弾切れ。
【しんにげ】ではパワーバランスの調整を兼ねて、本来5発装填できるところを、3発しか実包が込められていないのだ。
これを機敏に悟り、鬼達が大挙する。
『グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!』
吠えた。
ヒグマが。
ビリビリと鼓膜が揺れる、肌が
生理的恐怖を招く雄叫び。
その、丸太の如き豪腕が振り抜かれて、猪の数匹が宙に舞う。
鬼同士が、争っている?
なぜ?
ヒグマは片手間で猪を薙ぎ払いながら、どうしてか海島のおっさんの身体を離さない。
それどころか、おやつを口にするように時折齧りつく。
まさか、これは……そういうことなのか?
「トウサク! 時間はないぞ、どうするっ」
「……撤退です!」
判断は遅すぎた。
それでも、まだ生きる目はある。
生きてこそ、この胸の高鳴りと理性で向き合う時間も作れる!
六車さんがこちらへ駆け寄ってきて、足枷を外してくれた。
彼女は返す刀で、豪さんの足枷もはずそうとする。
けれど、そこへ飛びかかってくる猪!
「言ったはずだぞ、俺は強力武者のヒーローだと!」
……ひょっとすると、この日一番驚いたのは、次に起きた光景かも知れなかった。
気合いを入れた豪さんが、足枷のはまった右足を振り抜く。
強靱な筋肉が二回りも隆起。
ピンと張り詰めた鎖は力を的確に伝導し、重量五十キロにも及ぶ鉄球が猪を打ち据え吹き飛ばす!
「はーっはっはっはっは!」
再び高笑いを決める名優甲斐田豪。
それは、役作りのために鍛え上げられた鉄の身体と、鋼の精神が成し遂げた奇跡だった。
このチャンスを、無駄になど出来るものか!
「豪さん、田代さんが腰を抜かしています。だから」
「おう、お米様抱っこをしてやろう!」
「六車さん、ありったけの補助アイテムを確保してください。そのまま逃避行に入ります!」
返事と同時に全員が行動。
その場から一目散に撤退を開始する。
後には、血で出来た沼の中で鬼とヒグマが争う吠え声が。
まるで地獄のように、怪獣大戦争にように、いつまでも続いていた。
かくて、二人目の脱落者が現れる。
彼の名は海島孝雄。
ぼくはおじさんから――きっと多くのものを、託された。
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