第4話 彷徨

 ──物心がついた頃から、目を閉じるといつもこの岸辺に立っている。

 いつ頃から見始めたのかも分からない、「夢」だとはっきり知覚できる夢。御影の場合、それは日の落ちきって、闇に染まったどこかの岸辺から始まるのがお決まりであった。

 波の音の他は一切の音が聞こえない真っ暗な闇の中を、柔らかな砂の感触を頼りに手探りで歩いていく。すると、砂を踏み締めていた素足が凍えるような冷たさを拾う。その瞬間、どこからともなく青い光がぼんやりと浮かび、岸辺の静かな波を、水平線の向こうまであまねく照らしていって。柔らかいような、悲しいような瑠璃色の光が次第に明るさを増していくのにたまらず目を閉じると、いつものように目が覚める。

 以前、高校の同級生に夢の話をしたことがあった。

「ホタルイカの身投げみたいだな、富山湾のさ。俺も見てみてぇなぁ」

 彼はそんなことを言って笑うものだから、妙に気にかかり、図書室で本を漁って知ったホタルイカの生態。富山湾で毎年晩春に、儚く光を放ちながら岸辺に打ち上げられるホタルイカの亡骸を見て、美しいという感情より先に「恐ろしい」と感じてしまい、本を慌てて戻して逃げるように図書室を後にした。それ以来、御影にとってこの夢を見るのは一種の責め苦のようなものでもあった。


「……また、あの夢か。最近多いな」

 精神を病んでから、御影は毎日のようにその岸辺に立っている。少しだけ重苦しくなる心臓を服越しに抑えて、重たい体をゆるゆると起こした。

 ──今日は商店街へ行く日だ。いつもの如く美貴子におにぎりを渡されながら、もう一度末續町のパンフレットに目を通す。「心の和商店街」と書かれた素朴な文字を二、三度指先でなぞり、画材の詰まったリュックをしっかりと背負って「さざなみ」の暖簾を潜った。

「そういえば、春海さんはどの辺りに住んでいるのだろう」

 商店街への道すがら、ふと思い浮かんだのは昨日出会った不思議な少女。末續の住人であることは確かであるはずだが、勢いに気圧されて彼女のことは何も知らぬままに別れてしまった気がする。商店街で会えたらいい、と普段の自分らしからぬ期待を抱きながら、晴れた住宅街をゆっくりと歩んだ。

「心の和商店街」は、元々は「しおさい商店街」という名前のアーケード街だったらしい。震災で起きた津波によって更地になった末續の町を、住民達が力を合わせて立て直したこじんまりとした商店街が「心の和商店街」だという。それでも、市場や商店街の雰囲気に慣れていない御影の目には、漁師町独特の賑わいが垣間見える雰囲気のあたたかな商店街だな、という印象を受けた。

 海沿いだからか、やはり鮮魚のお店が多くい。色とりどりの魚の入ったタライを前に、店主達が声を上げて客引きをしているのが印象的だった。青果店や特産の「すえつぐのぼり」の店のような一風変わった店も点々と立ち並んでいて、気が沈みがちな御影も、見ているだけで心がうずうずとしてくるような高揚感を覚えていた。

「おーい! そこのお兄さん!! 」

 突然呼びかけられ、思わずびくりと肩を竦めてしまう。声の掛けられた方を振り向くと、そこには惣菜屋の幟と、鉢巻姿の店主の男性。

「あの……俺になにかご用ですか? 」

「もしよかったら、かじきメンチでも買っていかない? うちの名物なんだよ」

 そう言って店主が指さしたのは、「目玉商品」と書かれたポップが目をひくきつね色のメンチ。香ばしい香りが漂ってくるのに、腹の虫がくぅと現金な音を立てた。

「お兄さん、ここの人じゃなさそうだからさ。ローカルなグルメを楽しむのも、旅の醍醐味だぞ〜」

 そう言って気のいい笑みを浮かべる店主に、じんわりとした感謝と、それを素直に受け取ることのできない一抹の申し訳なさが湧き出てくる。とはいえ食べ物に罪はないので、有難く相伴に与ることにした。

「ありがとうございます。それなら、二つもらえますか……? 」

 もし出会えるのならば、あの子にも分けてあげたい。そんな思いで2つ分のメンチを注文する。早速近くの休憩所で一口齧ると、サクサクの衣の触感が面白く、食べ進めるうちにじゅわりと肉汁とカジキの旨みが溢れて、思いの外美味しいメンチだった。持ってきたおにぎりとの食べ合わせも良く、ご飯のお供に合いそうだ。

「今度来た時も買おうかな、これ」

 そう呟いた御影の顔は、常の浮かない顔が嘘のように、柔らかく緩んでいた。


 その後も商店街を回りながら、簡単なクロッキーをして筆を慣らすことに専念する。手の震えは治まらないものの、次第に形をきちんと捉えられるようになっている気がして、思わず堪えきれない笑みがこぼれた。

「もう日が暮れる時間か……」

 店のあちこちに灯りがともり始め、夕暮れ時に差し掛かったことを知る。随分と集中してしまった。また明日来ることにしようか。そう考えながら、御影は一つだけ余ったメンチの袋を僅かに握りしめた。


 サイズの大きな黒いセーラー服は、ついぞ見かけることがなかった。

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キャンバスの君に 鴉葵 @amane_aidu

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