第3話 クロッキー
春海と名乗った少女と控えめに握手をし、改めて御影は彼女をまじまじと見つめた。
少し古めかしくも見える黒のセーラー服は少々サイズが合わないのだろうか、袖が指を隠すほどに伸びている。御影は他人の
「ええと……春海さん、でいいのかな。春海さんはこの町の学生さん? 」
「はい、
無垢な瞳でそう尋ねられ、思わず言葉に詰まる。なんとも言えない息苦しさが、じわじわと波に飲まれるように、御影の呼吸を苛んだ。
「あ……いえ、俺は大学生です。たまたま休みでこっちにいるだけ」
苦し紛れに出した答えに春海が訝しむ様子はなく、そうなのね、と目を丸くして驚いている。それに多少の後ろめたさを感じながらも、相手が純粋なことに御影はほっと安堵の息をついた。
「御影さん……でいいですか? もしかして、美大生だったりするんですか? 絵を描くのが好きって言ってたので」
「あぁ……はい、そうですね。東京の歌川美術大学に通ってます」
歌川美術大学というのは、国内でも指折りの美術大学のことである。御影の周りの美術に疎い友人でも「歌川」と聞くと「ああ、あの」となる程度には有名な大学であった。
「へえ! 歌川っていったら、入るのがとっても難しいんですよね。御影さんってすごい人なんだぁ」
春海の悪気ない賞賛に対して、御影は不思議と暗い考えが浮かんでこなかった。本心からの言葉というのが丸い瞳の輝きから見て取れるのもあるが、何よりその振る舞いや口調から、彼女の「絵が好きである」という先程の言葉に得心がいったのである。
「そこまですごい人でもないですよ。俺より上手い人は沢山います」
「そうですかね? あっ、私、御影さんの作品見てみたいです! 今持ってたりしますか? 」
参った、と御影はあからさまに顔を顰めた。休学の手続きをした日に、携帯やパソコンに残っていた自分の作品のフォルダは全部消去しており、今手元には見せられるような作品が何もない。かたりと、リュックの中でプラスチックの筆箱が嫌な音を立てた。
「……すみません、見せられる絵は持っていなくて」
謝罪の言葉を口にしながら、御影は自分の作品を見せる機会を失くしたことに悔しさを抱いているのに気づき、はたと驚いた。大学に入って、酷評を受け続けてから、両親にすら気後れして見せられなくなった絵。それを、目の前の初対面の少女には見せてもいいかという気持ちになっている。なんとも奇妙な感覚に、御影は顔を
「そっかぁ……御影さんの絵、見てみたいのになぁ」
春海の落胆したような声で会話は途切れるだろうと思い込んでいた御影は、次の提案に咄嗟に反応することができなかった。
「じゃあ、今から一緒に描きましょう! クロッキーとか、授業でもやりますよね? 」
「はい…………えっ?」
きょとんと首を傾げながら、当然だとでも言うかのように、春海は言葉を続ける。
「だって御影さんがどういう風に絵を描くのか、とっても気になりますし! 御影さん、見たところそんなに忙しそうじゃないので。クロッキーくらいなら、お時間大丈夫ですよね? 」
「あの、ええと…………どうして、俺にそこまでしてくれるんですか」
たかだか美大生の絵にこんなにも
「だって、絵が好きな人と一緒に絵を描くのは楽しいでしょう? それだけです! 絵を描くのに特別な理由なんて、何にもいらないんですよ」
子供の考えそうな事だと
────そういえば、大学に入ってからは、何かと絵を描くのに理由をつけていたような気がする。「課題だから」「講評のため」「勉強しなければ」と、理由は様々だったが、絵は「好きで描くもの」から「描かなければならない理由のあるもの」に変わっていた。
特に理由を持たずに筆を走らせる。それに興じてみることで、自分の今の状況が変わるのならば、目の前の少女の突飛な提案に乗るのもいいかもしれない。
「……わかりました。何分にしますか? 」
「はい! 10分でどうですか? 」
そうして、2人は向き合って座る。静かなさざ波の音が砂時計の代わりとなり、まるで水底に深く潜るような、密やかな10分が始まった。
気持ちを新たにしたところで、そうそうすぐに変われるものではないなと御影は思わず自嘲する。描いている間の手の震えは相変わらずで、対面に座る春海を描いた輪郭は、常よりブレが目立っている。昔の方が形をしっかり捉えられていたのではないかとすら思えてきてしまう。……これでは春海に落胆されるのは勿論、歌川の名前を落としてしまうのではないかと、御影の気持ちは負の方向に傾いていくばかりだった。しかし、そんな御影の消沈とは裏腹に、春海は顔を綻ばせて楽しそうに御影のスケッチブックを眺めている。
「あの、春海さん。そろそろ返してもらえませんか」
「ええっ、もう少し、ダメですか? 」
「それはあまり上手くいかなかった作品なので……もう少しよく描けたものをお渡しした方がいいでしょう? 」
そう
「素敵だと思いますよ、この絵。御影さんがよければもらっちゃいたいぐらい」
──私の学校、小さくて美術部がないんで。クロッキーを他の人としたの、ほぼ初めてなんです。
そう、ぽつりとこぼされた言葉には、ひとさじの寂しさと
「……なら、その絵はあげます。また上手く描けたら、その時は見せますから」
「え、いいんですか!? 」
「そんなにまじまじと見られたら、嫌とは言えませんよ」
御影の提案に喜色を満面にする少女を見て、不思議な懐かしさが御影の胸に去来する。それは手放しに絵を褒められる感覚に対してなのか、別の要因からなのかは分からなかったが……どうやら御影は、春海が無邪気に笑う姿を眺めることに親しみを感じているようだった。
「次は、ってことは、またクロッキーしてくださるんですか? 」
「そうですね……またお会いできたら」
「やった!じゃあ約束です。指切りげんまん」
そう言って両の小指を絡めて離す。にっこり笑って「それではまた」と小走りに港を去っていく春海を見送りながら、不思議な少女だな、と御影は呟いた。
強引ではなく、かといって奥手でもなく。丁度いい距離感を保ちながらこちらの間合いに自然に入ってくる。すっかり人間不信になっていた御影がパーソナルスペースに入ることを許してしまうほどの、人との距離のとり方の巧みさに、何故か既視感を覚えていることに気づき、僅かに首を傾げた。
「…………とりあえず帰るか」
最後に名残惜しく
「おかえり! ……どうしたの? なんだか出掛ける前より元気そうね」
さざなみに戻る頃合には、すっかり日も暮れ始めていた。会うなり美貴子からそんなことを尋ねられ、そんなに変わっているだろうかと御影は思わず頬に触れる。
「何かいいことでもあったのかい? 」
「いいこと、ですか。そうですね……『仲間』ができたというか、まあそんな感じですかね」
初対面かつ、一度クロッキーをしただけの相手に「友達」などと
「話しやすい子がいると気楽に過ごせるからね。商店街の皆も気のいい人たちだから、今度行ってみな」
「そうですね、明日は商店街の方を散策してみようかなと」
その後誠司も交えて取り留めのないことを話しながら、暖かな食卓の時間は過ぎていった。
部屋に戻って、今日の出来事を今一度振り返る。不思議な少女と、久方ぶりのクロッキー。
「…………上手くは描けなかったけれど、楽しかった、な」
ぽつりと誰にでもなく投げた呟きは、空気に溶けるように消えていった。
明日、商店街で彼女と出会えるだろうか。そんな浮き足立ったことを考えている自分に少し呆れながらも、照明の光を落とした。
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