第2話 出会い

 その後、半ば引き摺られるようにして民宿「さざなみ」の暖簾をくぐると、ちょうど夕飯時だったのか、ふわりと魚を焼いた香ばしい香りが玄関にまで漂っていた。

「そこの部屋に旦那がいるから、ちょっとゆっくりしててね!今からメヒカリを焼いてくるからさ」

 民宿の女性─美貴子みきこさんというそうだ─は、ぱちりとウインクをしながら、向かって右手にある襖を指した。……他人のいる空間にお邪魔するのは、正直なところかなり気が引けるのだが。そんなことを考えながらも、恐る恐るふすまを引くと、6畳ほどの居間の中央に置かれた炬燵こたつに、暖かそうに湯気を立てている料理の数々が並んでいる。その一角に、美貴子とは対照的な、厳格そうな面持ちをした男性が腰掛けていた。

 突然の侵入者に思わず顔を向ける男性とがちりと目が合う。不意に、絵の講評をする教授の難しい顔が脳裏を過り、はっと息が詰まった。

「あ、あの……」

「…………お前さん、あきらくんかよ?」

 とりあえず何か話そうと口を開く前に、そう尋ねられておずおずと首肯する。途端、男性の眉間の皺が緩み、くしゃりとその顔に笑みが浮かんだ。

「なんだぁ、大きくなったなぁ。引っ越してからなーんにも音沙汰がなかったからよ、元気そうでなによりだわい」

 そう言いながら座れと促され、御影は所在なさげに向かい側に腰を下ろした。

「お父さんとお母さんは元気かよ?」

 一人で来たことを訝しんだのか、男性─誠司せいじさんと聞いた。何となくピッタリな名前だ─がそう尋ねる。

「はい、おかげさまで2人ともとても元気で。来月結婚記念日なので、旅行に行くと言っていました」

 殆ど初対面の、一方的に顔を知られている相手と二人きりという状況に若干の閉塞感を覚えながらも、布団の中で両手を擦りながら御影は訥々と答える。先程までの叩きつけるような浜風で凍えていた身体がじんわりと温まっていくのに、ふうと安堵の溜息が漏れた。

「そうか、もうそんな時期か…………」

 両親を懐かしんでいるのだろうか、少し遠くを見つめる誠司に、ふと気になって御影は口を開いた。

「さっき美貴子さんから、うちの子ともよく遊んでたのだとお伺いしました。その……その子は、今なにをしているんですか?」

 自分は覚えていないけれど、その子が今も末續にいるのならば、昔話をしながら気を紛らわすこともできるのかもしれない。そんな期待が胸に膨らむ。…………しかし、それを聞いた誠司は、一瞬目を曇らせ、その後僅かにぎこちない笑顔を作った。

「あぁ、美貴子が、そんなことを…………悪いなぁあきらくん、うちのは今仙台の大学さ行って、向こうが楽しいからっつってこの冬は帰ってこねだよ」

 あきらくんが来ると分かったら、喜んだべなぁ。そう言って誠司はやれやれと肩を竦める。その言葉に、むくむくと膨らんでいた希望の風船が、しゅうっと音を立てて萎むような心地がした。

「そうですか。それは残念です」

 自分をよく知る同年代の人と、話ができたかもしれないのに。そんな落胆がじわじわと広がっていくのに、きゅ、といじっていた手を握った。

「春休みになったら、帰ってくっかもなぁ。あきらくんには本当にお世話になってたからよ」

 そう言って笑う誠司を見て、己の利己的な考えに少々申し訳なさが募る。と、背後から襖が開く音がして、美貴子の快活な声が居間に響いた。

「お待たせ!メヒカリの塩焼きとあおさの味噌汁だよ。あきらくん、魚は苦手じゃなかったよね?」

 炭でじっくり焼けた魚の食欲をそそる香りと、味噌と磯の優しい匂いに、思わずくうと腹の虫が鳴く。はい、と頷くと、美貴子は炬燵の天板にそれを並べ、誠司と御影の間の一角に腰を下ろした。

「いただきます」

「い、いただきます……」

 手を合わせて言う2人に遅れ、御影も手を合わせる。湯気を立てたメヒカリに箸を通すと、ほろほろと身が崩れて思わず喉が鳴った。…………そういえば、こんなに食欲が湧いたのはいつぶりだろうか。やはり、見慣れぬ土地に訪れているのもあって、知らず知らずのうちに気持ちが上向いていたのだろうか。そんなことを考えながら、御影は白米とともにそれを口に含んだ。白身魚らしく淡白でふんわりとした味が、長旅で疲れた身体に沁みる。あおさ入りの味噌汁も海藻の出汁が染みた素朴な味わいで、夢中で箸を動かしているうちにすっかり皿が空になってしまった。

「あきらくん、いい食べっぷりね。そんなに美味しそうに食べてもらえると、おばさん嬉しくなっちゃう」

「……いえ、実は、最近はあまり食欲がなくて。久しぶりに一食分をきちんと食べられて、自分でもびっくりしてて…………」

 しどろもどろになりながら話して、御影はしまったと口を閉じた。旅先では病気のことは話すまいと決めていたのに。御影の言葉を聞いた美貴子の表情が、快活なものから不安げに揺らぐのを見て、また自罰的な感情が芽を出し始めた。

「あきらくん、あきらくんが嫌じゃないんだったら、何があってここに来たのか話してくろ」

 誠司の気遣うような言葉にすら申し訳なさを抱いて、食事中の喜びもすっかり萎んだまま、ぽつりぽつりとそれまでの経緯を端折りつつ話した。

「なるほどねぇ、大変だったのね」

「そんなことはないです。ただ、俺に才能がなかっただけで」

 気遣われるのは苦手だ、というより、こんなにも優しく暖かい人達に、自分の情けない姿を気遣ってほしくはない。そんな思いで美貴子の言葉をやんわりと否定する。

「そんなことねぇよ、あきらくんが絵に真摯な子なのは、昔から知ってるからなぁ。そういうことなら、気が済むまでここに寝泊まりしたらいいべ」

「えっ」

 数泊したら去るつもりでいたため、予想外の言葉に顔を上げると、笑みを浮かべて頷く夫婦の姿があった。

「末續はなーんもねぇけど、何にもねぇとこでゆっくりすんのも心には大事だべ?」

 そう言って固く握っていた手に触れてくる誠司に、御影は何も言えないまま再び視線を落とした。


「あきらくんの部屋はここね」と用意された部屋は、民宿の2階の角部屋で、どうやら昼間だと窓の外から海を眺められるらしい。気遣われたのか偶然なのかは分からないが、今は一人になりたい御影にとって、ぽつりと孤立したようなその部屋に宛てがわれたことはありがたかった。

 程よい広さの部屋には、机と座布団、布団一式に石油ストーブといった、最小限の家具が揃っている。これなら過ごす分には困らなさそうだと御影は安堵し、そしてこれからのことを考える。

 成り行きで当面の衣食住は何とかなったものの、明日から何をして生活すればいいのだろうか。長年絵を心の拠り所として生きてきた弊害か、絵を描く以外の過ごし方が分からずに途方に暮れてしまう。

「ゆっくり、か…………」

 もう一度、駅で手にしたパンフレットを眺める。手描きの港の文字が目に留まり、唐突に「海が見たい」と思った。

「明日は、港の方まで歩いてみよう」

 そう御影は誰にともなく呟き、寝間着に着替え始める。蛍光灯の白い灯りが消える頃には、時刻は12時を回っていた。




 どんよりとした曇り空ではあるものの、昨夜ほど風は強くなく、散策するのにはいい日であった。美貴子に港の方面へ出てくると声をかけ、画材と財布、携帯のみショルダーバッグに移し替えてコートを着込む。民宿を出る直前、美貴子がちょいちょいと手招きをするのについていくと、「はい」と風呂敷に包まれた何かを手渡された。

「これは……?」

「おにぎりだよ。お腹が空いたら食べてね」

 罪悪感は消えないものの、「細かなところまで気の回る人だ」と御影はにこにこと微笑む美貴子に対して胸が熱くなるような思いを抱いた。

 灰色の空の下、港までの数百メートルほどの道程を、ゆっくりとアスファルトを踏み締めるように歩いていく。通りがかる人にぺこぺこと黙って頭を下げながら歩いていると、家並みが開け、不意にぱっと視界が明るくなった。

 波止場はとばに繋がれた数隻の船が、ゆうらりと波のさざめきに揺れている。遠くには新しくできたのであろう防波堤が真白く輝いており、それと対照的に海は冬であることも相まって黒みの強い藍色を呈している。こじんまりとした漁港ではあったものの、晴れていれば絵になったであろう光景が広がっていた。

「……また絵のことを考えてしまった」

 すぐに考えが絵に直結する己に辟易しつつも、御影はどこか座れる場所を探し始める。波止場に降りる階段には誰の形跡もなかったため、暫くそこを借りることに決め、腰を下ろした。

 ぼんやりと黒く光る水面を眺め、潮騒しおさいの心地良い調べを聞きながら思索にふける。大学のこと、絵のこと。一度絵から逃げてしまったのに、どのようにしてまた向き合えば良いのだろうか。

 そんな暗い考えがじわじわと脳内を侵食していくさ中、「あの、」と後ろから声を掛けられた。

 こんなところで一人黄昏たそがれている男に何用だろうかと思い、振り返る。この町の学生なのだろうか。黒いセーラー服に、真っ赤なタイが揺れている。肩あたりで切り揃えたさらりとした髪から覗く丸い瞳は、決して整っているわけではないが、どこかで見たような愛嬌のある顔をしていた。

「あなたも、海が好きなんですか?」

「いえ、俺は好きと言うほどでは……ただ、絵になるなと思って見ていて」

 絵、という単語に、大きな瞳を丸く開いて、あらと反応を示す。

「あなたも絵を描くの?わたしも!」

「えっ……」

「あ、すみません。名乗らないで話ばっかり……私ははるみ。春の海と書いて、春海です」

 そう言ってふわりと笑いながら手を差し出してくる彼女に、御影は虚をつかれ、躊躇いがちに手を伸ばした。

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