キャンバスの君に

鴉葵

第1話 帰還

「次はー、終点。終点『末續すえつぐ』です」

 がたん、がたんと響く車輪の音が次第に緩やかになっていく。全線開通のニュースも久しくなったローカル線、東京駅発の各駅停車。終点を告げる気だるげな車掌のアナウンスに、暖房の暖かさで微睡まどろんでいた頭がじわじわと醒めていく。

 ぎっ、と音を立てて列車が停り、ぴんぽんと場違いな音を立てながら扉が開いた。真冬の浜風が肌にいたく沁みる。およそ10年かそこらぶりに戻ってきた故郷ふるさとの、寂れた無人駅のホームを独り跨ぐと、ざわりざわりと潮の香りが鼻を掠めた。物心ついてからは滅多に訪れた覚えのない海を思わせるそれに何故か懐かしさを感じ、思わず目を細める。こじんまりとした駅のホームは自分以外に人影もなく、御影みかげの思っていたほど「生まれ故郷へ帰ってきた」という感慨は湧いては来なかった。

「ここが俺の故郷、末續町か…………」

 白い息をはぁ、と吐き出す。すっかり日も落ち、駅の灯りだけが頼りなさげに灯っている構内で、都内とは違って寂しさに包まれた町だなとセンチメンタルな感想を抱いた。



 ──幼い頃から、絵を描くことが何よりも好きだった。最初に触れたのはクレヨン。次に興味を持ったのはサインペン。小学校に入り、初めて絵の具を使った時の、色と色が混ざりあって新しい色を産む感動を忘れたことはない。

 中学に入り、クロード・モネの『睡蓮』と会い、油彩に魅了され終生の友にしようと決めた。取り憑かれたように美術室に入り浸っては、テレピン塗れで帰宅してからもデッサンやクロッキーを繰り返して寝食を忘れるような学生だった。

 そんな画狂とも言うべき学生生活を送ってきたのだから、「美大に行きたい」と進路を志すことは自然のことだっただろう。級友にも美術の先生にも「あきらは絵は上手いもんな」と太鼓判を押されていたし、実際、それなりに展覧会やコンクールでの受賞経験はあった。

 幸いサボりや赤点の少なかった御影は、普段の授業態度も悪い方ではなく、内申点は推薦入試を受ける資格を得るのに申し分ない高さであったため、2年の後期からは推薦に向けてひたむきにデッサンを繰り返す毎日を送っていた。

 日々の努力が功を奏し、分厚い入学案内書の封筒が手元に届いた時は、あまりの嬉しさに写真を撮って方々に送りつけたものだった。あまりに順調に物事が行きすぎたせいだろうか、その時の自分は「自分は芸術の神に選ばれたのだ」と勘違いも甚だしく思い上がってしまっていたのだと、今なら思う。


「御影くんの絵はどうにもつまらないね」

 大学に通い始めてから、耳にたこができるほどに言われた言葉には、いつも激しいノイズがついて回っていた。

 教授。学友。定期的な講評会で出会う、高名な画家達。みな異口同音に、己の絵を一瞥いちべつしてはそう口にする。

「技術は足りているのだが…………」

 そんな、批評に近い言葉はまだいい方だ。

「この絵で推薦に合格したのか?信じられん」

「君は本当に絵が好きなのかね?」

 ……じり、じりと耳を焼くような痛みとともに、硝子がらすの破片のような言葉を拾い集めて、「はい」と受け止めていく。

「すみません。次はより良い作品を描きあげます」

 そう言って何度も繰り返し、壊れた人形のように頭を下げる。痛みに溢れた言葉でも、己にとっては大事な「指導」なのだから。そう言い聞かせて、基礎から自分の絵と向き合うように努めた。

 初めの頃はそれでも学業とアルバイト、趣味の絵を両立させられていたのだと思う。──しかし、そうしているうちに、朝のアラーム通りに起きることができなくなった。美術に関わる授業の直前に、酷い頭痛がするようになった。家に帰ってから、入浴することができなくなった。…………そうして、鉛筆を持つ手の震えが止まらず、まともな線すら引けなくなった頃には、大学はおろか、近所のコンビニにすら一人で行けなくなっていた。

 元旦、久しぶりに帰省した際のやつれきった顔を見て狼狽ろうばいする両親を目の当たりにし、初めて「限界です」という嗚咽おえつが漏れた。

「休学して、田舎ででも過ごしたらどうだい?心が疲れているんだ。旅をして、洸の心に色が戻ってくるまでゆっくりすればいいさ」

 そう言って休学の手続きを何から何まで手伝ってくれた父親には、ほとほと頭が上がらない。情けなさと罪悪感、美大生としての最後の矜恃きょうじであるとでも言うような、スケッチブックと水彩絵具一式をリュックいっぱいに詰め込んで、両親に見送られて東京駅を発ったのが今朝のことだった。

 ──これから、どうすればいいのだろう。

 そんな漠然とした不安と焦燥感に駆られながら、御影は行く宛てもなく改札から一歩踏み出した。


 末續という町は、12年前──御影がまだ7歳の時だ──に、震災で家が流されるまで親子で住んでいた町、らしい。というのも、御影はその頃の記憶が何故か曖昧になっていて、その前の年に入学式があったことと、相変わらず絵を描く子供だったことぐらいしか覚えていないのだ。己の記憶の欠落に思うところはあれど、忘れてしまったものは仕方がない。心持ちは新しい町の観光気分だ。

 尤も、観光と呼ぶには何もなさそうな所だなと、御影は暗い路地を見渡しながら考えていた。駅の入口で町のパンフレットを手にしたが、どうやら小さな漁港と灯台、薬師堂の他には目立ったランドマークはないらしく、閑静で辺鄙へんぴな港町という印象を受ける。もう少し更地が多いのだろうかと想像していたが、その名残を感じさせないように建ち並ぶ家並みを見て、それは杞憂だったのかと己の乏しい想像力を恥じた。


「あら、君、御影さんちのあきらくんじゃない!?」

 突然掛けられた言葉に、一瞬反応が遅れる。はっと俯いていた顔を上げると、「民宿 さざなみ」と書かれた暖簾の合間から、ふくよかで気立ての良さそうな初老の女性が顔を出していた。

「え、と…………俺のこと、ご存知で?」

 目を合わせられず、暖簾の文字を凝視しながら尋ねると、逡巡しゅんじゅんしたような表情を浮かべ数秒押し黙った後に、彼女は快活な笑みを浮かべた。

「あきらくんがちっちゃい時に、隣に住んでたの!よくうちの子と遊んでもらってたのよ〜。どうしたの、ここが懐かしくなっちゃった?」

 そう訊かれ、思わず言葉に詰まる。「大学に行けなくなってさまよっている」なんて口が裂けても言えず、自ずと視線が落ちてしまった。

「あー…………まあ、そうですね、そんなところで。ちょっと久しぶりに戻ってきたくなって、行き当たりばったりで来ちゃいました」

 見るからに誠実そうな人を、仕方なしとはいえ騙している。その事実に後ろめたさがじわじわとせり上がってくるのを悟られないよう、無理やりに口角を上げる。

「そうなの?じゃあ、もしかして、今晩どこに泊まるかも考えてなかったの?」

 ──図星すぎて言葉も出ないとはこのことである。不格好な笑顔が凍りついたまま、かひゅ、と不器用に笑い声を上げてしまい、思わずその場から消えたくなった。女性の方はというと、そんな御影には構いなしに、ぶつぶつと何か独り言を呟いている。

 …………よし、やっぱり今からでも帰ろうか。そんな考えが頭を過ぎったその時。

「それなら、うちに泊まっていきなよ。お代はいらないし、ちょっとお手伝いしてくれればいいから。困ってるんでしょ?」

 その言葉とともに、ぽんと肩を叩かれる。思わず目を見開いて女性の目を見つめると、にかっと笑みを浮かべて女性は言葉を続けた。

「久しぶりの末續を、数日で去るのは勿体ないでしょ?あきらくんの住んでるところと比べたらひどい田舎町だけど、それでもいいところはたくさんあるから!」

 そうと決まればとばかりに手を引いてくる女性を制す。どうしたの?と首を傾げる女性のことがますます分からなくなり、堪らず御影の口から疑問が零れた。

「どうして、そんなに良くしてくださるんですか」

 ──こんな、余所者で行く宛てもない学生一人に。そう続ける勇気はなく、ただはくはくと言葉を探しては躊躇ってしまう。

「なんだ、そんなこと」

 まるで子供を見るような目で御影を眺めながら、女性は当然だとばかりに告げた。

「困った時はお互い様、だろう?ここはそうやって復興した町だもの。こういう時はお互い様でいいのよ」

 …………その、取るに足らない一言で、凍えるほどの風の音が少しだけ弱くなったような気がした。

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