第42話 涼 29歳 春 ハウスコンサート

 涼はロウの家を出て、ケモノ道を逆にたどり、山を登っていった。想像通りにかなり厳しい登りだったが、ロウや監督の動きや発言を思い出しながら、楽しい気分で登っていった。


 登りの途中で、涼ははっと気づいた。そうか、伊那が「ラインができる」と言っていたのはこういうことだ。この森閑とした山の中に、明らかに「人の気配」が漂っている。それは周囲のしんと静まり返った深い森の中で異質なエナジーを放っている。なるほど、だから伊那が「動物たちが迷惑する」と言ったのだ。

 といっても、このラインがどうやったら元通りになるのか、それは涼にはわからなかった。エリクサに戻ったら、伊那に聞いてみようと涼は思った。


 涼がエリクサに到着し、玄関のベルを鳴らすと、伊那は掃除中だったらしく、髪をひとつに束ねてTシャツにジーンズという初めて見る姿で出てきた。

「あら、涼さん、早かったのね」

「二時になったらお客さんが来ると思ったので、早めに車を取りにきました。伊那さん、珍しい格好ですね」

「いまはハウスキーパーの時間だからね。仕事を早くこなすためよ。私はつねに効率化の公式が頭の中を駆け巡っているの。よかったら教えるわよ」

「いや、あの、僕は理解できると思わないです・・・」

「あら残念ね。ロウは理解しようと努力していたわよ」

 涼は、ロウが仰天したのはやっぱり、国際恋愛ではなくて伊那の特殊性じゃないか、とそっと思ったが口に出さなかった。

「ロウさんが竪琴を取ってきてほしいと言っているんです」

「竪琴を使うの?ハウスコンサートをするのかしら?」

「監督がロウの歌を聴きたくて」

「そうでしょうね。昨日は話に夢中で音楽までいきつかなかったから」

「ロウさんのために作られたオペラの歌を聴きました」

「Fino all’ultimoかしら?」

「そうです。素敵な歌でした。そういえば伊那さんは、ほとんどロウさんの舞台を観ていないのでしたっけ」

 涼は、昨晩、ロウと伊那がそんな話をしていたことを思い出して言った。

「ロウが家で練習しているのは聞いていたわよ。どういう歌なのか、ロウがどうやって歌うのかは知っているわ。でも、家で歌っているロウは私のロウだけど、舞台のロウは私のロウじゃないもの。私は舞台のロウには興味がないの」

「そういうものですか?!」

「ほかの女性は知らないけれど、私はそうなの。涼さん、今更、私が変なことに驚かないでね」

「今更驚いているわけではないですが・・・」

 涼はそう言いながら、もしも自分の恋人がいっさい舞台を観に来なかったらどう思うだろうと考えたが、想像がつかなかった。

 

 伊那が竪琴を取って戻ってきて、涼に手渡した。

「ハウスコンサートなら私も参加したかったけれど仕方ないわ。楽しんできてね。明日からは旅行に行くのでしょう?」

「そのつもりですが、どこに行くかはまだ決まってないです。そういえば伊那さん、ケモノ道にラインができてしまう、と言っていたけれど、あれはどうやったら戻るんですか」

「あら、涼さん、ラインがわかったの?」

「僕はひとりで山を登ってきたから、なんとなく人の気配がするなと思ったんです。おかげで迷うこともなかったですが」

「三人とも波動が強いからね。この三人が揃って通ったら大変なことになるなぁとは思ったわ。動物たちがどうやって通るかというと、道路と同じよ。ここに人間の道がある、と認識したうえで、いまは人間がいないかどうかを確認して渡っていくの。かなり大きなエネルギーラインになってしまったけれど、だからといって動物たちが通れなくなるわけではないから気にしないで。

 エリクサから山の神に会いにいく道は、ロウも涼さんも神のことを考えているから「人間の道」のエネルギーラインはできていないの。でもエリクサから下るときは、普通に人間として降りていくでしょう。だから人間の道のエネルギーラインができちゃうの」

「だからあの道には動物は姿を見せないんですね」

「そうそう。動物たちから敵として警戒されているのよ」

 伊那はそう言って笑った。


 涼は竪琴を車に積み込みながら、このまま旅行に行くなら、伊那とは今回ここでお別れなんだなと気づいた。

「伊那さん、次にいつ来られるかわかりませんが、僕の部屋をよろしくお願いします」

「きっとすぐに監督に連れられてまたくるわよ。そもそも、北極星が監督を探し出したのじゃないかしら。涼さんに早く戻ってきてほしかったから」

 伊那はふふっと笑った。

「そうかもしれませんね」

「涼さん、素晴らしい映画が出来上がることを楽しみにしているわ。じゃぁ、お別れの挨拶はアメリカ式にしましょうよ」

「そうですね」

 涼は伊那をぎゅっとハグして、いってきます、と言った。さすがにアメリカ式のキスまではしなかった。伊那はにっこり笑って、いってらっしゃいと返した。

 涼が車に乗り込んでエンジンをかける。最後にもう一度、伊那に手を振った。伊那が笑って手を振り返す姿が少しずつ見えなくなってくる。涼は車の道を下って、ロウの家に戻っていった。


 ロウと監督は二人で一緒に料理していたようだ。ランチはイタリアンだった。そういえばイタリアの男性って料理上手が多かったっけ、と涼は思った。それにしては昨日のカリフォルニアロールはうまくいかなかったが、米を巻く、という作業はまた特別なのだろう。涼もロウに教わって、かなり料理のレパートリーが増えたが、一番大切なのは料理の楽しさを教わったことだと思った。健康のためだとか、体力のためだとか、そういう義務感より、ただ楽しいという動機のほうがよっぽどやる気が出る。ロウはいつでも料理を楽しんでいる。


 ランチを食べながら、ロウは旅行の話を振った。

「イチゴ狩りもサクランボ狩りもできなさそうだが、山梨は果物王国だから、アメディオが気に入るような果物がなにかあるだろう。車でアルプスは越えられないから、南アルプスの北側を回りこんで甲府で泊まり、それから静岡に下ろうか。アメディオは富士山を見たのかい?」

「新幹線の窓から見ただけですよ」

「じゃぁ、富士山のそばの河口湖か山中湖に行こう。それから伊豆か熱海の温泉に泊まり、神奈川か東京で泊まって、成田空港まで送っていこう。そんなコースでどうかな?」

「日本の果物、富士山、温泉!Bravvisimo!!」

 監督はまた叫んでいた。イタリア語になると突然、激情型の熱血タイプになるのが不思議だ。母語の魔法なのだろうか。

「リョウだけに運転させるのは酷だから、僕も運転をかわるよ」

 ロウはそう言った。

「僕も国際免許を持っているから運転をかわれるよ」

 監督も横からそう言った。


「ロウさん、それより、監督は結構な有名人ですよ?」

 涼は心配していたことを日本語で言ってみた。

 涼は気配の消し方を伊那から教わっていた。エネルギーを意図的に逆回りにするのだ。伊那が得意な、時間軸を回す方法のアレンジVersionでもある。涼が目立ってしまうのは、エネルギーの輝きが周囲に放射されてしまうからだ。エネルギーに逆回転を作れば、輝きの放射は抑えられる。完全に消せるわけではないが、あまり人の注意を引かないようにはなる。ただし、この方法はロウは使えないのだそうだ。

「ロウのエネルギーは、石というか岩みたいなものなのよ。逆回転なんかしたら、ゴロゴロがたがた、傷だらけ」

そう言って伊那は笑っていた。

「涼さんのエネルギーは細かい霧というのかな、柔らかい雪にも見えるし、水に近いのね。だから逆回転はできるわ」


 監督のエネルギーがどういう種類なのかはわからないが、たとえ逆回転できるエネルギーだとしても、すぐに逆回転を習得できるわけではない。日本の中では、「あ、外国の人だな」と視線が自然に監督に向かう。監督の明るい微笑みは華やかなエネルギーのように放射し、みんながはっと、「あれ?この人?」と気づいてしまうのだ。空港の到着したときから、監督に握手を求めたり、サインを求めたりする日本人がいた。

「涼くん、こういうときは逆方向で行くんだよ」

「逆方向?」

「まぁまかせとけ」

ロウはにやりと笑った。


 午後は監督が最初に聞いたロウの歌だという、エスカミーリョのソロで始まり、ロウが一通り有名なオペラのソロを歌い、そのあとで涼が今までやったミュージカルの歌を歌った。涼は舞台では日本語の歌詞で歌うのだが、ひそかにすべて原語で練習していた。ほとんどの歌は原語のほうが美しい。

 それは日本語の特殊性であり仕方ないのだ、とロウは言った。日本語は一音一音に時間がかかりすぎるんだよ。言いたいことを言うための言語じゃないからね。言いたいことを言わなくても成り立つ文化だ、日本は察する文化だろう?とロウは言った。

涼が歌を原語で歌うと、ロウがすべて発音を修正していってくれる。ときには歌自体にもアドバイスしてくれた。歌のレッスンと言語のレッスンが同時にできるという密度の濃い時間になった。

 監督も一緒に、オーソレミオやフニクリフニクラを歌った。フニクリフニクラは「鬼のパンツ」で知られた曲だが、原曲の歌詞とはまったく違うらしい。だが、涼には何度聞いても鬼のパンツにしか聞こえなかった。


 ディナーは三人で作ったので、よくわからない多国籍料理になったが美味しかった。ロウはワインを準備していた。このワイン、高いんじゃないのかな、と涼は思ったがあえて値段は聞かなかった。

 夜になりロウはロウのベッドで眠り、監督はソファーベッドを使い、涼は一つだけある和室で眠ることになった。二人泊めるのは初めてだが、和室って便利だな、とロウが言った。明日から、三人で旅行に出かけることになる。

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