第41話 涼 29歳 春 オペラ:星の刻
「じゃぁ、Non ho futuroはあとでリョウのために歌おうか。まずはFino all’ultimoからだね」
ロウは楽譜の棚の中から一冊のファイルを取り出してピアノの前に座った。涼は、そういえばこっちの家でロウの歌を聴くのは初めてだな、と思った。
エリクサはペンション以外まわりには山だけという場所に建っているが、ここは集落になっていて、田舎だから隣の家まではかなり距離はあるとはいえ隣の家は存在する。ロウのピアノや歌が聴こえることもあるだろうし、ロウがどうやって近所づきあいをしているんだろうと思うとおかしかった。引退した音楽教授みたいに思われているんだろうか。
ロウはピアノの前で息を整えると、指を静かに鍵盤に降ろした。
最初の音はトリルが少しずつ音程を変えながら、上がって下がっていく。
その音は涼には流れ星が光を撒きながら流れていく音のように聴こえた。
やがて重音の和音が重なり、リズムを刻んでいく。
その音は涼には宇宙の鼓動のように聴こえた。
そして美しい旋律が高い音から現れて降りてきた。
その音は涼には、宇宙の夜が明けたように聴こえた。
ロウの歌が始まる。イタリア語だから歌詞がわからないが、純粋に音の世界が広がっていった。
最初はささやくように音が空間に散りばめられていく。ロウの声は落ちた場所で吸い込まれることなく光に変わっていく。部屋に蛍のようなはかない光が散りばめられていく。やがてロウの低い声が圧力を持って空間を広がっていく。はかない光がそれぞれに光の糸を伸ばして互いにつながり、震えだし、光度をあげ、一気に天空まで広がった。
宇宙の扉が開いた。
星々が互いの光を投げかけ、銀河がゆっくりと回転する。だが、この銀河は暗闇に浮かんだ儚い光ではない。まばゆく輝く光の中で、柔らかい優しい星の光がまるで繭玉のようにふわりと浮かんでいる。星々は命の灯りだ。命の灯りは、はかないからこそ美しい。広大な銀河から遠く離れて、ひとつだけぽつんと浮かんだ青く透き通る星。涙のように潤んだその青い星に浮かぶ、はかない光のまたたき。
このはかない光が、ひとつひとつの命なんだ。
涼は青い星に浮かぶ命の光を温かく優しい想いで見つめていた。
青く透き通る涙のような美しい星。
どうしてこの美しさを忘れていることなどできたのだろう。
どうやって荒々しい想いをなげかけて、この星を傷つけることなどできるのだろう。
この星を愛する以外に何ができるのだろう。愛する以外に大切なことなどあるのだろうか。
ロウのピアノの最後の一音が終わると、宇宙と銀河が幻のように色をなくして消えていった。
涼は監督が号泣しているのに気づいて、一気に現実に引き戻された。
監督とロウが互いに何かを言っているが、どちらもイタリア語で涼にはまったくわからなかった。監督は感情的になっていて、ロウが困惑している様子だった。
ロウが涼に気づいて日本語で説明してくれた。
「アメディオは僕が引退したのが納得できないんだよ」
たしかにロウの歌には、年齢による衰えは感じなかった。オペラ歌手の歌手生命はだいたい70歳だという。だが個人差はあるだろうし、ロウはちょうど70歳のはずだ。
「僕は、僕の人生を生きたかった。それだけだ」
ロウは苦笑しながら、ピアノから立ち上がり、ティッシュを持って戻ってきた。ティッシュを監督に渡しながら今度は英語で言った。
「僕の歌が衰えていないのは、舞台による酷使がなくなったからかもしれないよ。惜しんでくれるのは嬉しいが、僕はいまの人生に満足している」
監督は音をたてて鼻をかみ、涙をぬぐった。
「ロウ。いつかロウの人生を映画にしていいですか?」
「もちろんいいよ。ただし、僕が死んだ後にね」
ロウはそう言って笑った。
「この歌が、もう二度と舞台で聴けないなんて、もったいなさすぎる」
監督は涙声で言った。
「僕が死んだら終わる音楽なんて、本物の音楽じゃないよ。僕しか歌えない歌なんて存在しない。時代を越えて受け継がれていくのが本当の歌だ。僕がこの歌に本当に命を吹き込めたのなら、きっと次世代に受け継がれるだろう。もしかしたら、その手助けをアメディオがしてくれるのかもしれないけどね」
「僕はせめて、その手助けをしたいです」
「ありがとう」
ロウは涼のほうを見た。
「僕には未来がない、を歌おうか」
涼はうなずいた。
ロウがピアノの前に戻って、ページをめくる。楽譜を一部、涼に渡してくれた。
今後の歌はせつなく優しいメロディーだ。悲しい恋を暗示するような淋しい旋律。ロウの声が柔らかく広がっていく。
星々がきらめく銀河をはさんでみつめあっている恋人たちの姿が浮かんできた。男性は銀河の右側に立ち、女性は銀河の左側に立っている。
織姫と彦星みたいだな、と涼は思った。織姫と彦星は、天の川の西と東に引き裂かれ、一年に一度、7月7日の夜しか会えなくなった。一年に一度しか会えなくなっても、愛は続いていくものなのだろうか。このオペラでは、一年一度ではなく、一生一度しか会えないわけだけれど。地球人の青年は、地球に帰った後で、どうやって人を愛していくんだろう。
悲しい想いを抱えながら愛しさを表現しているようなせつない旋律。あきらめるしかないのに、あきらめることのできないもどかしさ。
せつなさは、優しい儚さにかわり、またたいていた星の光も静かに消えていった。
優しい温かさだけが心に残っていた。
最後の一音を弾き終えたロウが、鍵盤から指を離して深呼吸する。監督と涼は拍手を送り、ロウが微笑んで頭を下げた。
涼は気になったことを聞いてみた。ロウはなんなく歌っているが、この歌の音域はテノールだ。
「ロウさん、テノール音域も出るんですか?」
「出るよ。若い頃は面白がって高い音を出してみたりもしたが、僕にとっては負荷がかかるんだよ。涼くんも覚えておいたほうがいいが、可能と最善は違うんだ。可能に目がくらむと、最善を見失うよ。単純に声帯にとっていいかどうか、という話ではなくて、パフォーマンスの問題でね。僕の声はバリトン音域のほうが特別だが、テノールの音域でも歌えることに固執すると、自分らしさがなくなり、僕自身が飽きられていくということだ。しかし、こうやって君に歌を伝えることはパフォーマンスではないからね。じゃぁ歌ってみる?」
「さすがに一回では歌詞が覚えられないですよ」
涼はメロディならほぼ一回で覚えられるが、知らない言語の歌詞を一回で覚えることはできなかった。
「じゃぁ、歌詞だけ伝えよう」
ロウは涼に歌詞を順番に伝え、涼はリフレーミングしていった。一通り歌詞を伝え終わると、ロウは
「じゃあ歌ってみよう」
といきなり前奏に入った。うわ、スパルタだ、と涼は思ったが、瞬時にスイッチを切り替えて息を整えた。
涼が最初のフレーズを歌い始めるとロウがうなずいた。ロウの表情に後押しされて、涼はすっと歌の世界に入っていった。
聴いているのはロウではない。ロウはそこにいるけれどそこにいない。周囲の空気のすべてが涼を振り返る。部屋を通り抜けて、窓から外の世界が広がる。風が涼を振り返る。風の向こうにあるのは山々だ。山々が涼を振り返る。山々の向こうにあるのは空だ。空が涼を振り返る。空が広がっていくと地平線が見える。地平線を広げると青い地球が姿を見せる。青い地球の向こうに輝く太陽が姿を見せ、太陽系の星々がゆったりと回転する姿が見えてくる。太陽系の星々はより大きな銀河の光にのまれていく。宇宙の中にある無数の銀河が姿を見せ、どこまでもどこもでも広がっていく。
宇宙のはてにある小さな青い私たちの地球。まるで宇宙から置き去りにされたかのような、他の銀河からはるかに離れた孤島のような星。でもその星は涙のように青く透き通っていて、美しい。その青い星をはるかに見つめて、涙を流す美しい女性の横顔。
ああ、そうか、この女性は地球に恋をしているんだ・・・。
歌は静かに終わり、ロウのピアノの後奏も静かに終わった。監督がBravvisimo!と言って熱く拍手する。涼は、Bravvisimo!はBravo!の最上級みたいなものかな、と感じた。ロウも一緒になって拍手していた。
「この歌は、リョウが歌うほうがはるかにいいね!」
監督が言った。
「歌には歌い手との相性があるからね。もとのキャストよりリョウのほうがよかったな」
ロウも同意した。
「ロウは引退してしまったけれど、リョウの歌なら世界に伝えられる。ロウの人生を映画にするときには、リョウに主題歌を歌ってもらうよ」
「それには、リョウにほれ込む作曲家を見つけなくてはな。リョウのベストな音域と美しいフェルマータを生かしてくれる作曲家をね」
「探し出してみせますよ」
「リョウ、イタリア語の歌はいけそうだね」
ロウが涼のほうをむいて話をふった。
「そうですね。歌いやすいかもしれないです」
「じゃぁ、リョウにはイタリア語で歌ってもらおう」
監督がうなづきながら言う。
「・・・イタリア語の勉強をがんばれということですね」
涼がそう言うと、ロウが付け加えた。
「イタリア語にはいくらでも美しい歌があるし、世界的に有名な歌もたくさんある。歌を武器にするなら、イタリア語の歌を歌えることはプラスになるよ。それに、おそらくリョウはすぐに他の言語の歌も歌えるようになる。多言語の歌を歌うための耳があるようだ。改めて聞くのもなんだが、そもそも韓国語と日本語の二か国語で育ったかな?」
「そうです」
「じゃぁ、ある意味、僕と一緒だね。いまは英語もマスターしてるし、三か国語を超えたらあとは簡単だよ。イタリア語を覚えたら、同じラテン語族で、フランス語、スペイン語、ポルトガル語もいけるからね」
監督がロウに言葉を返した。
「僕は最初にロウに出会ったから、オペラ歌手はみんな多言語を操るのかと思ったけれど、母国語のオペラしか出演しない人もいるみたいですね」
「母国がイタリアかドイツ、オーストリアならそれもできるさ。僕は異邦人だからね」
ロウはそう言って笑った。
「しかし、ほかの星から見れば、そんなことはちっぽけなことだということだ。この小さな地球のなかで、どこの国の出身かなんて。しかし、国際恋愛でも十分仰天するのに、星間恋愛をしようというチャレンジ精神には敬服する」
「なんですかロウさん、またその話ですか」
涼は笑った。それは国際恋愛に仰天したのではなくて、伊那の特殊性に仰天したのでは、とも思った。
「もし星が違ったら、そもそも恋愛とかいう概念がないんじゃないんですか」
「設定では星によって、単性とか無性とか両性具有とか、いろいろあるんだが、地球と同じシステムの星もあって、アンドロメダは両性の設定なんだよ。地球人がつけた星座の名前というのは、じつはすべて宇宙が地球にエネルギーを投げかけた真実の名前になっているという設定でね。アンドロメダは美しい女性の名前だろう。だからアンドロメダ星人は美女ばかりなんだ」
「すごい設定ですね」
「ということはつまり、オリオン星人は美男ばかりということになる。まるで遊んでいるみたいな設定だが、遊び心は創造力に欠かせないからね。さて、どうしようか?もっと歌う?」
「僕はもっとロウの歌が聴きたいですよ」
監督はそう言った。
「僕は早めに車を取りに戻ります」
涼はそう言った。
「じゃぁ、そろそろ昼になるから、リョウが車を取りに戻っている間に、僕とアメディオで昼食の準備をしよう。午後はAt home with musicか。リョウも歌うだろう?ソロコンサートはちょっと厳しい」
「じゃぁ、僕が歌いましょうか?」
監督がそう言い、ロウが思い切り吹きだした。涼は山を下りながら聞いた監督の音痴な歌を思い出した。
「ロウ、その笑い方は失礼だ」
監督もそう言いながら笑っている。
「いや、いいよいいよ、一緒に歌おう。音楽はみんなで一緒に楽しむものだ。じゃぁリョウ、エリクサに戻ったら竪琴を取ってきてくれる?竪琴も使おう」
「わかりました」
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