第40話 涼 29歳 春 ロウの家へ

 遅れて起きてきた監督も朝ごはんを食べ終わり、涼と監督はスーツケースを車に積み込んだ。ロウが監督に、僕の家はここから山をまっすぐ下りたところだよ、と説明した。ケモノ道を歩いて下りても15分、車で下りても15分だ、というと監督がケモノ道のほうに興味を示した。


「ロウの家に下りるケモノ道ってどこにあるんですか?」

「ここの駐車場から右の奥に進んで、しばらく歩くと道から外れて降りるところがあるんだよ」

「それはぜひ、ケモノ道のほうを下りてみたい!」

 監督はそう言って、目をキラキラさせた。

「そう?しかし、下るのは15分でできるが、登るのは30分以上かかるよ。リョウもこっちから降りたことはないんだよ」

「そうですね、僕はいつもエリクサに泊まるし、ケモノ道を下りていったことはないです。でも、僕もケモノ道を下りてみたいし・・・」

 涼はそう言って頭をめぐらせた。

「じゃぁ、ケモノ道をみんなで下りて、あとで僕が車と荷物を取りにここまで戻りますよ。僕の車だし。僕がひとりで戻ってきて、車をロウの家までまわします」

 涼はそう言った。

「そうか?じゃぁ、君の若さに敬意を表して、そうしてもらおうか」

 ロウはそう言って、監督と涼の足元をチェックした。

「とりあえずスニーカーじゃないと下りられないよ。持ってきている?」

「オッケー、履き替えます」

 監督と涼は靴を履き替え、荷物を積み直した。


「ロウ、この道を下りるの?」

 後ろにいた伊那が日本語で声をかけた。

「この道のほうが面白いだろう?涼くんだって下りるのは初めてだよね」

「はい、初めてです」

「なんだか、道が広がりそう・・・」

 伊那が道のほうを見つめて言った。

「人を本物のトラみたいに言わないでくれよ」

 ロウは苦笑した。

「だって、あなたたち三人が一緒に通ったらエネルギーラインができてしまうわよ」

「ダメかな?」

 ロウが真面目に伊那に聞いた。

「動物たちが迷惑するかな、と思ったの。でも・・・」

 伊那は道の向こうを見ながら、くすくす笑った。

「ロウひとりだけでエネルギーラインはできていたわ。今更一緒みたいよ。どうぞ、いってらっしゃい」

「やっぱりトラ扱いじゃないか」

 ロウが抗議するように言い、涼は隣でおかしくなった。この二人の会話は変じゃないか?と思ったが、監督は日本語がわからないので想いを共有することはできなかった。


 三人はケモノ道を通って、ロウの家へ向かった。本当にケモノ道というのがふさわしい道だったが、三人の中ではロウが一番大柄なので、ロウが通れるということは涼と監督も通れるということだ。道に見えないところもあったが、ロウは通り慣れている道なのでどんどん進んでいく。

 監督は「こんな道を歩くのは子供の頃以来だ」と妙にハイテンションになっており、ハイテンションが過ぎて、わけのわからない歌を歌い始めた。しかも、残念なことに監督はどちらかというと音痴のようだ。ロウの前でこんな歌が歌える監督の度胸に涼は感心したが、別にロウは気にしていないようだった。

 涼は涼で、大きな体で、難しそうな岩場をひょいと乗り越えるロウを見るたび「トラ扱い」というセリフを思い返してしまう。それに、この険しい道を伊那が一人で下っていくのか、と思うと、心配するロウの気持ちもわかった。「僕が言うことは聞いてくれない」というロウのあきらめたようなセリフも思い出した。ロウも伊那には弱いらしい。

 三人は妙なテンションのまま山を下って行った。動物たちは一切現れなかった。三人の妙なテンションに近寄るまいと思ったのかもしれない。


 ロウの家に無事到着し、三人は家の中に落ち着いた。ケモノ道を下りながら、すでにハイテンションになっていた監督はグランドピアノを見てさらにテンションが上がったようで、おーっと叫んでいた。涼はそんな監督を見ながら、イタリアの人は感情が豊かだな、と感じていた。

「ロウ、やっぱり歌っているんですね?!」

「当たり前じゃないか。僕がやめたのは舞台だけで、音楽をやめられるわけもない。音楽は僕の人生だからね。僕が歌をやめるのは死ぬときだよ。いや、きっとあの世でも歌っている」

 ロウはそう言って笑った。

「久しぶりにロウの歌が聴きたいです」

 監督がそう言った。

「いいよ。でも、その前にまずお茶を入れよう。アメディオがいるならエスプレッソかな。」

「僕はグリーンティがいいです」

「そっちか。わかったよ。リョウも日本茶でいい?」

 涼がうなずくと、ロウは苦笑しながらお茶を入れにいった。


 ロウが日本茶を入れて戻ってきた。どうやら玉露のようだ。

「いっとくけど、僕は日本茶のマスターじゃないからね」

 ロウはそう言ったが、ほんのりと甘みのある上品な味で、十分にマスターなんじゃないかな、と涼は感じた。監督は、美味しい、美味しいと感動している。


 お茶を飲みながら、監督はロウに向かって“Il tempo delle stelle”が聴きたい、と言った。それは例の、ロウを主役にしたオペラのソロらしい。ロウが“Fino all’ultimo”か?と尋ね、監督がSi,Siと言っていた。監督はロウといると無意識にイタリア語に戻ってしまうようだ。

 ロウは涼に向かっていった。

「リョウが歌うなら、この歌じゃなくて、地球の青年のソロだよ。Non ho futuro 僕には未来がない。2200年の寿命を持っている彼女に別れを告げる歌だ」

「2200年?どういう設定なんですか?」

「このオペラは、宇宙にあるいろいろな星の代表者が集まるんだ。ほとんどの星の人間、いや、宇宙人かな。宇宙人たちの寿命は千年以上が普通なのだが、地球人だけが百年に満たない。地球代表の青年が、アンドロメダ星の女性と恋に落ちるが、彼女の寿命は2200年だ」

「それは、たしかに未来のない恋愛ですね」

「そもそも、地球代表は一生一回しか会議に参加できない。会議は百年に一度しか開催されないからね。地球代表はつねに若者が選ばれる。次の会議出席者までのタイムラグをできるだけ短くするには若いほうがいいからだ。百年後、アンドロメダ星の女性はほとんど同じ若さで参加できるが、地球代表の彼は二度とこの会議に戻れない」

「面白い設定ですね」

 涼はどんな人がこのオペラの設定を考えたんだろう、と思った。

「最初は青年のソロから始まって、途中からデュエットになるんだ。青年が『僕には未来がない』と歌い、彼女が『私にも未来がない、あなたがいないから』と返す。青年が『僕には永遠がない』と歌い、彼女が『私にも永遠がない、あなたに永遠に見えても』と返す。美しい曲だよ、リョウ、歌ってみる?」

「オー、それはいいね!僕もあの曲をリョウで聴きたいよ」

「でも、イタリア語ですよね?」

 ロウは日本語に切り替えて説明してくれた。


「イタリア語は日本語とほぼ母音が同じだから、そこまで難しくないよ。RとVは英語でマスターしただろうし、あとはGliだな。これはちょっと難関だが、最初はそこまでこだわらずに歌えばいい。それにイタリア語の発音は英語と違ってローマ字通りだから、見たまま発音すれば大丈夫だ。涼くんがオペラに興味あるなら、イタリア語のオペラから始めればいい。ドイツ語は子音が難解すぎておすすめしないよ。フランス語は、というと母音が16個もあるから、日本で育った君には聞き分けがむつかしいかもしれない。中国語は母音が30個あるから、中国で生まれた僕には、音の聞き分けは簡単なんだ」

「伊那さんは日本生まれだけどフランス語をマスターしていますよね」

「伊那は、耳で聞き分けているんじゃないよ」

「耳で聞かずに何で聞くんですか?」

 涼はわけがわからずにロウに尋ねた。

「僕だって、最初は伊那は耳がいいんだと思っていたよ。この僕が聞き分けられない音を聞いているときがあって、すごいな、と思っていた。僕は耳のよさに関しては、負けたと思ったことがないからね」

 ロウはそう言って昔を思い返すような顔をして笑った。

「そうやって、すごく繊細な音を聞き分けるのに、もっと単純な音を聞き分けられないことがあるんだ。それで、おかしいなと思って、よく観察してみたよ。伊那は、音ではなくて、想いを聞き分けているんだということがわかったときは、結構な衝撃だったよ」

「想い?どういう意味ですか?」

「伊那は耳で聞き分けているんじゃなくて、霊能力で聞き分けているんだよ。つまり神様カンニングみたいなものだな」

「神様カンニング?」

「どこの国の言葉でも、想いだけは受け取れるなんて、神様が後ろでささやいているみたいじゃないか」

「いや、でも、神様カンニングというネーミングはどうかと思います」

 涼は思わず笑った。

「こういう変なネーミングは伊那の得意技なんだけど、うつったかな」

 そういうと、ロウは日本語がわからないために所在なげにしている監督に向かって英語で言った。

「リョウにはこれからイタリアオペラを勉強してもらうから、イタリア語を教えてあげてよ」

「オー!それはいいね。そうすれば、僕たち三人でもイタリア語で話せるじゃないか」

 涼は、三人でイタリア語会話できるほど上達するのかな、と思ったが、それも楽しそうだな、そうなればいいなと思い直した。

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