第37話 涼 29歳 春 中国茶と会話

  伊那と涼は連れ立って一階に降りてきた。ロウと監督の話は、伊那が予想した通りにひと段落ついたようだった。ここに到着するまで、ずっと緊張していたように見えた監督は、すっかりリラックスして寛いでいた。


「お話はひと段落した?どうしましょう?お茶を入れましょうか?」

 伊那はロウに向かって日本語でそう言った。

「お茶は僕が入れるよ。アメディオは荷物をおいたままだからね。お部屋に案内してくれる?僕がその間にお茶を入れておこう」

「はい」

 伊那は監督に向かって、英語でお部屋に案内しますわ、と言い、監督がサンキューと言って立ち上がる。

 ロウはお茶の準備をするために立ち上がり、涼もロウと一緒にお茶の準備を手伝った。この三年、涼がエリクサに宿泊するときは、家族のように一緒にお茶を入れたり、料理をしたりするのが普通だった。厨房のどこに何があるのか、ほとんど把握できている。さすがに厨房の奥にある伊那の私室に足を踏み入れたことはない。そこに入るのはロウだけだった。


 ロウは、こういうときはやっぱり中国茶だな、と言って、中国茶の準備を始めていた。涼は手伝いながら、だいたいのことは伊那さんから聞きました、と声をかけた。ロウは、そうか、僕の人生はまぁいろいろと波乱万丈だからね。日本に来て、生まれてはじめて穏やかな人生を送っているよ、と微笑んだ。


「伊那と初めて出会ったときのことは覚えているよ。日本人だな、と思ったのと、伊那って遠くまで見えているような不思議な目をしているだろう。あの目になんだかドキッとしたんだよ。伊那といろいろ話して、不思議な力を持っていることがわかって、やっぱりな、と思ったよ。千里眼の目だったんだな。

 伊那はすごく若かったが、あの目の静けさのせいで子供に見えたことはないよ。でも僕は相当年上だから、伊那に惹かれていることは隠しておこうと思った。だけど、伊那の気持ちが紛れもなく僕にある、と気づいた事件があってね。それで年齢差を飛び越える決心をしたんだよ。

 伊那とは本当に相性がいいし、一緒にいて幸せだよ。もっとも僕はそれまでヨーロッパの女性としかつきあってこなかったから、国際恋愛は仰天することがたくさんあったが」

 ロウは笑った。

「涼くんだって、アメリカに暮らしていれば、これから国際恋愛することもあるだろう。仰天することがたくさんあるだろうが、がんばれよ」

 ロウは涼の背中をバン、と叩き、涼は痛っ、と言った。

「ええっ、なんですかロウさん、はっきり言ってくださいよ」

「いや、日本の女性はいいね、という話だよ」

 ロウは意味有りげな目をして、はははと空間を明るくする声で笑った。

「僕も日本の女性が好きですよ。別にアメリカで恋愛するつもりはないです」

「それは自分で決められるものじゃないからね。だいたいにおいて、運命は予想しない展開を準備しているものだ。僕たちが飽きないようにね」

「飽きないように、ですか?」

「人生も水の流れと一緒だからね。同じことが続くと澱んで腐っていく。流れていき、変化があることで新しい美しい光景が見えてくる。人生がつまらないなら、何が澱んでいるかを見つけ出して、それを手放すだけでいい。手放したくないのは執着しているからで、執着に潜んでいるものの正体は不安や恐怖なんだよ。

 伊那のことは手放したくないと思っているが、この年齢差では僕はどうがんばっても伊那をおいていくしかない。だからといって、伊那に泣き暮らしてほしいとは思っていないし、そうはならないだろう伊那の強さが好きなんだ。女性たちの、男にはない生命力の強さを見ると、なんだかぐっとくることがあるんだよ。そう思わないか?」

「わかる気がします」

 涼はそう答えながら、いつも強気で迫力のあるロウが惹かれるという伊那の強さを思い浮かべてみた。そしてふと、伊那もロウもお互いに「自分が一目ぼれしたのだ」と話していることに気づいた。でもきっと、こういうことに口出しするのは野暮というものなのだろう。


 足音と人の気配がして、伊那と監督がダイニングに戻ってきた。

「ロウ、とても素敵な部屋ですね。気に入りました」

 監督が英語で言った。

「ありがとう。でも、ここは基本的にイナのペンションなんだよ」

 ロウも英語でそう答えた。

「そうですか?ロウの家は別にある?」

「そう、明日からはこっちのペンションには客が来るから、アメディオとリョウは僕の家に泊まればいい。もっとも大の男が二人も泊まることを考えて選んだ家じゃないからね。狭いのは我慢してくれよ」

「そんなことは平気ですよ」

「一週間ほどいるんだろう?どこか日本を案内するよ。あとで考えてみよう」


 監督は中国茶を飲むのは初めてだったらしい。なんだなんだこの小さなコップは、と大声で驚き、ロウの蘊蓄を聞きながら、OhとかAhとかいちいち大仰に驚いていたが、「イタリア人がエスプレッソを楽しむのと同じだな」と、そこに落ち着いた。涼も、最初に中国茶をごちそうになったときは、いろいろ驚きながら説明を受けた覚えがあるが、とても監督の感情の振れ幅には及ばない。こういうのを国が違うというのか、と新鮮な感動を味わっていた。

 それにロウが英語で涼を呼ぶときは、きちんとRの発音になっており、RYOと呼ばれていることに涼は気づいた。日本語で呼びかけるときは日本語の発音の涼、つまりLYOになるのに、自然にそうなってしまうのか呼び分けがされていた。日本語にはRの発音はない。

 テーブルの会話は、基本的に英語で進んでいたため、伊那はあまり会話に入ってこなかった。涼はときどき、伊那に向かって日本語で説明する。二人だけで会話していると、ロウが日本語で口をはさむ。そうなると監督が置き去りになるため、今度は英語で涼が監督に話しかける。ロウと伊那が日本語で話していると、涼が気になってそこに口をはさむ。今度はロウが監督とイタリア語で会話し始めた。

 監督とロウがイタリア語で話しているとき、ロウはいつものロウなのに、監督は明らかに人格が違うように見えた。監督はイタリア語のほうが母語だから、母語を話しているときに現れる人格のほうが、本当の人格なんだろうか。英語で話しているときは、フレンドリーで温かく、落ち着いた大人の男なのに、イタリア語で話していると激情型で熱血漢の、少年のような子供っぽさを持っている男性に感じる。

 しばらく涼と日本語で話していた伊那が、今度は笑いながらロウにフランス語で話しかけた。言語合戦のようなテーブルに、みんなが笑い転げていた。




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