第32話 涼 29歳 春 モンゴルにて

 涼は馬に乗って、モンゴルの草原を駆けていく。モンゴルの草原を馬で駆けながら、涼が鷹を呼ぶシーンから撮影する予定だった。


 モンゴル馬は小型でおとなしい。そしてさらに愛らしい。ほっそりと背が高く、気位の高いサラブレットとはまったく違う種であることがわかった。もちろん、勇壮で忍耐強いアラブ馬ともまったく違う種だ。

 モンゴル馬は小柄なこともあって、モンゴルの遊牧民たちは鞍をつけずに立ち乗りする。馬に負担をかけないためだ。涼は撮影隊より早くモンゴルに入国し、立ち乗りの練習をしていた。サラブレットなどの背の高い馬であっても、立ち乗りすることは可能だ。ただし、ほとんどの乗馬クラブでは立ち乗りは危険として禁止されており、学ぶようなことはなかった。

 涼はすっかり立ち乗りの楽しさに魅せられていた。それに、涼のために用意されたモンゴル馬は、そのために選び抜かれたのか、輪をかけて愛らしかった。シャルキという名前で、モンゴル語で風だという。すっかり涼になついており、涼を見かけると目を輝かせて駆けよってくる。サラブレットなら、かなり長いつきあいになっても、「ああ、おまえか」みたいなクールな反応をする。それに、モンゴル馬はいろいろな鳴き声を使い分ける。甘える声、話しかける声、機嫌の悪い声、ヴァリエーションが多かった。表情も豊かだ。走り続けて疲れたときは、草原にゴロンと横になって、文字通りに腹を見せるのだ。

 涼は世界にはこんな性質の馬もいたのか、と驚いていた。

 涼と馬との相性は、かつて乗った馬とは比べ物にならないほど最高だった。この馬と前世でも会ったのではないだろうか、そんな風に涼は感じていた。涼は、馬が転生するのかどうか知らない。伊那に聞けば答えてくれるのかもしれないが、わざわざそんなことで電話をするのも気がひけた。乗馬クラブの馬ならば、乗馬レッスンに行けば会えるが、この馬はモンゴルの馬で、撮影の間だけの交流になる。アメリカに戻ったらもう会えないのか、と思うと一瞬一瞬が惜しかった。


 撮影隊が到着したときには、涼はすでに立ち乗りをマスターしていた。涼が馬で草原を駆けるシーンから撮影は始まった。鷹とのシーンは後撮りの予定だった。鷹匠はまだ撮影隊に合流していなかった。

 自由に走ってくれればいい、こちらも自由に撮るから、そう監督に言われ、涼は立ち乗りで草原を駆け始めた。涼を乗せて、馬は軽やかに駆けていく。モンゴル馬は小柄だが、スタミナはあり、どこまでも走っていける。見渡す限りの草原、空はどこまでも青く、高い。心地よい風が頬をなぜていく。涼は馬と完全に一体だった。意識が高揚する。空がすぐそばにあるような気がした。涼は撮影だということを完全に忘れた。涼は大空に向かって、ピューイ、と呼び声を上げた。


 その瞬間、空のかなたに鳥影が映った。ものすごいスピードで降下してくる。


 鷹だ!

 

 思わず腕を伸ばした涼の目の前に、鷹はバサバサと羽音をたてて舞い降り、腕にぐっと捕まった。鷹につかまれる痛みが腕に走ったが、そんなことは気にならなかった。鷹は鋭いまなざしでまっすぐに涼を見据えている。


「人間がこの星の王であることを、すべての動物は知っている」


 ロウの言葉が蘇った。涼は星の王として、鷹に何か言わなくてはならないことを悟った。


「降りてきてくれてありがとう」


 鷹は微動だにせず涼を見つめている。その瞳の中から、涼ははっきりしたメッセージを受け取った。


「わかった」


 涼がそう答えると、鷹は羽を広げ、再び大空へと舞い上がった。その間も、馬はスピードを緩めることなく疾走している。涼は、鷹の姿をいつまでも見送っていたが、そのためにバランスを崩すこともなく、完全に馬に身を委ねていた。


 高く舞い上がった鳥影が完全に山の向こうに消えてしまってから、涼は馬とともに撮影隊のもとへ帰ってきた。

 監督をはじめ、全員が茫然と涼の姿を見つめていた。涼は馬を止めて飛び降りる。それからまず、ロウのように馬の首をなでて、ありがとう、助かったよ、と声をかけた。馬がうれしそうに顔を摺り寄せてくる。モンゴル遊牧民の青年が近寄ってきて、馬を引き取ってくれた。


 最初に涼に声をかけたのはジュリアンだ。


「いい映像が撮れたよ。この映像が撮り直しできないのはわかっている。鷹匠がいらなかったな、リョウ」

「・・・僕も驚きました」


 涼はそう答えた。鷹を呼ぼうと思ったわけではない。そもそも、自分がそんなことができるとも思っていなかった。ただ馬と一体になって疾走しているうちに、忘我の世界に入ってしまっただけだ。どう観せようとも考えていなかった。考えられなかった。


 突然ジュリアンが叫んだ。


「リョウ、血が出てるぞ!」

 涼は思わず腕を見た。鷹に掴まれたとき、痛みが走った腕は、鷹の爪によってシャツも肉も貫通しているようだ。痛みはあったが、気にはなっていなかった。

「野生の鷹だからな、感染するかもしれない、早く手当しなくては」

 ジュリアンは慌てていた。涼は不思議な気持ちで血が流れ落ちるのを見ていた。ケガをしたという意識はなかった。感染するとは思わなかった。そんなことは起こるわけはない、と感じていた。ただ、血は止まる気配はなく傷は深そうだ。手当は必要だな、と思った。


 すぐに撮影隊の中の救護隊が呼ばれ、傷の洗浄と消毒が行われた。傷は深いが、動物による傷なので傷口がギザギザで縫うにはふさわしくない傷なのだという。抗生剤を使用して、自然治癒を待つことになるが、もしかすると傷跡が残るかもしれないと言われた。


 傷が残ったら、鷹の印みたいで面白いかもな、と涼はそんな風に思った。大空から舞い降りてきた鷹のことを思い出し、あれ、と涼は思った。

 いったい、僕は鷹に何を約束したんだろう。わかった、と言ったのは覚えているが、なにを約束したか覚えていない。

 涼は自分自身に苦笑した。やっぱりロウのレベルにはまだまだ遠いらしい。


 撮影隊のみんなから、いいとも悪いとも判断がつかない不思議な空気感が流れていた。きっとみんなも、どう反応するか困惑しているのだろう。もし逆の立場だったら、僕も困惑するかもな、と思った。ロウと出会って、いろいろな不思議を目の当たりにしてきた今では、鷹が降りてきたこともまるで必然のように感じられる。


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