第31話 涼 29歳 秋 グラツィアーニ監督

 涼がアメディオ・グラツィアーニ監督に初めて会ったのもジュリアンの家だった。監督はポロシャツにコットンのズボンという極めてラフな格好をしていた。イタリア系といっても南のほうなのだろう、黒い髪に黒い瞳を持ち、黒いヒゲをたくわえていたが、人好きのする明るい笑顔に、話し方もフレンドリーで温かく、仲間を大切にして、励ましたり褒めたりするのが上手なタイプの監督に感じた。


 監督は、自己紹介をして、しばらくジュリアンと一緒に雑談をした後、

「なにかアカペラで歌ってみてくれるかい。できればあまり西洋的でない歌のほうがいいのだが」

 と言った。

「わかりました」

 そうは言ったものの、涼は西洋の音楽で育ってきたので、東洋的な音階の歌は知らなかった。なにを歌おうか、と考えていると、ふとロウが教えてくれた前世のベドウィンの音楽のことを思い出した。涼自身はその歌を思い出してはいない。ただロウが歌った歌を覚えているだけだ。歌詞も知らない。

 涼は、ロウと同じようにヴォカリーズでベドウィンの音楽を歌ってみることにした。ここはアメリカだ。ロウの説明によると、アメリカとモロッコでは神界が違うので、ギィドは決して現れない。


 最初の一音は、静かに一方向に向かって伸びていく音だ。遠くの一点に向かって呼びかける歌。その一点には精霊がいる。それは一点に向かって歌われるが、地上の一点ではない。その一点は精霊の世界との境界線、精霊の世界の入り口、そこを目指して声は静かに放たれる。

 声は精霊の世界との境界線で、扉を優しくノックする。扉に繰り返し声が波動を投げかける。やがて扉は声の波動に溶けて消えていき、精霊の世界が姿を見せる。

 その向こうにギイドが姿を現す。白銀の髪と白銀の肌、白銀のなめらかに揺れる服を纏っている。すべてが白銀の姿の中、瞳の色だけが透き通るエメラルドグリーンだ。「この瞳は、春の新芽の色を映したのだ」と語ってくれたことがある。だが、語ると言っても精霊たちは言葉で語るわけではない。会話はテレパシーで行われる。テレパシーで語るというのは、映像と波動の繰り返し、イメージでの会話だ。精霊たちとかわすイメージの会話に比べれば、人間同士の言語による会話は、時間がかかり情報量が絶対的に少ない。


 ギイドは風の精霊だが、精霊の中での人間担当なのだという。ほとんどの精霊は人間嫌いなのだが、たまに好奇心の強い精霊が生まれ、人間との交流を担当する。

 逆にほとんどの人間は精霊を見ることはできない。精霊を見る能力のある人間のことを、精霊たちは「エメラルドの瞳」と呼んでいた。それは実際に緑の色の瞳を持つという意味ではなく、春の新芽のような柔らかいピュアなエネルギーを保った瞳という意味だ。精霊から見ると、ほとんどの人間の瞳は濁っているが、精霊を見分けることのできる「エメラルドの瞳」は美しく澄んでいるのだという。だからといって、その美しさを他の人間が感じるとは限らない。それでも、その瞳から放たれるエナジーを美しいと感じる人間もいる。

 そして「エメラルドの瞳」を見分ける人間のことを、精霊たちは「月の戦士」と呼んでいた。「エメラルドの瞳」を見分ける人間は、例外なく「エメラルドの瞳」の守り手になろうとするからだ、とギイドは説明した。

 実は春の新芽たちは、太陽光よりも月光を浴びて成長しているのだとギイドは言う。人間は科学技術において光合成しか発見できていないから、月の光が植物を成長させる力について知らないんだよ、本当は新芽には太陽より月が必要なんだ。それに鉱石のエメラルドだって、太陽光の熱さや激しさに弱いが、月光でパワーチャージできる。

 「エメラルドの瞳」と「月の戦士」は同性で親友が多いのだが、異性で恋人同士となることもある。「エメラルドの瞳」の女性と「月の戦士」の男性の組み合わせを、精霊たちは「最強の組み合わせ」といい、「エメラルドの瞳」の男性と「月の戦士」の女性の組み合わせを、精霊たちは「最幸の組み合わせ」と呼んでいる。「月の戦士」が男性の場合、世の中を変えるパワーを持つことになるため、組み合わせとしては最強になる。だが「月の戦士」の男性が世界のあちこちで世の中を変えていくため、二人で過ごす時間は短くなる。「月の戦士」が女性の場合でも世の中を変えるパワーは持つのだが、世界を変えるより二人で一緒にいる時間を大切にすることが多く、二人の愛の密度は強くなる。だから「最幸」というのだそうだ。


 君は世にも珍しい、エメラルドの瞳で月の戦士なんだよ、とギイドは笑った。


「私が生まれて約千年、多くのエメラルドの瞳の人間たち、月の戦士の人間たちと出会っては別れていったが、エメラルドの瞳で月の戦士なのは君が初めてだ。だから君は、エメラルドの瞳の守り手にもなれるし、月の戦士の源流にもなれる。月の戦士のパワーは、エメラルドの瞳から流れ込んでくるからね。

 私たちがエメラルドの瞳の人間たちを特別に守るのは、そうすることで人間界と精霊界にバランスが取れるからだ。人間たちが、この地球を自分たちだけのものと思い、自然破壊を繰り返すと私たちの世界も破壊される。エメラルドの瞳の人間たちは、私たちの声を聴き、私たちの願いを感じ、ほかの人間たちの横暴から私たちを守ってくれる。

 私たちは月の戦士たちも守っているんだよ。月の戦士はエメラルドの瞳と違って、精霊を見分ける目を持っていないから、守られていることにも気づいていないけどね」


 アメディオ監督の、「Bravo!」という声に、涼ははっと我に戻った。

 前世の自分の歌を辿っているうちに、前世のギイドの記憶が、ダウンロードされるかのようにはっきりと蘇ってきたのだ。ギイドはここにいない。姿を現しているわけではない。前世の記憶が、歌とともに、まるで今生の経験のようによみがえったのだ。

 いま、ここにいることを忘れていた。

 涼は、前世の記憶の中で、ギイドとともにいた。体がうまく、いま、ここと馴染まなかった。あのときと同じだ。伊那に前世に連れていかれたときと。これもまた、伊那とロウがかけた魔法なのだろうか。

 まるでさっきまでギイドと一緒にいたように感じる。ギイドのエメラルドグリーンの瞳が脳裏に蘇る。涼は記憶を確かめるように額に手をやった。


「その歌はオリジナルかい?」

 監督が質問した。

「ほとんどオリジナルのようなものですが・・・」

 涼は答えに窮した。そもそもは前世の自分の歌なのだが、教えてくれたのはロウだ。だが、ロウの歌というわけではないし、いったい、この歌は誰のものなのだろう。

「いいね。なんだか本当に精霊が呼べそうだ」

 そもそも精霊を呼ぶための歌ですから、と涼は思ったが、それを口にするわけにはいかなかった。

 アメディオ監督は、すっかり涼の歌が気に入ったようだった。監督もジュリアンも、涼がこの映画に出るものとして、話をどんどん進めていった。

 もちろん、涼に異論があるわけではない。



 涼は正式にアメディオ監督の映画に出演する契約をした。


 それから伊那あてに、映画に出ることになりました、また詳しく決まったらお知らせします、という簡単なメールを出した。伊那からは「素敵!公開を楽しみにしているわ。ロウと一緒に観に行くわね」というメールが返ってきた。

 涼は、自分が知ったことについては、日本に帰ったときに二人に話そう、と改めて決心した。


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