第33話 涼 29歳 春 縁の糸
夕食の席は、監督と同じテーブルだった。
「君のその能力は生まれつき?」
監督はそう尋ねてきた。
「いいえ、もとからの能力ではないです。人から教わりました」
「そうか。どんな人だったの?」
涼はロウのことを思い出しながら説明した。
「日本で出会った人なんですが、もともとは歌手の人で、声を使って動物とコンタクトすることを教えてもらいました」
「出会いというのは大切だね。人生で一番大切なのは出会いじゃないかって僕は思うよ。僕が一番好きな日本語は『縁』だよ。もっとも日本語が話せるわけじゃないけどね」
「縁という言葉は僕も好きです」
「君にはもともと、そういう能力が秘められていたんだろうが、その人との出会いで能力が開いたんだろうね」
「そもそも、僕がこうやって俳優になれたのも、その人との出会いからでした」
「どういうこと?説明してくれる?」
涼は、ロウのことを思い出しながら、ロウとの最初の出会いや衝撃、ロウの歌を聴いて自分の歌が変わってしまったこと、俳優になったこと、一緒に過ごす中での不思議な体験などを話した。監督は途中から、妙に真剣な顔をして涼の話を聞いていた。涼は、監督は何か感じることがあるのかな、次の映画のアイデアでも浮かんだんだろうかと考えながら話を続けていた。
涼の話が終わると、監督が尋ねた。
「その人の名前を教えてくれる?」
涼は一瞬迷ったが、隠すのも変だと思ってロウの本名を口にした。
「潘彪という人です」
その言葉を聞いた瞬間、監督の顔に驚愕の表情が浮かんだ。
「・・・ロウか!」
「知っているんですか?!」
「知っているもなにも・・・どこに行ってしまったかわからないし、誰に聞いても教えてくれないし、ずいぶん探したよ。まさか、君からロウの名前を聞こうとは」
監督はそう言ったきり絶句した。
監督はロウと知り合いだったのか。涼も涼で驚いていた。見えない糸はこうやって人と人を繋いでいくのか。本気で探せば、人の縁は必ずつながるのか。
「もしかして中国に連れていかれたのかと思ったりした。だけど、住んでいた家も売り払っていたし、そのほかの仕事に関しても跡形もなく片付いていると聞いたから、自ら、理由があっていなくなったのだと判断した」
監督はそう言って嘆息した。
「それで、ロウは日本にいるんだね。日本のどこ?」
監督は驚愕のあまりなのか、感動のあまりなのか、少し涙が浮かんだ瞳で涼を見た。
「長野です」
「長野か。長野には行ったことがないな。ロウは、そういえば日本の血をひいているというウワサだったな。日本に行ったとは思わなかったよ。あの国はひどく入国審査が厳しい国だからね。中国と日本はあまり友好的ではないが、無事に日本に行けたということか。たしか、日本人の恋人がいたはずだが、彼女と一緒なのか?」
「はい、その日本人の彼女と一緒にいます」
「そうか・・・ロウは元気でいるの?」
「ええ、元気ですよ」
「それはよかった」
監督はそれきり黙り込んでしまった。
涼は、この人も僕と同じで、ロウと出会って人生が変わった人なのだろうと想像した。ロウに出会うことで、予想もしなかった人生の扉が開き、運命が変わり、夢見ていた人生を生きられるようになった。ロウと一緒に過ごす時間でたくさんの刺激を受け、人生についての捉え方が根本から変わってしまった。監督がいつまでも黙ってうつむいているので、涼は先に口を開いた。
「僕が俳優になれたのも、こうしてアメリカにいるのも、ロウのおかげです」
監督は顔を上げて涼を見た。
「私も同じだよ。ロウに出会っていなければ映画監督になってはいない」
二人は同じ経験をしたもの同士の、不思議なつながりを感じていた。
「ロウに会えるだろうか?」
「おそらく。連絡はできますし、聞いてみることはできます」
「連絡を取ってみてくれる?」
「わかりました」
モンゴルと日本の時差は一時間だけだ。エリクサでは、いま伊那がディナーのお世話に忙しい時間だろう。監督に、明日の朝の電話のほうがいいと思う、と説明し、監督も了解した。監督と涼は、その夜にお互いのロウの記憶と、ロウに出会うことで変わっていった自分の人生について話し合った。
監督が知っているロウは、「世界的なオペラ歌手」であるロウだ。
涼が知っているロウは「長野に住む隠居した老人」でしかないロウだ。
役柄の違いはあるが、ロウはロウであり、音楽に関する才能や、人間的温かさや、他者や人生への洞察が変わるわけでもない。
そもそも涼は、ほとんどの時間をロウと伊那と三人で過ごしていたので、同じようにロウによって人生が変わった人と知り合うこともなかった。
監督から聞くロウの話は興味深かった。
監督がロウに初めて会ったのは2001年のことだ。その頃は、映画監督を夢見ている30になったばかりの青年でしかなかった。すでにロウのそばには伊那がいたらしい。ただ、ロウはアメリカに伊那を連れてこなかったらしく、監督は一度も伊那に会ったことはないのだという。日本人の恋人がいると聞いただけだと言った。それからロウが突然の早すぎる引退を発表し、姿を消したのが2003年。監督が最初の映画作品を発表したのも2003年、誰よりも報告したかったロウはすでにどこにいるかわからなかったのだという。
「引退する、という話を聞いたときに、ちょうど映画の撮影がクライマックスにかかったときでね。ゆっくり連絡する時間がなかったんだ。引退にびっくりはしたが、ロウは多才な人だし、芸術監督に就任するというウワサだったから、そういう総合的な監督業のほうに乗り出すのだと思っていた。まさか本当に隠遁するとは思っていなかったよ。隠居する、と聞かされた人もいるが、みんなロウの冗談だと思っていてね。もちろん、どこへ行ったのか聞いた人もいるのだろうが、当時の僕のところには情報はまわってこなかった。僕にとってロウは大切な人だが、ロウにとって僕はそうじゃなかったんだな、とがっかりしたよ。それでもあきらめきれなくてね。もうお願いするところは神様しか残っていないから、神様に祈っていたよ。僕は神を信じてはいるが、やはり神様はいるといま感じている」
監督は、映画監督になりたいという夢を抱いたままで、舞台や映画に関する仕事ならなんでもやっていた頃、ロウが出演するオペラの舞台に関わることがあったそうだ。演目はカルメンだった。
「彼はバリトンだから、ホセではなくてエスカミーリョの役だったが、これが正直、ホセ以上の人気でね。もっとも実際の物語の中でも、カルメンはホセを捨ててエスカミーリョに走るんだから、かっこよくないと困るが。50代で、オペラ歌手としては最高にノッているときだったんだろう。カルメン役は、美人で知られた歌手だったんだが、体形が変わってしまっていて魅力的でなくてね。ホセ役の歌手もどうも調子が悪くて、あの舞台はロウの独壇場だったよ。まるで主役がロウかと思うほどだったな」
監督は過去を懐かしむように話した。
「僕はイタリア系だけど、それほどオペラに興味があるわけじゃなくて、オペラに関わったのは後にも先にもあの一回だけだよ。まるでロウに出会うためにあの舞台に関わったようなものだと今では思っている」
監督はロウの圧倒的な歌にあまりにも感動し、本番だろうがリハーサルだろうがロウが歌うときはずっと聴いていたのだという。
「いまから思えば、まるでストーカーだな」
そう言って笑った。
そうやってロウの歌をずっと聴いているうちに、監督は不思議な体験をする。雨が降るように、湧水が湧くように、映画のプロットが自分の中に流れ込んできたのだそうだ。
「それまではただ映画を撮りたい、という闇雲な願望があるだけで、何を撮るのか、というはっきりしたヴィジョンはなかったんだよ」
涼は、監督も僕と同じように、ロウの歌によって「扉」を開かれたんだな、と思った。
「変な話だけど、自分が思いついたプロットに自分で感動してね。これは絶対あたるというか、うけるというか、そういう確信があったんだ。ヴィジョンをはっきり描けたときに、現実が動くと思ったんだよ。それでどうしてもロウに話しかけたくてね。あっちはスター、こっちはただの一スタッフだが、ロウに話しかける機会をうかがっていたよ」
それでも最初ロウに話しかけたときは、あなたの歌に感動した、くらいしか言えなかったそうだ。ロウは監督の名前を尋ね、イタリア系だと知って以来、イタリア語で話しかけてくれるようになった。
「僕はアメリカ生まれだけど、家ではイタリア語で育っているんだ。家の中はイタリア語、外では英語、そうやって生きてきたよ。知っているかどうかわからないけど、イタリア語と英語は相性が悪くてね。家の中でイタリア語で育つと、英語がうまく習得できないことがある。英語ができずにアメリカで生きていこうとしても、いい職にはつけない。それが僕たちイタリア系移民が抱える根本的な問題だよ。イタリア語と英語の相性の悪さがそれを引き起こしている。僕は幸いどちらも習得できたけれど、やっぱりイタリア語のほうが母語だから、イタリア語で話しかけてもらってすごくうれしかった。イタリア人でよかったと思ったな。オペラはイタリア生まれだからね」
涼も家の中では韓国語のことがある。韓国語と日本語の両方を話しながら育ってきたが、日本語と韓国語は「膠着語」という同じ言語分類に属し、相性がいい。よく言われるように、お母さんとオモニが似ているとか、記憶とキオク、気分とキブンなど、音も意味も同じ単語がある。だから、片方の言語が習得できない、ということは珍しい。だが、日本語と英語は相性は悪く、アメリカ人と日本人のハーフの子供は、片方しか習得できないことがあるのだという。
イタリア語で何度か会話する間に、監督はロウに映画監督になる夢を持っていることと、ロウの歌を聴きながら思いついたプロットの話もしたそうだ。
「ロウは興味を持って聞いてくれたよ。僕のデビュー映画のプロットを最初に話したのはロウなんだ」
それでも当時はまだ、スターと一スタッフという隔たりがあり、連絡先を聞くことはできなかった。舞台が終わり、ロウはフランスに戻る。監督は思いついたプロットを映画にしようとあちこち奔走したが、うまくいかないまま一年が過ぎ、再びロウがアメリカにやってきた。その年の舞台には監督はスタッフとして関わらなかったが、知り合いを通じて、舞台準備中のロウにまるでスタッフのように近づくことができた。ロウは監督のことを覚えており、イタリア語で話しかけてくれた。
「映画はどうなったの、と聞かれたから、なかなか前に進まないと答えたよ。そうか、とロウは言っただけだったし、僕はロウのファンだから、ロウに会いたかっただけなんだ」
ところがしばらく後、その知り合いを通じてロウから連絡が来る。有名な映画会社のプロデューサーと会う機会を作ってくれたのだという。そこから、監督の夢は現実に向かって走り始めた。
「僕はもちろん、ロウにお礼を言ったが、ロウはこう言ったよ。もともとあのプロデューサーとは友達で、一緒に食事をしているときに、『最近、面白いプロットを持ってくるやつがいない』と愚痴を言うから、君のことを思い出した。ただそれだけだよ、チャンスを掴めたのは君の運と実力だ、ってね」
涼はロウらしいな、と思って聞いていた。
「ちなみに、ロウを主役として作った現代オペラがあるんだよ、知っているかい?」
「いえ、まったく知りません。そもそも、ロウがオペラ歌手だと知らなくて」
「そうだったね」
2001年のカルメンの舞台以来、ロウの人気は急激に上がっており、2002年にロウを主役にした現代オペラが作られたのだ。
「観客の反応はよかったと思うが、評価は二つに分かれてね。いまから思えば斬新すぎたんだな。いまもう一度再演されれば違う評価かもしれないよ。もっともロウのために作ったオペラで、ロウが引退してしまったわけだから、再演されることはないかもしれない。僕はいい舞台だと思ったんだが、残念だよ。特に終盤のロウのソロは素晴らしくてね。あれだけでも十分に価値はあると思うのだが」
舞台は近未来の宇宙基地なのだという。それだけでも伝統を重んじるオペラの舞台としては斬新だ。そこでは地球は「地球人」として宇宙の一員の役割を負っている。ただ、地球人は他星の宇宙人と比べて寿命が短く、たった百年の寿命では、千年以上の寿命を持つ他星の人の知識に追いつけない。そのため重要な役職につけないという問題を持っており、寿命を延ばすためにDNAの再構築の研究が行われている。地球代表の青年と、アンドロメダ星代表の女性の恋も描かれる。千年以上の寿命を持つアンドロメダ星人と、地球人の恋愛には未来の約束がない。
宇宙のバランスを崩す星が現れたという議題で物語は進行する。地球を含む太陽系と同じように、どの星系でも公転は同じ方向で回っているが、惑星によって公転方向がバラバラで危ういバランスを取っている星が見つかるのだ。常識外れのこの星は、救世主なのか、それとも宇宙の死神なのか?
そしてこの星は、まだ会議には参加していない宇宙的未開星になる。この星の処遇を巡って、各星の代表たちの駆け引きが始まるのだ。
ロウは地球人ではなく、この宇宙基地で開かれる宇宙会議でのリーダーの役割だ。
終盤のロウのソロとは、すべての参加星の代表に対して、宇宙への愛を歌っているのだという。聴いてみたいと思ったが、録画は販売されていないそうだ。
「星を操るって、まるでロウ自身のようじゃないか。僕はこのオペラの作者とはまったく縁はないけれど、きっとこの人も、僕みたいにロウから影響を受けたんだなと思ったよ。それに、このオペラはロウの希望でイタリア語のオペラなんだ。僕にとってはとてもうれしかったよ。」
そういえば、と監督は思い出すように言った。
「ロウの歌が変わったのは、その日本人の恋人が現れてからだそうだよ。僕がロウに出会ったときは、すでにその恋人がいたので昔のことは知らないけどね。もともとロウはあの魅力的な声と歌を持っているけれど、迫力があるゆえに怖かったらしいよ。なにしろ、昔、暴力事件を起こしたことをみんな知っているしね」
例の指揮者を殴った事件のことだな、と涼は思った。ではロウの他者の人生を変える能力は、伊那と出会ってからということになるのだろうか。
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