第19話 涼 26歳 春 ようやくエリクサへ

 すぐにでもエリクサに行きたい、と思いながら、再び涼がエリクサを訪れたときには三月になっていた。ようやく待望の車を購入し、マネージャーと休みの調整をしてエリクサに予約の電話を入れる。電話口に出た伊那が、お待ちしていました、三月になっちゃったわね、と笑っていた。


 エリクサまでの道程が、涼の初めての長距離ドライブになった。初めての長距離運転に緊張しながら、春でよかったな、と涼は思っていた。雪が降ったりしたら、とても運転できないからだ。カーナビの案内にそって、エリクサを目指す。それでも、エリクサが近づくと、ところどころ白い雪の名残が道路の脇に見えた。昨晩が寒かったから、雪が降ったようだ。

 涼はとりとめもなく、いろいろなことを思い浮かべながらハンドルを切った。伊那は何も言わなかったが、今日もまた特別な日だったりするのかな、とちらっと考えた。


 エリクサにはちょうどチェックインができる二時過ぎに着いた。駐車場に到着すると、すぐに伊那が迎えに出てきた。


「車が停まる音がしたから、涼さんだと思って迎えにきたわ」

 伊那はそう言って笑った。

「運転は大丈夫だった?」

「はい、緊張しましたが、なんとか無事にたどり着けました」

「それはよかった。あ、荷物持つわ」

「大丈夫ですよ、そんなに荷物は多くないので」

「そう?じゃぁお言葉に甘えて。なんだかお客さん扱いじゃなくてごめんなさいね」

「正直、僕はもう客の気分ではないです」

「あら、奇遇ね、私もよ」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「ロウさんは?」

「ダイニングで待っているわ。二人そろって迎えに出たら仰々しすぎるから、って言って」

 伊那と涼は連れ立って、エリクサの玄関に向かった。

 涼は、今日もまた客は自分だけなのかな、と考えた。有名人である自分のために他を断ってくれているのだろうか。それとも前回のように、今日も「客を泊めない日」だったのするのだろうか。


「えーと、あの・・・僕、また変な日に来ましたか?」

 と、涼は確認してみた。伊那は怪訝そうな顔をして、涼の顔を見上げた。それからふと気づいたように笑った。

「ああ!また前のように、星が降る日に来たのかってこと?そうね、今日は星の降る日ではなくて、別次元の自分と出会う日よ。だから涼さんは、今日、前世の話を聞くのでしょう」

 やっぱり変な日だったか、と涼は思った。だが、決して狙っているわけではない。そもそも涼は、伊那のように数字のことがわかったりしない。

「今日は、どうしてそういう日になりますか?」

「今日は三月五日でしょう。三は三位一体。五は五芒星。心と体と魂の謎が、五芒星の封印を解いて流れ込んできて、十五の光の糸になる。あ、十五って、三×五は十五だからよ」

 相変わらず、伊那の言うことはさっぱりわからなかった。よくわからないが、今日は、前に伊那が言っていた前世の話をするべき日ってことだな、と涼は解釈した。


 エリクサの玄関に到着し、木の扉を開ける。玄関を入ると、物音を聞きつけたのだろう、ロウが奥のリビングから出てきた。

「やぁ、やっと来たね」

 少しも変わらない輝く黄金の声が空間を広がっていく。ロウは微笑んでいた。

「こんにちは、ロウさん。もっと早く来たかったのに遅くなってしまいました」

「遅いわけではないよ。またいいタイミングの日に来たね」

 きっと伊那が言っていた、今日の日付の意味だろう。どうやら前世のための日らしい。

 ダイニングに入ると、中央にある暖炉では煌々と薪が燃やされていた。

「今日は暖炉がついているんですね!」

 涼は思わず声をあげた。ここエリクサで暖炉に火がともされているのは初めて見る。

「涼さんにとって暖炉は初めてだったわね。いつも涼さんが来るのは秋だったから。冬期は暖炉の火を入れることにしているのだけど、ここ長野は寒いから、三月になっても春という感じはしないのよ。暖炉の火って温かいでしょう。温度が温かいというだけではなくてね」

「わかります。僕も暖炉は好きです。でも暖炉の火にあたることは滅多にないから、うれしいです」


 リビングのテーブルは、暖炉を中心として配置を少し変えてあった。ロウの椅子が暖炉の前にある。その椅子の上に竪琴がおいてあった。涼が到着するまで、ロウは竪琴を弾いていたのだろうか。ロウは竪琴を手に取ると、ピアノのほうへ運んでいった。

「お茶を入れてくるわね」

 伊那はそう言って厨房に消えた。ロウはピアノの隣、いつも竪琴をおいてある場所に竪琴を立てかけてテーブルに戻ってくる。戻ってくるロウに涼は声をかけた。

「ロウさんは、どうやって竪琴をマスターしたんですか?」

「私には、どんな楽器でも見たら音を出したくなるという変なクセがあるのだ。それが初めて見る楽器なら、なおさらだ」

 ロウは肩をすくめて、ちょっと照れくさそうな顔をした。

「もともとピアノは得意だったから、鍵盤楽器はほとんどみんな弾けるよ。木管楽器、金管楽器もほとんど吹ける。打楽器もだいたい叩けるよ。弦楽器は弾けなくてね。弦楽器を弾く訓練をしたことがないのだから当たり前なのだが、それが悔しくて悶々としているときに竪琴に出会った。竪琴も弦楽器だが、ヴァイオリンやチェロと違って、弾けばその音が出る。弦楽器でも、これなら弾ける!と思って夢中になったのが最初だよ。もっともヴァイオリンは擦弦楽器で、竪琴は撥弦楽器で種類は違うがね。擦弦楽器が弾けないのは相変わらずだ」

「習ったわけではないのですか」

「私が子供の頃から習ったのはピアノだよ。他の楽器は、たいていはその楽器の持ち主を追い回して弾き方を教えてもらったというか、教えさせたというか・・・」

 ロウはくっくっと笑った。涼もつられて笑った。ロウの迫力で迫られたら、あきらめて教えるしかないだろう。なんだかその光景が想像できた。それにしても、ロウはそもそもピアノを弾いていたのか。一度もロウのピアノを聴いたことはないけれど、ロウのピアノもロウの歌のように美しいのだろうか。一度聴いてみたいと思った。


「珍しい楽器の持ち主は、たいていは楽器に興味を持ってくれたことがうれしくて、快く教えてくれるものだ。木管楽器や金管楽器の持ち主も、ほとんど気前よく教えてくれたよ。だが、弦楽器の持ち主は、たいてい楽器に触れられることに嫌な顔をする。口をつけて吹く木管楽器や金管楽器のほうが嫌がりそうなものだが、実際はそうではなかったよ。それもあって、弦楽器だけ習得できなかった」

 涼には、弦楽器奏者たちの気持ちがわかった。弦楽器は繊細で調弦が難しい。初心者に一度弾かれてしまうと、もとの音に戻すのは難しい。決して気軽に貸したりできない。涼は、自分だって貸さないだろうと思った。涼は子供の頃からヴァイオリンを習っていた。

「竪琴は弾くこと自体は簡単だ。ピアノと違って、一度にあらゆる音を鳴らせるわけでもないし、速いパッセージを奏でられるわけでもない。難しいのは一音をどれだけ美しく弾くか、という質のほうだ。そのためには、弦の一本一本を、クリアな音が出るように調節しなくてはならない。さすがに調弦はきちんと習ったよ。竪琴の音色が好きになって、手に入れたいと思ったからね」

「僕も竪琴の音色は好きです。でも竪琴を持っている人に出会ったのはロウさんが初めてです。日本ではあまり見かけないですね」

「そうだね、日本では珍しい楽器になるのかな」

「いつか竪琴を習いたいとずっと思っています」

「竪琴が欲しければ、用意しようか?」

「えっ?竪琴を?買えるんですか?」

「もちろん。私は竪琴を持っているからね」

「でも、調弦が難しいのでは・・・」

「最初は私がやってあげるよ。そのうち覚えればいい。これからもここに来るのだろう?」


 ロウは気軽に言った。思いもかけず、竪琴を手に入れるチャンスができ、しかもロウが調弦を教えてくれるという。それに涼はこれからできるだけエリクサに通いたいと思っている。

「じゃぁ、お願いします」

 涼の気持ちは固まった。竪琴はずっと手に入れたいと思っていた、憧れの楽器だった。それから涼は、自分から言い出すのもどうかと思いつつ、ためらいながら口にした。

「あの、ロウさん、よかったら竪琴を教わるかわりにヴァイオリンを教えましょうか」

 ロウのほうがぽかんとした。

「君はヴァイオリンが弾けるのか」

「はい」

「なるほど・・・そうか、わかった、ヴァイオリンを弾くからか、君の歌声は。なるほど」

 ロウはひとりで納得していた。

「どういう意味ですか?」

「君の歌声は、音を伸ばすときにゆるやかにしなった『コ』があるんだよ」

「コ?」

「ヴァイオリンの弦と同じしなり、これだよ」

ロウは手近にあった紙とボールペンを取って「弧」と書いた。涼は、綺麗な漢字だな、と感じた。書道を習っていた人の漢字のようだ。ロウは説明を続けた。

「音を伸ばすとき、まっすぐすぎては生真面目で面白くない音になるし、かといってぶれるのは訓練が足りていないだけだ。技術としてヴィブラートをかけたり、人の心を打とうとしてゆらぎを持たしたりする人もいるが、やはり意図を持った技術は作為的でしかない。かといって無神経に音を放り投げては人の心を打つ音にはならない。君の歌声は、真剣にまっすぐ伸ばしているのにかすかに弧がある。このかすかな弧が繊細な美しさになって、人の心に残るのだ。そうか、あの弧はさきに弦楽器を習得したからか。確かに弦楽器の音色が醸し出す弧と同じだ」

「・・・知りませんでした」

 涼は素直にそう言った。ヴァイオリンを習ったことで、自分の歌声にヴァイオリンの影響が出るとは思わなかったし、自分の歌声にそんな弧があることも、もちろん知らない。そこで涼はあれ、と思った。


「僕はロウさんの前で歌ったことありました?」

「ああ、君の舞台を見たからね」

 ロウは何気なく言った。

「えっ?ええっ?ロウさん、観に来ていたんですか?いつ?!」

「この冬の間に、君は舞台音楽のフェスティバルに出ていただろう。あれを観たよ」

「なんで楽屋に来てくれなかったんですか?」

 ロウは吹きだした。

「涼くん、私は君が泊まったことのあるペンションで出会っただけの人間だ。この関係で楽屋に押し掛けるのは変だろう」

 涼は、言われてみればそれはそうか、と思った。

「どこかで君に出会ったことのある人間が、みんな楽屋に来たりしたら困るじゃないか」

「そうですね。でも、次にもし舞台を見に来るときは、知らせてください」

「わかったよ」


 涼がヴァイオリンを習い始めたのは幼稚園のときだ。家の近くで、家族ぐるみで仲良くしていた一家の息子が、東京の音楽大学を出たという妻を連れて帰ってきたことが発端だ。ヴァイオリニストという存在は、周囲の人間の興味をひき、にわかに涼の家の中ではクラシックの話題が増えていった。

 ピアノを習っている子供は何人かいたが、ヴァイオリンを習っている子供は誰もいなかった。涼の両親は、ヴァイオリンを習いはじめるのは幼稚園くらいがいい、という話を聞いて、ちょうど幼稚園だった末っ子にヴァイオリンを習わせた。両親は音楽家ではなく、クラシック音楽にもさほど興味はなかったが、偶然が涼をヴァイオリンと結びつけた。音楽を愛するのは兄弟の中では涼ひとり、クラシックを聴くのも涼ひとりだ。


 その家の若い妻は、髪の長い、美しい女性だった。話す言葉も静かで優しく、立ち居振る舞いも静かで、大きな音をたてることはなかった。涼の周囲にいる明るくて元気な女性たちとは明らかに空気が違っていた。それがヴァイオリニストであったせいなのか、それとも彼女特別なものだったのか、もちろん幼い涼にわかるはずもないが、そばによるといい香りがして、うれしかったことを覚えている。

 思い返せば、あれは涼の初恋だったのかもしれない。

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