第20話 涼 26歳 春 そして前世

 伊那がお茶を持って戻ってきた。

「伊那、涼くんはヴァイオリンを弾くそうだよ」

「まぁ、そうなの?!」

 伊那が目を丸くして涼を見た。

「いや、あの、別にヴァイオリニストではないので、そんなに驚かれたら困ります」

「それで、私にヴァイオリンを教えてくれるのだ」

「あら、よかったわね。ロウの夢がひとつ叶うじゃない」

 そう言いながら、伊那は三人分のコップを並べた。今日はハーブティーのようだった。

「私が涼くんに竪琴を教えるから、涼くんは私にヴァイオリンを教える」

「じゃぁ、涼さんはまたすぐにエリクサに来られるのね」

「そのつもりです」

 涼はそう言った。これからは、初めからエリクサのための休暇を入れてもらう予定だった。すでに事務所に話して、これからは休みも入れていく了解はもらっていた。


「今日のハーブティーはミントよ。涼さん、ミントティーは好き?」

「ミントのガムとか飴とかは知っていますが、ハーブティーとして飲んだことがないです」

 涼は正直に言った。

「ミントって、香りがさわやかでしょう。この香りを嗅ぐと、不安や心配なんかが軽くなるのよ。浄化作用ね。いまの涼さんには、重い心配事はなさそうだけど。心配事がないときは、より気持ちが軽くなるのよ。波動が上がるってこと。ふふ、私が説明すると全部エネルギーの話になっちゃうわね」

「波動の話を聞くのは楽しいですよ。じゃぁ、いただきます」

 涼はそう言って、ミントティーに口をつけた。爽やかな香りとちょっとピリッとしたミント特有の味が口の中に広がっていく。

 ロウと伊那も、それぞれミントティーに口をつけ、ふっと三人ともが息をついた。涼が最初に話し出した。

「伊那さんが、今日はなんだか前世の日だとか言っていましたけど・・・」

「あら、前世の日じゃないわ。もっとも別次元の扉が開く日だから、前世も含まれるかしら」

 伊那が訂正した。

「今日もお客さんを泊めない日ですか?」

「今日は偶然ね。本当はもう一組予約があったのだけど、キャンセルになったの」

「そうですか」


 涼は、前回宿泊した日から、今日までにずっと悩みながら考えていたことを口にした。

「伊那さん、ロウさん、突然聞きますけれど、ここエリクサの経営者って、二人ともですか?代表は伊那さんですか?ロウさんですか?」

 伊那とロウが一瞬二人で見つめあってから、涼を見た。伊那が答えた。

「ロウにはいろいろ手伝ってもらっているけれど、経営者として登録されているのは私ひとりの名前になっているわ」

 伊那が、それでどうしたの?という風に涼を見つめていた。

「ずっと考えていたことですが、二階の天窓の部屋を僕専用の契約にしてくれませんか」

「え?」

 伊那の目が丸くなった。ロウは黙ったまま涼を見ていた。

「あの部屋は、僕の部屋です。僕が来るときのために、いつでもあの部屋は待っています。でも、実際にはあの部屋は僕の部屋ではない。ここエリクサの一客室でしかない。それはおかしいと思います。僕が来るのを待っている僕の部屋は、僕のものにしたいです」

 いま思いついたわけではない。前回、伊那に「北極星が待っている」と言われてから、ずっと考えていたことだ。あの部屋は、もとはひとつの客室で、涼以外の人間も泊まっていた。だが、前回、涼が北極星と出会ったときから、あの部屋は実際には涼の部屋になったということを感じていた。

 伊那は、今日の客が涼だけなのは偶然だと言ったが、それは偶然ではないかもしれない。見えない何か、星が、そうさせたのかもしれない。涼があの部屋で過ごす時間を邪魔しないように。

 それに現実的に考えて、自分が泊っているときには、他の客を選ばなくてはいけなくなるのではないか、という懸念もあった。逆に、ここエリクサで過ごす時間を、他の客に邪魔されたくない思いもあった。涼があの部屋を自分専用として契約することが一番いい方法だという気がした。


「それは考えたことがなくて・・・すぐには返事できないわ」

 伊那はそう言って、涼ではなくてロウを見た。ロウは伊那とは視線をあわさず下を向いていた。

「じゃぁ考えてみてください」

「わかりました」

 そう言って、伊那も視線を下に落として何事か考えていた。三者三様の想いを巡らせながら、それぞれに黙ってお茶を飲んでいたが、最初にロウが口を開いた。


「契約の話はとりあえず先送りにして、今日は今日のことをするとしよう。今日は三月五日だからね。もっとも、三月五日だからこの話が出たのかもしれないが。なにか昔の契約が、この契約を呼び起こしたのかもしれない・・・」

 ロウは伊那の顔を見た。

「それは誰と誰に契約があったということなのかしら」

 伊那とロウは、二人でまっすぐ見つめあっていた。互いに見交わす視線の濃さに、涼は二人の間にあった年月の重みを感じていた。さきにロウのほうが微笑んだ。

「君にもわからないことがあるのだね」

「当たり前でしょう。神様じゃありません」

 伊那も微笑んだ。それから伊那は涼に視線を投げた。


「契約のことは、突然だったから、あとでゆっくり考えさせてもらうことにするわ。それでいいかしら?」

「わかりました」

「ともかく、前回の続きをしましょうか。私、涼さんの前世を二つ、まとめて文章にしてみたわ」

「本当ですか?!」

「話すのがいいか、文章がいいのか、いろいろ考えてみたのだけど、文章のほうがまとまるかしらと思ったのよ」

「私は音を手伝うよ」

ロウが横から言った。

「音?」

涼は首をかしげた。前世を読むのに音とはどういうことだろう。


「君の前世には、音が印象的に出てくるからね。背景や物語、衣装や外見より、君は音のほうが繋がりやすいかなと思った。つまり、君が前世に聞いた音楽を再現してみるということだ」

「そんなことができるのですか!」

 涼は思わず大きな声を出してしまった。胸がどきどきと高鳴った。今までに、スピリチュアルに興味のある仲間同士で、霊能者から見てもらった前世の話題はあったが、前世の音楽を聴いた話など皆無だった。前世は「見る」ものであって、「聴く」ものではないと思っていた。

「伊那が協力してくれればね。もちろん楽器が違うから、完璧に再現することはできないよ。だけど、メロディーはたどれる」

「そんなことが・・・いや、あの、すごく、めちゃくちゃうれしいですよ!」

 興奮する涼を、伊那とロウが微笑んで見つめていた。


 やっぱり、あの部屋は僕が契約するしかない、と唐突に涼の中から決意がこみあげてきた。自分は特殊な人たちに関わって、特殊な経験をしている、そう感じた。

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