第17話 涼 26歳 秋 星のダンス

 真夜中、涼はまるで誰かに起こされたかのように急にはっきり目を覚ました。

なんだ?と思ったがもちろん誰がいるわけでもない。早く寝たからこんな時間に目を覚ましたんだな、と涼は思った。そしてふと天窓から星の光を見上げた。


 星が、ダンスを踊っていた。


 涼は目を何度がしばたいてみた。だが、何度しばたいてみても変わらない。星がダンスを踊っている。あの星は、そう、北極星だ。夢か、と思うが夢ではない。念のため腕をつねってみたが痛かった。これははっきりした現実で、すべての五感を感じている。なにか不思議な空間にいるわけでもない。現実の世界にいたままで、星のダンスを見ているのだ。


 どうしたらいいんだろう。


 涼はベッドから跳ね起きた。軽くパニックに陥っていた。

 星が何かを伝えているんだろうか。伝えているとしても、自分はそういう種類のメッセージを受け取ったことがない。もちろん読み解くことなどできない。伊那ならできるのかもしれないが、ここにはいない。それとも呼びにいくべきなのだろうか。


 星のダンスは、終わる気配もなく続いている。人でないものと通じる手段は、ほんの数時間前にロウから教わった、音を通じての方法しか知らない。やってみようか。星に声が届くわけでもないが、なにかせずにはいられない。


 涼は息を整えると、星をまっすぐ見つめた。ロウがやっていたように、まず大地に向かって静かな最初の一音を広げていく。星のダンスがゆるやかになっていく。星もまた、こちらを注目しているように感じられた。そうだ、いつも感じている、空気が聴いている感じと同じだ。だが、今回は空気ではない。星が、北極星が声を聴いている。

 涼は伊那やロウを起こしてしまわないように、小さな優しい声で続けた。どのみち大きな声を出したところで、星に届くわけもない。声の大きさは関係ないだろう。大地に向かって最初の音を広げたあと、右回りにゆっくりと音を回転させていく。星のダンスは鎮まっていく。かわりに星の光が強くなった。涼の音の回転にあわせ、星の光も強く大きくなる。涼の声が天頂に届いたとき、涼自身はまばゆい星の光の中にすっぽりと包まれた。光が強すぎてなにも見えない。涼は自分の音と、北極星の光とに包まれていた。

 だが、息は永遠に続かない。涼はゆっくりと音を左に回転させる。光も音と一緒に光度をさげ、静かに遠ざかっていった。音が左側に落ちる頃には、光の緒をひいて、星空のはるかかなたまで遠ざかり、動きを止める。涼は音を大地に向かって静かにおろし、大地を静かに這わせながら手放した。


 いったい、なんだったのかよくわからない。それでも、やるべきことをやったように涼は感じていた。北極星は、星空の中のひとつの星に戻り、そしらぬ顔でまたたいている。さっきのことなど、なかったことのように。涼は北極星をじっと見つめたが、もうダンスをすることもない。涼は北極星をながめたままで立ち尽くしていた。

だが、ふと冷気を感じて我に返った。あまりに長く北極星を眺めていたために体が冷えてきたらしい。涼はベッドの中に戻った。さっきの経験が鮮烈すぎて、眠れそうにはなかった。


 この部屋で眠ると、なにかが起こるな、と涼は思った。

 いや、前回はなにかが起こったわけではない。ロウと一本角の鹿の夢をみただけだ。いや、あれは本当に夢だったのだろうか。鹿がロウに跪く姿は、ほんの数時間前にも見た。あの三年前の夢は、実際にあったことのヴィジョンではないのだろうか。


 涼はケルトの伝説を思い出していた。霊力を持つ竪琴は、弦に霊獣:ユニコーンのたてがみが張ってある。ユニコーンは美しい姿に似ず気性が荒く、人が持つ穢れを嫌い、人間が近づくと怒り狂って蹴り殺してしまう。だが、歌の霊力を持つ吟遊詩人にだけは近づき、膝を折って竪琴のためにたてがみを与えるのだ。あの一本角の鹿はまるでユニコーンだ。いや、もしかして、あの一本角の鹿は、本当にここ長野の土地で、ユニコーンの役割を持っているのではないか。ユニコーンは死のときに、霊力の象徴である一本角を吟遊詩人に与えるのではなかったか・・・。


 眠れそうにもない、と思っていたが、体が温まってくると自然に涼は再び眠りについていた。


 涼は顔に差し込む太陽の光で目覚めた。いま何時だろう。秋の太陽が上がるのは遅い。時計を見ると八時をかなりすぎており、涼は飛び起きた。たしかエリクサの朝は早く、七時頃だったはずだ。

 涼は急いで身支度を整えるとリビングに降りて行った。伊那は奥の厨房におり、ロウがゆうべと同じソファーに座っていた。


 涼がおはようございます、と声をかけると、ロウが顔をあげて、おはよう。よく眠ったねと笑い、伊那が厨房から顔を出した。

「おはようございます。朝ごはんをお出しするわね」

 涼はゆうべと同じ、ロウの向かいのソファーに座った。ロウにゆうべのことを話さなくては、と思ったが、どこから話していいかよくわからなかった。伊那がコップに水と温かいお茶、それに小さ目の鍋にレンゲをつけた豆腐の料理を持ってきた。

「これは豆腐脳(ドゥフーファ)と言って、中国の湯豆腐といったらいいかしら。豆乳で煮込んであるのよ。豆乳は栄養価が高くてカロリーは控えめでしょ、中国人はみんな健康にとても気をつかうのよ。豆乳が苦手な人もいるけれど、薬味がたくさんかけてあるから大丈夫だと思うわ。まずこれから召し上がれ」

 涼は、そうか朝食はロウにあわせてあるんだな、と思った。ロウはもう朝食は食べ終わったのだろう。温かい中国茶を飲んでいた。中国茶を楽しむときの小さなカップではなく、大きめの茶碗だ。

 豆腐脳は豆腐に辣油、醤油、ネギ、干しエビがかけてあり、豆乳の独特の匂いは和らげられ、まったりした豆乳の風味が薬味と混じってえもいわれぬハーモニーを醸し出していた。胃の中から温まっていくようだった。


 一度厨房に戻った伊那が、セイロに乗った小籠包と温かいお茶をふたつ持って戻ってきた。

「これは私が作ったわけじゃないから、褒めないでね。蒸しただけ」

 そう言って笑った。

「私でもない」

 ロウが横から付け加えた。

「いただきます」

 涼はそう言い、湯気をあげている小籠包を頬張る。口の中で薄く柔らかい皮の中から、温かい肉汁が広がってくる。おいしかった。伊那も同じテーブルにつき、温かい中国茶をすする。

 涼は小籠包を平らげながら、真夜中の体験をどう伝えようかと考えていた。星が踊っていた、と言っても意味不明だろうか・・・。


 涼が食べ終わると、伊那は皿を下げ、ドライフルーツを小さく盛った皿をもって現れた。

「涼さん、ゆうべ何かあったの?」

 伊那から先に話をふられ、涼は真夜中の体験を話した。


 真夜中に呼ばれている感覚があって、急に目覚めたこと。誰もいないな、と思っていたが、ふと空を見ると星が踊っているように見えたこと。どうしたらいいかわからず、昼間、ロウがやっていたように声を空間に広げてみたこと。星の光に一瞬包まれ、それから星が遠ざかったこと。


 話し終えると、伊那が言った。


「ゆうべ、星のルーツの話はしなかったのに、結局、星に呼ばれてしまったのね。やっぱり星のルーツの話をしておけばよかったかしら」

 伊那はそう言ってロウを見た。

「ゆうべ、彼はとても疲れていたからね。あれ以上は無理だっただろう。だが、星のほうが待てなかったみたいだな」

「どういうことです?星のルーツって何のことですか?」

「あのね、つまり、涼さんは北極星に関係する人だということなの」

「北極星、と言われても・・・」

 涼は途方に暮れた。たしかに真夜中に北極星の光に包まれた。それは実体験として経験してしまったことだ。現実にはありえないような体験だが、涼にとっては現実の体験だ。それはもちろん、北極星に関する経験といえる。だが、いままでの涼の人生経験では、どう判断しようもないことだ。


「そうよね。涼さんには、ようやく今日、前世の説明をしようとしたところなのに、もっと先まで進んでしまったわ。本当は前世の話をしてから星の話をすればわかりやすいのだけど、涼さんは先に星の話を聞きたいだろうから・・・」

 伊那はそう話しながら考えていた。

「涼さんは、北極星の役割はなんだと思う?」

 涼は子供の頃に聞いた話をもとに考えてみた。迷子になっても北極星を見つければ帰ることができる。太古の船漕ぎたちが、方向を知るために探した天の星。

「いつでも北を教えてくれる星で、つまり道しるべのようなものだと思います」

「そうよね。じゃあ、もし北極星が人間のように感情を持っていて、地球を見下ろしているとすれば、どんな願いを持つかしら。北極星って、実は妙見菩薩という仏様なのよ」

「妙見菩薩・・・」

 涼は首をひねった。名前は聞いたことはあるが、どこかの寺で見たこともないし、どんな仏なのかもさっぱりわからない。

「妙見菩薩って、そんなにポピュラーな仏様でもないし、わからないとは思うわ。北極星、つまり宇宙の中心に位置する、星々の中で最高の神様なの。この宇宙の平和を司っているけれど、同時に人々のどんな願いもかなえることのできる万能の神様でもあるわ」

 伊那はいったん言葉を切って、ふたたび考えていた。

「人々には、ひとりひとりいろんな夢があって、ひとつとして同じものはない。人々の欲ではなくて、魂の奥からくる本当の願いというのは、きらめく星のように美しいものよ。天に無数の星がまたたいているように、地上には人々のいろいろな夢が、星のようにまたたいている。私たちは夜空の星を見上げているけれど、妙見菩薩は星空から、地上に生きる私たちの美しい夢を、まるで星のように見ているの・・・」


 涼は伊那の言葉につられて、地上に星のようにきらめいている光を思い浮かべた。それはきらめく夜景のように、あるいは宇宙船から撮影された青い地球の光のように美しかった。


「涼さんみたいに、歌を歌ったり舞台に立ったりして、人々の夢を集める人のことを、スター:星っていうのは偶然ではないわ。星、と言われる人間は、天の星と地上の星をつなぐ役割があるのよ」

「え・・・」

 涼は二の句が継げなかった。予想もしなかったことを言われて、なんと言ったらいいのかわからなかった。黙っていたロウが口を開いた。

「君のファンたちが、君に夢を見ているのはわかるだろう?」

「それは・・・わかります」

「君のファンが君に向けた夢は、君が星に運ぶんだ。それが『星』と言われる人間の役割だよ。だから、星が君を呼びにきたんだ」

 いつも威圧感のあるロウが優しく微笑んだ。涼は混乱していた。そんなことは考えたこともなかった。完全に自分の理解の外側にある話だった。


「涼さん、わけがわからなくても仕方ないと思うわ。でも、あなたのファンがあなたに夢を託すとき、あなたは地上の人々の夢を集めているということを思い出してみてほしいの」

「わかりました」

 涼は本当にわかったわけではない。でも、重要な話を聞いている気がした。


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