第16話 涼 26歳 秋 11月22日夜
「おかえりなさい」
伊那の明るい声が二人を出迎えた。厨房から顔を出した伊那は二人を見て笑った。
「なぁに、二人とも秋の夕暮れみたいな顔して」
「秋の夕暮れ?」
涼が聞き返した。
「さみしそうな顔って意味よ。待ってね、いまお茶を入れます」
伊那の声を聞いていると、涼はなんだか現世に帰ってきたような気がしてほっとした。伊那はお水とコーヒーを二人分入れて戻ってきた。
「これはコーヒーに見えるけれど、たんぽぽコーヒーっていって、たんぽぽの根を煎じたノンカフェインのお茶よ。だからコーヒーではないの。本物のコーヒー好きには不評な味だけど、健康にはいいのよ」
伊那は二人の前にカップを二つずつ置いた。
「今日は早い夕食にしましょうよ。涼さん、おなかすいたでしょう?」
「はい、正直おなかはすいています」
「じゃぁすぐに用意するわね」
伊那は厨房に戻っていった。涼は水をある程度飲みほしてから、たんぽぽコーヒーに口をつけてみた。たしかにコーヒーより薄く柔らかい味だ。コーヒー好きには物足りないかもしれないが、優しい味だと思った。ロウは黙ってたんぽぽコーヒーを飲んでいた。
しばらくたって伊那がカップを下げにきた。テーブルを拭き、晩御飯のためにクロスをかける。
「伊那、私も料理を運ぶよ」
ロウが立ち上がった。
「じゃぁ僕も運びます」
涼も立ち上がった。伊那がぷっと吹きだした。
「二人そろって手伝ってくれるの?それは嬉しいけれど、なんだかもはやペンションじゃないわね。そうね、本当はこっちの厨房にはお客さんは入れないのだけど、涼さんは普通のお客さんじゃないからいいわ。ではお願いします」
涼はロウと一緒に厨房に足を踏み入れた。調味料やふきん、取っ手や棚、お皿やコップは、赤・黄・オレンジなど明るいカラフルな色で揃えられていて、三年前にリビングにあったテーブルやチェアーと同じ南欧の彩りだった。涼は、やっぱり伊那の好みはこういう明るい色なのか、と感じた。
準備してあるコップやパン、スープにサラダを伊那に指示されながら二人は運んでいった。
「メインは温かいほうがいいから、またあとで持っていきます。先に乾杯しましょう」
今日の料理は三人分用意されていた。今日は伊那も一緒に食べるんだな、と涼は思った。三年前、伊那は一緒に食べなかった。
今日のスープはオニオングラタンスープだった。オーブンから出されたばかりで湯気を上げている。ニンニクと玉ねぎの食欲をそそる香りが漂っていた。飴色のオニオンスープの上にチーズフランスパンがとろけて乗っている。それにピスタチオが緑の側面を見せているテリーヌ。サラダは緑のハーブの葉っぱの間に小さな穀物のようなものが散らしてあった。
「このサラダはクスクスっていうのよ。モロッコの郷土料理なの。モロッコは長くフランスの植民地だったから、フランスにもモロッコの料理が入ってきているわ。お米に似た穀物に見えるけれど小麦粉で作った小さなパスタみたいなものよ」
伊那がそう説明してくれた。そういえば、ロウと伊那が出会ったのはパリだと言っていたな、と涼は思い返していた。
ガラスのコップは一人ふたつずつ用意され、ひとつは水、ひとつはオレンジジュースが注がれていた。ロウもお酒を飲まないらしい。
「じゃぁ、乾杯しましょうよ。なにに乾杯する?」
伊那が言い、ロウが答えた。
「そりゃぁ、涼くんが夢を叶えたことに対してだな」
「ありがとうございます」
「じゃぁ、乾杯の音頭はロウね」
「わかったよ。それじゃぁ、涼くんが俳優として成功したことに対して、乾杯!」
ロウが水の入ったグラスを掲げた。伊那も乾杯、と言ってグラスを掲げ、涼も水のグラスを持ち上げた。そういえば、こうやって改めて祝ってもらったことはなかったな、と涼は気づいた。この三年、ただ必死に走ってきた気がする。
三人は食事を始めた。クスクスはぴりっとした辛口に仕上げてあり、食が進んだ。オニオンスープは温かくいい香りがして、まったりと濃い味に仕上げてあった。テリーヌは鶏肉が加えられているようだ。涼は伊那の皿に取り分けた量が二人より少ないことに気づいた。
「伊那さんはあんまり食べないんですね」
「伊那は食が細いんだよ」
ロウが伊那の代わりに答えた。
「私は二人みたいに大きくないもの。私が同じ量を食べたら横にしか成長しないじゃない」
伊那はそう答えて、涼を見てさらに付け加えた。
「普段は、お客様のために少し豪華な食事を出しているでしょう。毎日あんな食事をしていたら、あっという間に太っちゃうから、普段はお客さんとは一緒に食べないことにしているの。今日は特別ね」
「そういえば、11月22日はお客さんを泊めない日って言っていましたよね。なんか、二度もそんな日に来てしまってすみません」
「いいのよ、涼さんは特別だから。お客さんを泊めない日っていうより、涼さんのための日っていうほうが正しいわ。それより、一本角の鹿には会えたの?」
「はい、森の奥にいました。歌わなくても、そこにいて待っていてくれました」
涼がこの先をどう言おうか迷っていると、ロウが続けた。
「山の神に歌を捧げようとしたのだが、不思議なことに私の声と彼の声を重ねると空間がゼロになってしまったのだよ」
伊那はしばらく首をかしげて考えていたが、なにかを思いついたような顔で笑った。
「それで、二人して秋の夕暮れみたいな顔で帰ってきたのね」
「どういう意味ですか?」
「ロウがあの岩の上で歌うと山の神が姿を見せるのよ。山の神が姿を見せるといっても、涼さんにはイメージがつかないわね。どう言えばいいかしら。もちろん、山の神が人の姿でそこに来るわけではないわ。山の神が現れるとき、まずつむじ風が起こる。それから空気が少し涼しくなって、甘い花の香りが漂ってくるのよ。山の神といってもそれぞれに性質は違うのだけど、ここの山の神は優しいの。暖かく優しい光を照らしてくれるから、全身が幸福感に満たされるわ。でも、ふたりの声は実は極だったのね。だから山の神が姿を現すのではなくて、空間がゼロになってしまったのね。極って、つまり反対側の力っていう意味よ」
涼は岩の上でのふたりの声を思い返してみた。ロウの声が空気を圧する、自分の声が空気に息を吹き返させる、そんな風に涼には感じられたが、そうか、それが反対側になる、という意味なのか。だから山の神が姿を現すのではなくて、空間がゼロになったのか。涼自身にも、無、ゼロ、という感覚はあった。
ロウは歌うことより、声そのものに興味を持っているのか。声で異世界と繋がることにはエネルギーを注いできたのだろうか。歌手になるより、有名になるより、神様のほうが大事だったのかもしれない。涼はそんな風に想いをめぐらせた。
この人が歌手になっていたら、きっと僕はファンだったろうな。
涼はそんなことを考えていた。
「それだと二人して、どうしたらいいかわからなくなるわよね。でも、ゼロっていうことは空間がきれいに浄化されたということよ。きっと山の神もお喜びだわ」
伊那はそんな風に言った。涼は、そうか、ああいうのを空間が浄化されたというのか、と思い返してみた。たしかになにもない無だった。無になることが浄化、つまり掃除みたいなものかな、と思った。
「でも、山の神に会えなかったのは残念かしら。また明日行ってみる?今度は山の神に会いに」
「そうだな」
ロウが答えた。ではロウは明日も山小屋に帰らずにここにいるのか、と涼は思った。ロウは顔を上げて涼を見た。
「明日は君が山の神を呼んでみるかい?」
「呼んだことがないので、呼べるのかどうか・・・」
涼は途方に暮れた。そもそも山の神がなんなのかよくわからない。
「それもそうだな。じゃぁ私が呼ぼう」
ロウはあっさりとそう言った。
「話が決まってよかったわ。じゃぁ、そろそろメイン料理をお出しするわね」
伊那が立ち上がった。
「取りに行くよ」
ロウもまた立ち上がる。伊那がありがとう、と笑った。涼は自分も行くべきかと思ったが、今回は待っていることにした。
しばらくして伊那とロウが戻ってきた。皿には肉料理が盛ってある。煮込み料理のようだ。
「この料理はナヴァランというの。羊の肉をトマトソースで煮込んでいるのよ」
羊の肉の他、玉ねぎ、パプリカ、ズッキーニ、じゃがいもなど野菜がゴロゴロと一緒に煮込まれ、赤く染まっていた。ハーブも一緒に煮込まれているようだ。トマトの甘酸っぱい香りが漂っていた。伊那は煮込み料理とパンを涼のテーブルの上に置いた。
「もしおかわりが必要だったら言ってね」
「はい」
涼はさっそく羊肉をとりわけてみた。ほろほろと柔らかく崩れて肉汁が口の中でとろける。トマトの酸味が効いていた。涼は感想を言おうとしたが、一足早くロウが「おいしいよ」と口に出した。涼も「おいしいです」と言ってみたが、なんだか取ってつけたみたいだった。
涼はふと、エリクサに到着してからたかが数時間しか経過していないことに気づいた。この密度の濃さはいったいなんだろう。舞台の上よりさらに密度が濃いのではないだろうか。
食事が終わると伊那がカモミールティーを入れてくれた。食事の開始時間が早かったのでまだ夜は早い。だが涼は軽い疲労感を感じていた。山を登ったからかもしれない。エリクサに来てから、すっかり非日常の空間に浸っているが、そもそも初めての主演舞台を無事終えたところだ。その精神的な疲れも出たのかもしれない。
無口になった涼を見て、伊那が声をかけた。
「涼さん、本当は疲れているのでしょう。早めにお休みになったら?お部屋は前と同じ、天窓の部屋です」
「そうですね・・・そうさせてもらいます」
涼は片づけをするべきかと逡巡した。その迷いに気づいたようにロウが言った。
「片付けなら私が手伝うから気にしないでいい。おやすみ、また明日」
「はい・・・では、おやすみなさい」
涼は立ち上がり、リビングを後にした。二階への階段を上がり、前回と同じ天窓の部屋に入って灯りをつける。この部屋は三年前と同じ青空のインテリアだった。涼は荷物をほどき、シャワーを浴びてから早々にベッドに入った。シャワーを浴びると一気に疲れが出たように感じた。いつもなら絶対に眠くならない時間だったが、すぐに睡魔が襲ってきた。涼は天窓から見える星の光を見つめようとしたが、あっという間に眠りに落ちてしまった。
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