第15話 涼 26歳 秋 ゼロを呼ぶ声

「ずいぶんいろいろと話したな。お茶の時間は終わりにして、私たちは森に行こうか」

 ロウはそう言った。

「そうね、いってらっしゃいな」

 伊那はそう言って涼を見た。

「伊那さんは一緒に行かないんですか?」

「そりゃぁ二人の歌は聴きたいけれど、私は歌う者ではないもの。ここで晩御飯をつくっているわ。涼さんの荷物は二階に運んでおきます。このままいってらっしゃい」

「ありがとうございます」


 ロウと涼は連れ立って外に出た。そのままエリクサの裏山に向かう。三年前、涼がひとりで山に登り、一本角の鹿とでくわした森だ。この森のどこかにロウの山小屋があるらしいが、涼はまだ行ったことがない。ロウは空を見上げてみたり、森の奥を見たりしながら何事か考えている様子で、あまり口をきかなかった。ふたりはほとんど会話せずに裏山を登っていった。だんだん森が深くなり、木々が生い茂ってきて、ふたりの周囲を背の高い木々が取り囲んだ。空気が澄み、深い森の奥のしんとした空気が漂ってきた。


 突然、ロウがピューイ、とまるで鳥のような音を立てた。その声にこたえるように、ピーッと鳴き声を上げて鳥がバサバサと舞い降り、ロウが差し出した腕に止まった。小鳥ではない、種類はわからないが中型の大きさのある鳥だ。ロウが口でピーッ、ピッと音を出すのにあわせて、鳥もピッピッと鳴き声をあげる。何度か繰り返したあと、鳥は再び羽を広げて飛び去った。

 涼は唖然としてその光景を見ていた。


「ロウさんは、鳥と会話できるんですか・・・」

「会話、というのは人間界の発想だよ。鳥たちは会話しているわけではない。ただ、いまここにいることを共有しているだけだ。だから私も、鳥とエネルギーを通じ合わせることに集中している」

 ロウは鳥が飛び立った方向をじっと見ていた。それからふと振り返り

「動物たちは、人間同士が会話する声が聞こえると近づいてはこないのだ。だから会話はせずに進むよ」

 と言った。わかりました、と涼は答え、それから二人は黙々と山道を進んでいった。

 ときおりロウがピーッと音を出す。その音にあわせて、鳥たちが姿を現し、ときにはロウの腕に止まり、ときにはロウの周囲をくるくると旋回し、やがてまた空に舞い上がっていく。涼はロウが鳥たちと交流する様子を感嘆しながら隣で見ていた。自分にもこんなことができるのだろうか・・・。


 山道をどんどん登り、涼はやや息があがってきた。だがウワサに聞いていたとおり、ロウはまったく息が弾むこともなく変わらぬ悠然とした様子で山道を登っている。僕のほうがずいぶん若いというのに、完全に負けている、と涼は思った。仕事と、仕事に役立つ歌や演技だけに集中して、体を鍛えるという根本のことをしていないからだ。帰ったら、ジムに通う手続きをしなくては、そんな風に考えていた。


 そのとき、山道のずっと先に、もこもこと動く茶色い塊が見えた。山道の右端をもこもこと前方へ動いていく。大きな茶色いしっぽが見えた。タヌキだろうか。近寄らず、かといって遠ざからず、同じスピードで前方を進んでいく。まるで先導しているみたいだ、と涼は思った。ふと気づくと、今度は道の左端にも、もこもこと動く茶色い塊がある。道の右端と左端に、もこもこと動く茶色い小動物。涼はなんだかなごやかな、楽しい気分になってきた。この二頭はつがいなのだろうか。


「狛犬ならぬ、狛タヌキといったところだな」

 ロウが声を出さずにそっとささやいた。ロウも目を細めて楽しそうな笑顔を見せていた。涼もうなずいて笑顔を返した。狛タヌキというと、どこか神聖な土地に案内してくれるのだろうか。

 右側のタヌキが急に立ち上がり、くるっと振り向いた。涼は驚いて立ち止まり、ロウも立ち止まった。タヌキとじっと見つめあう。タヌキは再び前を向くと、またもこもこと前方に動き始めた。ときおりタヌキは立ち上がり、二人を見る。二人も立ち止まる。それからまた前方に進んでいく。何度かその繰り返しがあり、やがてタヌキは二頭ともすっと道からそれていき、いなくなった。

 タヌキがいなくなってしまったな、と思うとまたロウがささやいた。

「ここから神域だよ」

 涼は大きく目を見開いた。鳥居があるわけではないが、空気がひんやりしていた。空気の密度と濃度の違いを肌で感じられた。これが神域ということなのだろうか。では、あの二頭のタヌキは、本当に神域の入り口を守る門番だったのか。


 ロウはさらに道を進んでいく。きっとこの先に一本角の鹿が待っているのだろう。それがはっきりとイメージできた。涼の感覚も研ぎ澄まされていた。

 はたして、ザザ、と音をたてて森の奥から一本角の鹿が姿を現す。三年前と同じ、はるか悠久の昔を感じさせるような不思議な真っ黒の瞳。だが、三年が経過して鹿ははっきりと年老いていた。体はより大きくなり、皮膚はややたるみはじめ、ところどころ灰褐色に変色している。鹿の三年は人と違って長いのだろう。三年前と変わらない真っ黒な瞳がまっすぐに見つめているのは、もちろんロウだ。鹿はゆっくりロウに近づくと、ロウの前で膝を折った。

 涼ははっとした。このシーンを見たことがある。そう、三年前、夢の中でだ。鹿はロウの前で膝を折る。ロウは角を掲げる。

 だが、この鹿にはすでに一本しか角はない。ロウは膝を折った一本角の鹿を優しくなぜた。鹿がうっとりと目を閉じる。歌はなかった。無音だった。

 ロウはこの鹿を「山の王」と言ったが、ではその山の王を跪かせるこの人はいったい何者なのだろう。山の王が崇拝して自分を捧げる相手は、山の神ではないのだろうか・・・。


 しばらくじっとしていた鹿は、やがて再び目を開き、ゆったりと立ち上がると体を反転させ、森に戻っていった。その姿を最後まで見送ってから、ロウがようやく声を発した。


「今日は歌で呼ぶ必要はなかったな。道案内がいたからね」

「あのタヌキたちのことですか」

「そう、私たちを案内してくれたね。山の神に呼ばれたのだろう」

 涼は、山の神とはロウではないだろうか、と思いながら聞いていた。

「いつもタヌキなんですか」

「いや、タヌキは私も初めてだよ。ウサギが来てくれたことはあるが・・・。タヌキか。可愛かったが・・・たぶん、君の人柄なんだろうな、いや、悪い」

 そう言ってロウはくっくっくとおかしそうに笑った。涼はいつもこんな風に笑われている気がするな、と思った。たしかにタヌキはユーモラスだ。もこもこと茶色い塊が動きながら歩いていく様はえも言われぬ愛らしさがあった。


「さぁ、山の王を呼ぶ歌も必要なかったし、それでは山の神に歌を捧げよう。行くよ」

 ロウはそう言って、涼をさらにうながした。

「はい」

 涼は慌ててロウのあとをついていった。ロウにはロウの山の神がいるのか、と思った。


 ロウはさらに山を登っていく。いつのまにか道も消えていた。道なき道の、山の斜面をひたすら登っていく。ロウは年齢を感じさせないほど身が軽い。かなり大柄で体重もあるだろうに、ひょいひょいと手や足を使って身軽に上っていく。涼は必死についていった。まさかこの年齢差で先に根をあげるわけにはいかない。

 小半時も登っただろうか。斜面一面に突き出た巨岩が目に入ってきた。

「あの岩が目的地だよ」

 ロウが言った。そこから岩を大きく回り込んで、ふたりはようやく巨岩の上にたどり着いた。

 巨岩の上からはるかにふもとが見渡せる。ちょうど太陽が正面の位置に来ていた。風が優しく吹いている。ふたりはしばらく、黙って風に吹かれていた。いったいロウはどんな歌を歌うんだろうと涼は考えていた。ロウが口を開いた。

「歌うといったが、普通の歌を歌うわけではない。歌は人界のものだからね。神には人界の言葉は必要ない。ここでは声だけを使うんだ。声明に近いかな。せっかく二人いるんだから一緒にやれればいいが。私についてこられるかい」

「どんな風にすればいいですか」

「音には、飛んでいく方向と回転する方向があるだろう。私は音をこうやって空に飛ばしていく」

 ロウはそう言って、指で右から反時計回りに上に向かう回転の方向を示した。

「私一人では、息がつき、やがて音はこの方向に落ちる」

 ロウは指をそのまま左下方へとずらし、そのまま下へと降ろした。

「君は、私の後について、同じように次の音を空に向かって回転しながら上げてほしいのだ。私の声が落ちる前にね。次に、君の息が尽きる前に私は次の音の回転を空に上げる。そうすれば音の回転が途絶えることなくつながっていく」

 ロウが言っていることは、なんとなくイメージはついた。音に方向と回転があることには気づいていた。

「わかりました。やってみます」


 ロウはうなずいた。それからロウは太陽の方向を向き、静かに息を整えた。目を閉じ、息をゆっくり吸ったあとで、静かな優しい音をそっと大地を這うように発する。しばらく大地を整えるように滑っていった音を、ロウは右回りに上げていった。やがて音は空気を圧するような力強さを持って激しく回転しながら天に向かっていく。空間がバリバリと音を立てるようなすさまじい迫力に満たされていった。涼は一瞬、吹き飛ばされるようなめまいを覚え、ぐっとハラに力を入れた。しっかりしろ、と自分に言い聞かせた。ロウの声は、「空気が聴いている」ような種類のものではない。空気のすべてがひれ伏して恭順しているようだ。やがて天に昇って行ったロウの声は、左に向かい始めた。次は涼の番だ。涼は息を整えた。

 大地に向かって、最初の静かな音を広げていく。ロウの声が左側に落ちていくのを感じながら、ゆっくりと右に向かって音を回転させてながら天に向かっていく。さきほどまでロウの声に圧倒されていた空気が顔を上げてこちらを振り向いた。空気が息をしている。空気が涼の声を聴いている。涼の声は天に向かって伸び、やがて左に落ちていく。

 再びロウが、次の音を発し、音の回転をあげながら右へまわしていく。次の回転は、前よりも速く、大きい。最初の一音からすさまじい回転速度と大きさがあったのに、まだ前よりさらに大きくできるのか、と涼は驚くしかなかった。いったいどんな身体能力なんだろう。

 ロウの声が空間全体を圧迫していく。涼も次の一音をより速く、大きくする。そして次の一音・・・。ロウは一音、一音、音を速く大きくし、限界まで広げたあとで音の回転を遅く小さくしはじめた。そうか、こうやって終了させるのか、と涼は理解した。やがてロウは左に向かう音をすべて地面に向けた。音は大地を這うように広がり、静かに消えていった。

 ふたりは黙ったまま、岩の上にたたずんでいた。音によってすべてが薙ぎ払われた感じがしていた。そこは無だった。ゼロだった。


 やがてロウが、帰ろうか、とぽつんと言い、涼はうなずいた。必死で登ってきたこの急な斜面をまた下りるのか、と思ったがロウはさらに上がる、という。しばらく上がると山道に出た。そこからふたりは口数少なく山を下りていった。

 秋の日は短い。すでに夕暮れが始まっていた。二人がエリクサに帰り着くと、ダイニングから芳ばしい香りが漂ってきた。涼はすっかりおなかがすいていることに気づいた。

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