第13話 涼 26歳 秋 声のエナジー
「そうね。まず、涼さんの声はロウと同じように特別だと思うのだけど」
伊那はロウを見た。
「その話はしたよ。歌手にとって一番大事なのは歌の技術ではなくて、声だってことはね」
伊那はうなずいた。
「涼さんは、自分で自分の声のことはわからないと思うわ。だって、涼さんは永遠に自分の声を聞くことはできないのだもの。私たちは空気に運ばれた涼さんの声を聞く。でも涼さんが聞く自分の声は、骨を伝って内側から伝わる振動でしかない。録音された声は機械の再生音。このことは声だけではないわ。私たち人間は、未来永劫、自分の瞳を自分で見つめることはできない。鏡は反転した自分の姿。写真や動画は機械の再生でしかない。結局のところ、自分の本当の姿を見つけ出すのは自分自身ではないの。誰かに見つけられ、見出されるからこその才能なのよ」
ロウが付け加えた。
「私も自分の才能を知っていたわけではない。見つけ出してくれた人がいたから、歌うようになった。その人がいなければ、歌っていないよ」
「つまり涼さんは、自分が与えられた才能に気づかずにいた。歌う才能ではなくて、演技の才能ではなくて、神様に与えられた声自身が持つ才能という意味よ。でも俳優になりたいという夢があったから、歌は歌っていた。ああ、そうだ、思い出したわ、ここに来てロウに会うと運が好転するというウワサを聞いて来たのだったわね」
「はい、俳優になるには運が必要だと思ったので」
「私は魔法使いではないよ」
ロウがお茶をつぎながら言った。伊那が反論した。
「あなたみたいに影響力が強い人は魔法使いみたいなものだわ」
ロウは苦笑したが何も言わなかった。
「あの三年前の夜、涼さんは運のことを考えていたかもしれないけれど、私とロウは涼さんの声に注目していたの。特別なエナジーを持つ涼さんの声のことをね。でもちょっと待って。そうね、ロウだって、ロウの声を自分で聞くことは未来永劫できないのよ。だから結局、本当の意味で『聴いて』いたのは私ひとりということになるのかしら。よく考えたら、とても贅沢な経験をしたのね、私」
伊那はくすりと笑った。
「人と人の出会いが大切なのは、自分の本当の才能を、魅力を、美点を探し出してくれるのは必ず他者だからなのよ。自分のもっとも素晴らしいところを探し出してくれる人と出会うことが必要なの。運はすべて他人からやってくる。涼さんをオーディションで選ぶのも人、涼さんを主役に選ぶのも人、涼さんの歌を素晴らしいと思うのも人、涼さんの舞台にお金を払うのも人、涼さんを愛するのも人、仕事運も恋愛運も金運も人気運も、みんな人が運んでくる。
だから運がいいということは、出会いがいいということなのね。だけど、実は出会いのもうひとつ前に大切なことがあるの。たとえば、三年前のことをいうなら、涼さんをオーディションで合格させた人がいるでしょう?それが運命の出会いだと思うのが普通よね」
「そうですよね」
涼はそう言いながら、三年前にオーディションで自分を選んでくれた人のことをあまり覚えていない自分に気づいた。涼がいつも思い出していたのはロウのことだ。
「どうして涼さんがオーディションで合格したのか、それは涼さんが、涼さんの中にある『声のエナジー』を歌で表現できたからでしょうね。声のエナジーが、涼さんも気づかない内に全開で光輝いている状態になっていたのね。
人の才能は、星の輝きを浴びると眠りから目を覚ますのよ。子供たちが星空を好きなのは偶然じゃないわ。星の光は、才能を呼び覚ます力を持っているの。だけど、星の光は地上でははかないくらいに遠いでしょう?
でも、涼さんはあの夜、星の光へ通じる扉を開けて、光り輝く星の光を浴びた。だから、涼さんの才能は、涼さんの中で静かに眠っている状態から、目を覚まして光輝いていた。涼さん自身が驚くくらいにね」
「星の光を呼んだのがロウさんってことですか?!」
涼は思わず大きな声で言った。伊那はうなずいた。
「だから結局、魔法使いはロウってことになるのよ。ロウは魔法使いと言われるのが嫌みたいだけど」
伊那がロウを見て言った。ロウは苦笑しながら言った。
「仕方ないだろう。伊那が言う通り、私も未来永劫、私の声を自分で聴くことはないのだから。自分が何をしたのか教えてもらうのは、いつも他者からだ」
「そうね。ロウは自分の声を自分で聴けない。涼さんも自分の声を自分で聴けない。でも、特別なエナジーを持った二つの声を聴いている私は幸せだわ」
伊那はまたにっこり笑った。
「それと、涼さんが経験したミラクルはもうひとつあるわ。モーツァルトの歌を聴きながら星空を見たのでしょう?あのとき、本当はエネルギーで何が起こっていたのか話してみるわね。涼さんは、モーツァルトの世界を見たと思ったのでしょうけれど、それだけじゃないわ。
想像してみて。天国はどこかにたしかにあって、そこでは天使たちが歌っている。天国の音楽界ね。モーツァルトはいつも天国の音楽界とつながっていた。だから地上でモーツァルトが音楽を作るとき、天使たちも聞くことができたの。むしろ、天使たちと一緒に作ったというほうが正しいかしら。
モーツァルトの音楽を通して同じ世界、つまりきらめく星空を見た涼さんも、あのとき、天国の音楽界に参加したの。でもね、その扉はモーツァルトが開くのでも、ロウが開くのでも、天使が開くのでもないのよ。涼さんが自分の意志で、自分で扉を開いたのよ。だから、ロウが『扉を開いたのは君だよ』と言うのよ。
あの夜は完璧に条件がそろっていた。モーツァルトの音楽、ロウの声、それに星の光。星の光はいつも同じだけ降り注でいるわけではないのよ。星の光が強い日と弱い日があるの。物理的に光の量が多いという意味ではもちろんなくて、星のエネルギーが地上に届きやすい日というのかな。
あの日は特別に星の光が強い日だったから、エリクサの予約は入れていなかったのよ。その日に突然やってくる人には意味がある。
涼さんは、星の光を探していた。自分では運を拓くなにかを探していたのかもしれないけれど、涼さんの中の星の光を探す想いが、涼さんをここに連れてきて、そして涼さんは、自分の手で、星の光に通じる扉を開いたのよ。
だから、あの日以来、涼さんの歌はいつも天国に届いている。涼さんが歌うとき、いつも天国の天使たちが一緒に歌い、天国の神々が聴いているのよ。モーツァルトも一緒に聴いているわ。天国の音楽界とつながるというのは、そういうことなの」
涼は茫然と聞いていた。伊那が言っていることは理解できたが、実感がわかなかった。
三年前、自分の歌が変わってしまったとき、まるで空気が聴いているようだ、と思った。まわりの空気のすべてが息を詰めて、全身全霊で聴いているような不思議な感覚におそわれた。その静けさを消さないように、細心の注意をはらって音を紡いでいくのが自分の歌になった。でもそれが、天国の音楽界に参加することだとは夢にも思わなかった。あの日以来、涼は観客に向けて歌うことすらできなくなった。自分は本当にどこかにある天国に向かって歌っていたのか・・・。
そうか、ロウもまた観客ではなく天国に向けて歌っていたのか。いつも天使たちがロウの歌声を聴いている。ロウが天国に向けて歌うとき、観客のすべても天国を垣間見る。そして浮世のつらさを手放し、天界の愛や安らぎを手にいれるのだ。
「伊那のほうがたしかに私より説明が上手だな」
ロウはそう言いながら、また次のお茶をつごうとしていた。
「どういたしまして。だてに証明ばかりしていませんわ」
「証明?」
涼は意味がわからなかった。伊那が笑った。
「私は数学科なの」
「数学?!」
涼は素っ頓狂な声をあげた。数学科なんて自分とはまるで縁がない世界だ。いや、そもそも、伊那は占いをしていたのではなかったか?数学を専攻して占い師になる理由は一体なんだろう?それにたしか、ロウとは大学生のときに出会ったと言っていなかったか。黄金の声をもつロウと、数学科の学生といったい何のつながりがあるんだろう。
「あっ!」
涼が突然叫んだ。
「どうしたの?」
「すみません、急に思い出したことがあって。三年前、ロウさんの声を聞いて黄金の声みたいだ、と思ったんですが、黄金の声の話がなんだったのかどうしても思い出せなくて。いま、急に思い出しました」
「どんなお話?」
「たしかケルトの話で、『黄金の声』と呼ばれる吟遊詩人がいました。彼は歌だけで人の心を癒すことができます。彼が森で歌うと動物たちが集まってきて輪になって歌を聴きます。彼の歌は動物も癒すことができるんです。魚たちが川辺に集まってきたり、木々が季節外れの花を咲かせたり、空から不思議な声がしたり、山がさざめいたり、自然のすべてが彼の歌を聴くんです。でも神々は彼の歌の才能を愛しすぎたあまり、彼が年老いて滅びるのをおそれ、生きたまま天界にさらっていってしまう、そんな話でした。その吟遊詩人のことを『黄金の声』と表現していたな、と思い出しました」
「私は年老いているよ。神々に愛されなかったかな」
ロウが涼をからかって言った。
「えーと、そういう意味ではなくて・・・」
「涼さん、ロウの言うことをいちいち気にしなくていいのよ。その吟遊詩人の話は私も知っているわ。でもそうね、その吟遊詩人には、ロウより涼さんのほうが近いわよ」
伊那がじっと涼をみた。
「どういう意味ですか?」
「その吟遊詩人のエネルギーと涼さんのエネルギーが似ているってこと。ロウは似ていないわ」
「つまり、神々にさらわれるのは私ではなくて君ということだな」
「そんなことはないですよ。僕が歌ったからといって、動物が集まってきたこともないですし」
「それはただ単に森で歌ったことがないからだろう。どうだい?今日は森で歌ってみないか」
「森で、ですか?!」
涼は驚いた。もちろん次にロウに会ったときは、またロウの歌声を聴きたいとは思っていたが、森で歌うことは考えていなかった。
「ロウが歌えば、一本角の鹿がやってくるわよ」
伊那がそう言った。
「それはぜひ見たいです!」
結局、森で歌えば動物たちが集まってくるのはロウなのではないか?伝説の吟遊詩人と同じ能力を持っているのは、やはりロウなのだ。ロウが歌えばあの一本角の鹿が姿を現すだろう。それは当たり前のことのように感じられた。
「お茶が終わったら行ってみよう」
ロウがそう言った。
「いまはお茶の時間ね。おしゃべりしましょうよ」
伊那が微笑んだ。
「はい、もちろん」
誰かとただ話しているだけで、こんなに心が浮き立つことはない。伊那やロウと会話していると、自分の魂の奥から揺さぶられる気がする。
でもそうだ、この三人で話すのは、三年前の数時間、そして三年を経過してのこの数時間、ただそれだけだ。その数時間の密度の濃さ、三年前の数時間で自分の運命は変わってしまった。この数時間ではいったい何が起こるのだろう。
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