第12話 涼 26歳 秋 3年前を振り返って

 涼はこの三年、次にロウに会ったら絶対に聞こうと思っていた。

 ロウと出会い、一緒に時間を過ごした一晩だけで自分の歌が変わってしまったことの理由だ。ロウの歌のおかげで、自分の人生は変わり、俳優を目指す若者から、俳優へと変わった。その扉を開けたのはロウでしかない、と思っていた。ロウは確かに素晴らしい歌声を持っているが、自分はあの夜に、ロウから歌のレッスンを受けたわけではない。歌ってすらいない。ただロウの歌声を聴いて、ロウや伊那と語り合っただけだ。


 なのにエリクサから帰ると、落ちたはずのオーディションがもう一度開かれ、そしてなにより、涼自身の歌声が根本から変わってしまった。その歌声で涼はオーディションに合格し、それから俳優への道を歩んできた。

 いったいあの夜に何があったのだろう。きっとロウに聞けばわかるに違いない、そう思っていた。


 ロウと涼、それに伊那はリビングダイニングに向かった。部屋はすっかり模様替えされていた。前はユニークな形のテーブルに、南欧風の明るい色とりどりのチェアーが目を引いたが、いまは落ち着いた木目調のラウンドテーブルにシックで座り心地がよさそうなソファーに変わっていた。

「模様替えしたんですね」

「ええ、そろそろ模様替えしようと思って。今回は落ち着いた雰囲気にしてみました」

 涼は、前の南欧風のインテリアは伊那の好みだけど、今回のインテリアはロウの好みなのかな、と感じた。部屋の端には変わらず黒いアップライトピアノがある。それに竪琴と。

「お茶入れてきますわ。涼さんは手を洗ってきてね」

 伊那はそういって奥に入っていった。涼がリビングに戻ると、ロウは端のテーブルについていた。今日のロウは白いセーターを着ている。白いセーターにロウの銀の髪が優しくグラデーションを添えていた。このソファーはロウ専用なのだろうか、他のソファーより大きかった。涼はロウと同じテーブルについた。なんとなく予感はしていたのだが、今日も客は涼ひとりのようだ。


「俳優になった気分はどうだい?」

 ロウが涼に尋ねた。

「毎日充実していますし、夢がかなったわけですから、うれしいと感じています。それよりロウさん、今度会ったらどうしても聞きたいと思っていたことがあります」

「なんだね?」

「前にここで過ごしたとき、あのときが僕の人生の転換点だった気がするんです。どうしてあの日、僕の人生が変わってしまったのか、いったい何が起こったのだろう、とずっと考えていました。もしあの日、ここにこなかったら、僕は俳優になっていない気がします」

「私は君が舞台で活躍するようになったことは知っているが、君と前に出会ってから、君が何を感じ、どう生きてきたのかは知らないのだ。それを話してくれれば、なにか答えることはできるかもしれない」


 涼は三年前にここに来てから、今日までのことを話した。

 まず、エリクサから帰ったあとで、落ちたはずのオーディションがもう一度開かれたこと。自分の歌声が変わってしまったこと。歌を歌うときに感じる、人ではない何かが聴いている感じ、観客がいようといまいとまるで関係ないがごとき、絶対的な「聴いている」存在の静けさ。

 涼がその存在に意識を向けると、なぜか人々は涼のほうに意識を向ける。不思議な一方向の流れ。

 涼がたどってきた役柄と歌ってきた歌。そして掴んだ主演公演のこと。


 ロウは静かに聞いていたが、聞き終えると言った。

「私が扉を開いたわけではない。扉を開いたのは君だよ」

「どういうことですか?」

「霊的に説明したほうがいい?それとも音楽的に説明したほうがいいかな?」

「どっちも聞きたいです」

「そうだな・・・私は君の歌を聴いたわけではないが、君の声が特別であることはわかったよ。歌には技術や訓練も必要だが、それより大切なものは声だ。どういった種類の声がいいかということではなく、声にエナジーがあるかどうか、それに尽きるのだ。同じ声の歌手はふたりも必要ないからね。声にエナジーがあれば、声を通じて他者にエネルギーを与えられる。歌手というのは、声というツールを使って、尽きることなく他者にエネルギーを与えられ続ける者のことだよ。無尽蔵の声の泉のようなものだ。声がエナジーの泉とつながっているかどうかは、生まれつき神から与えられた才のように私は感じている。

 君の声は、確かにエナジーの泉とつながっていた。ただし、そのエナジーの泉を歌で表現できるかどうかはまた別の問題なのだ。もし君が歌手になれないとすれば、神から与えられた才をうまく表現できていないだけのことだ。神から与えられた才をうまく使えない人間はたくさんいるし、珍しいことではない。そこには個人個人のいろいろな問題が絡んでいるのだろう。ともかく、君の声は歌手になるべきエナジーのある声だったし、いまの君は、いるべき場所でやるべきことをやっている、というところかな」


 声の泉、涼にはうまくイメージがつかめなかった。確かに「あなたの歌を聴くと元気が出る」とは言われる。だが、自分としてはエネルギーを与えている気はしない。それに、もし自分のエネルギーを与えているなら、自分自身のエネルギーが減ってしまうのではないだろうか。だが、ロウに歌手になるべき声だと言われたことは嬉しかった。


「よくわからないような顔をしているね」

 ロウが笑った。

「正直、よくわかりません。僕はエネルギーを与えているような感じはしないです」

「わかったら大変だよ。君のエネルギーがなくなってしまう」

「ええっ」

 やっぱり減るんじゃないか、と涼はそう思った。

「少し霊的に説明しようか。君はずっと自分の歌をなにかが聴いている気がすると言ったね。そのなにかが大事なのだ。本当の歌は人に向けて歌うものではない。そうだな、神という言葉では表現しにくいが、宇宙というか、星というか、永遠に向かって歌うものなのだよ。そうすることで、その歌を聴いている人すべてが永遠につながる扉を開ける。そこから何を感じるかは人それぞれだが、歌手が永遠に向けて歌えば、それぞれの人が抱えている人の世の苦しみや悲しみは永遠に向けて溶けていくものなのだ。そして手放した苦しみのかわりに愛や安らぎが戻ってくる。歌手というのは、声を使ったヒーラーなのだよ」

 ロウの説明は壮大すぎて、涼にはうまくつかめなかった。ロウは微笑んでさらに続けた。

「君は空気が聴いている、といったが、なにか人ではないもっと大きくて、もっと神秘的なもの、ということだろう」

「そうです」

「それを神と表現すると、なにか問題が起こるかい?」


 涼は考えてみた。歌を歌うときに感じる、人ではない何かが聴いている感じ。もし神が自分の歌を聴いているとしたら?


「そもそも、なぜ神が僕の歌を聴いているんですか?」

 ロウは、はははは、とその場すべてを明るく輝かせる声で笑った。涼は、たしか三年前にもこうやって笑われた気がするな、と思い出した。

「伊那が言うように、そこが君のいいところなんだろうな」


 そのとき、伊那が三年前と同じ中国茶器を持って現れた。小さな小さなお猪口のようなコップが三つ。この小さな杯で何杯も何杯もおかわりすることで、一緒にいる人と時間の流れをゆったりと共有するのだと三年前に教わった。


「ずいぶん楽しそうね。なんのお話?」

「私の説明ではうまく伝わらなくてね。伊那が説明してやってくれるかい?」

「なんのお話かわからないけれど、はい、がんばってみます。でもその前にお茶の準備をしましょうよ」


 ロウは手際よく、伊那がお茶を準備するのを手伝った。三年前とまるで変わらない、東洋の舞踊のような二人の所作を見ながら、伊那とロウの互いのタイミングのよさに改めて涼は感心した。

 三人分のお茶が入ったところで、伊那が、それで何を説明するの?とロウに聞いた。

「そう、彼はね、三年前にエリクサに来てから自分の運命が変わったと言うのだ。その運命の扉を開いたのが私だとね。だが彼の話を聞いてみると、彼はここに来てから、歌う歌が変わっている。歌を歌うときに、人ではないなにか、静かで大きななにかが聴いている感じがするというんだよ。彼の歌は、人に向かって歌うものではなくて、その存在に向かって歌うものに変わってしまった。そう変わったことで彼は本物の歌手になった。それは彼が、彼自身の扉を開いたからだ。だが、私の説明では、彼は自分の歌がなぜ変わったのかよくわからないらしい」

 伊那は首をかしげて言った。

「結局のところ、あなたに出会ったことで、その扉が開いたのではないの?」

「ですよね?!」

 涼は勢い込んで言った。ロウは苦笑した。

「伊那、私は魔法使いではないよ」

「私は涼さんがあなたのことを魔法使いのように思う気持ちはわかるわ。でも、そうね。三年前、私がお茶を入れている間にロウは歌を歌っていたわね。あのとき、涼さんはなにか感じたの?」


 涼は三年前、ロウが歌ってくれた記憶を思い出して語った。最初にロウが、涼がオーディションで落ちた歌を歌ってくれたこと。恋の歌なのに、あまりにも荘厳で宗教歌のようにしか聴こえなかったことに驚いたこと。ロウから何を歌おうか問われて、今度は逆に宗教歌をどう歌うのか聴きたくなり、モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスをリクエストしたこと。その歌を聴いているときに、まるで星空の中にいるような、というより星の中に佇んでいるような幻覚をみたこと。ロウに、君も歌えば、と言われたが歌う気がしなかったこと。


 その話を聞いていたロウが言った。

「私は恋の歌は神にささげるつもりで歌う。宗教歌は大切な人のために歌う。そうすることで、恋の歌に永遠の愛の息吹が宿り、宗教歌に誰かひとりを癒す力が宿る。君にそう歌えと言っているわけではないよ。これは私自身が歌いながら見出したことなのだ。だから、私が歌う恋の歌はいつも宗教歌のようだと言われるが、そういう歌い方を好きになってくれる人もいる。君は私とは違う種類の声なのだから、違う歌い方をすればいい。君の声は優しいからね、宗教歌のような恋歌を歌う必要はない」

「ロウさんは・・・あの、歌手になろうとは思わなかったんですか?」

 涼は気になっていたことを聞いてみた。

 ロウは、ただ話すだけでも心に残るような素晴らしい声を持っている。あれから三年、ロウ以上に涼を感動させた歌手は誰もいない。一度聞いただけだが、音程も正確だし、技術も完璧としかいえない。こんな声と歌を持っている人が、有名にもならず人生を過ごしたなんて、どういうことだろう。しかもきっと若い頃は、いや、高齢となった今でさえ、容姿も魅力的だ。

「そりゃありがとう。若い頃イタリアにいたことがあってね。イタリアの人は歌がうまい人ばかりだから、一緒に歌っていたよ」

 伊那は、ロウとはパリで会ったと言っていたが、ロウはイタリアに暮らしていたのか。二人とも、ヨーロッパに繋がりの深い人なのか。

「暮らしていたんですか?」

「そう。知ってるかい?イタリア人は世界一美しい声を持っているってね。ヴェネツィアのゴンドラ乗りは、歌のうまさで選ばれるんだよ」

 涼はイタリアに行ったことはないが、そのことは聞いたことがある。ヴェネツィアのゴンドラ乗りの誰を日本に連れて来ても、日本人の歌手は誰も叶わないとか。歌に対する文化の長さ、深さが違うのだと。オペラを産んだ国は、国民みんなが音楽と歌を愛している。

 では、ロウのこの声と歌も、まわりの人と音楽を楽しむだけのものだったのか。


 二人の話を聞いていた伊那が口を開いた。

「涼さんにとって、三年前になにが起こったかわかったような気がするわ。説明してみます」

「本当ですか?!」

「たぶん、説明はロウよりうまいわよ」

「ずいぶんだな。仕方ないから、私はお茶を入れておくよ」

「お願いします」

 ロウは苦笑しながら、次のお茶を入れるために茶器を手に取った。

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