第11話 涼 26歳 秋 ロウとの再会

 車は街中を通り抜けて、森の中へ入っていった。行きかう車が一気に少なくなる。背の高い木々が車を見下ろしている。車の窓を開けているわけではないが、空気が澄んでくる感じがした。

 涼はもうひとつ気になったことがあった。


「いままで努力しなかった魂が、この人生で逆転できることはないんですか?」

「うーん、それってね、高校三年生まで宿題もせず勉強もせずに怠けていて、とつぜん、志望校を東大にしたいとか言っているようなものよ。この世に絶対はないのだけど、難しいのではないかしら。

 ただね、もちろんその人なりの一発逆転はあるの。そもそも、命をもって生まれてきたということ自体がものすごいラッキーなのよね。この地球に生まれてこられただけで、宝くじで一億あたるよりはるかにすごい幸運なのよ。もっとも、この地球では『忘れる』という掟があって、なぜ生まれてきたか覚えていないし、そもそも生まれただけで幸運とも知らないし、自分が誰なのか、何をしにきたかもわからないわけだから、そのなかで自分だけの幸せを見つけるのは難しいのだけど。生まれる前に決めた自分だけの幸福は見つけられるようになっている。

 ヒントは自分の人生の中に散りばめられているのよ。ゲームと同じね。人生という旅をしながら、誰かに出会って友達になって、新しい知識と技術を学んで成長して、みんなで力をあわせて敵を倒して、問題をクリアして、たったひとつの幸福という宝物を探すのよ」

「伊那さんは生まれてきた意味を忘れてないんじゃないですか?」

「いいえ、私も完全に忘れていたのよ。私はロウに出会って、いろいろなことを思い出した。ロウに出会って人生が変わってしまったのは涼さんと同じね」


 涼は、伊那はどうやってロウと知り合って、何が変わったのだろう、と思った。

「ロウさんとは、どこで会ったんですか?」

「パリよ」

 伊那はさらっと言った。

「え?ええ?パリですか?!フランスの?!」

「フランス以外のどこにパリがあるの?」

 伊那がくすっと笑った。そういえば、最初にエリクサに宿泊したときに伊那が作ったのはフランス料理だった気がする。伊那はヨーロッパにいたことがある、とは言っていたが、長野の田舎で暮らしている二人が出会ったのがパリだというのは意外すぎた。

「伊那さんはなぜパリにいたんですか?」

「留学生だったの」

「ああ・・・」

 涼はふと気づいた。大学生のとき、それは伊那がずいぶん若い頃ではないか?

「私とロウのお話はいつか涼さんにはするわ」

 今は聞くなということだな、と涼は感じた。たしかに年齢が違いすぎて、家族でも夫婦でもない二人の関係は、突っ込んで聞いてはいけない種類のものかもしれない。


 伊那はさきほどの話を続けた。

「どんな人でも、生まれる前に決めてきた今生の目的があって、その目的にそって生きてさえいれば自分として最高に幸せなのよ。人生の目的のために生きれば、もはやどんな億万長者も美男美女も羨ましくなくなるわ。他人への妬みも自己否定も、今生の目的にそって生きていないだけのことよ。

 いまの涼さんを見てうらやましいと思う人がいるなら、その人は自分の今生の目的を忘れているだけの人。だから他人の嫉妬なんて気にすることはないの。でも、気をつけなきゃいけないこともある。ファンからの愛も一部はただの生霊だから足を引っ張られるおそれがあるのね。体も心も元気なら引っ張られることはないけれど、どんな人でも調子の悪いときというのはあるものよ。生身の体だから、バイオリズムがあるのが普通よね。涼さんはこの三年の間、妙に具合悪いときはなかった?」


 涼は思い出してみた。そういえば、一時期、やることなすことうまくいかなかった時期があった。そうだ、あの例の俳優との舞台の後だ。いつまでも疲れが抜けず、やたら眠くて、しかもたしか、ストーカーのようなファンにつきまとわれて辟易した。


「そういえば、そんなことありました」

「そういうときね、東京でどんなに頑張り続けても難しいのよ。東京は町全体の緊張感が高いから。素晴らしい神社仏閣もあるのだけれど、エリアが狭いのよね。ピンポイントに強い光を浴びるだけでは、どうしてもだめなときもあるの。空の広い場所に来るのが一番よ。別にエリクサに来いと言っているわけではないけれど、でももちろん来てくれたら歓迎します。ええとつまりね、具合悪いときでも来てねってお誘いね」

 そう言って伊那は柔和に笑った。

「それはありがたいです」

 どうもうまくいかなかったあの時期、仕事も途切れがちだった。エリクサに行きたいと思ったこともあったが、いまの状態では行ってはいけない気がして行かなかった。これから少し休みが取れるようになったら、エリクサに行くようにしよう。


 車は山道を上がり始めた。3年前から変わらない「ペンション・エリクサ」の看板が立っている。嫌な客が来たら、伊那がひっこぬいてしまう看板だ。もうすぐエリクサだ。やっとロウに会える。裏山を登れば、もう一度あの一本角の鹿にも会えるだろうか。


 車は無事にエリクサに到着した。伊那が、玄関先でなくて駐車場でもいいかしら、とたずね、涼はもちろんです、と答えた。駐車場から伊那と連れ立って玄関に向かう。三年前と同じようにオリーブの実が成っていた。ちょうど丸三年たったのか、と涼は感慨深かった。そのときガチャ、と玄関の扉が開き、輝く髪の人が姿を現した。涼はロウが迎えに出るとは予想していなかったので、思わず息を飲んだ。


「やぁ、久しぶりだね」

 ロウが笑顔で声をかけた。三年ぶりに聞くその声のまったく変わらない、低く重厚でそれでいてきらめくように空間に広がるあでやかな声に涼は心が震えた。

 自分もこの三年、舞台でセリフを語り、歌を歌い、声は大事にしてきた。今では自分の声にはっきりと自信を持っている。だが、その自信もこの人の前では吹き飛んでしまいそうだ。俳優仲間の誰にも、この人ほど魅力のある声の人はいない。

「お久しぶりです!」

 涼は自分の声がやや上ずっているのに気づいて苦笑した。子供みたいだな、と思った。

 ロウは玄関ポーチまで出てくると、手を差し出して涼とがっちり握手した。

「君の夢は叶ったようだね」

「はい!」

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