第9話 涼 26歳 秋 再び、エリクサへ

 涼がペンション・エリクサを訪れてから早くも三年の月日が経っていた。この三年の間、涼はたった一度しかエリクサを訪れていない。その一度も、本当に宿泊しただけのようなものでゆっくりする時間はなかった。しかも伊那には会ったがロウには会えていない。

 結局、ロウと出会ったのは三年前のほんの数時間のみ、ということになる。もちろん一本角の鹿とも会えていないし、エリクサの裏山にも登っていない。それでも、ペンション・エリクサはいつも涼の心にすみついていた。まとまった休みがもらえるようになったら、ゆっくりエリクサを訪れたいと思っていた。


 売り出し中の俳優から売れっ子の俳優になるこの三年間、ほとんど自由時間などなかったともいえる。もうアルバイトする必要はなかったが、そのかわりに仕事と仕事をもらうための努力に忙殺されていた。まだまだ不動の地位を確立したとはいえなかったし、不動の地位を確立したようにみえても、代わりの人材はいくらでもいるのがこの世界だ。努力を怠って露出度が少なくなれば、あっという間にファンからも世間からも忘れられてしまう。一時的に人気を集めたとしても、あっという間に人気は他に流れてしまう。人気というのは実体のないものだ。


 デビュー三年目にして、涼は初めての主演舞台を踏んでいた。ロミオとジュリエットを新進気鋭の舞台演出家が演出しなおした新版だ。この演出は「ロミオ版」と「ジュリエット版」に分かれていて、涼が主演するのは「ロミオ版」だ。ロミオから見たこの恋の顛末が描いてあり、ジュリエットはわき役になっている。初めての主演舞台ではあるが、ロミオは十六才なので、どんなに好評であっても来年もまた主演することはないかもしれない。おそらくこの役は一生一度になる。そのつもりで臨んでいた。


 涼はこれまでの俳優生活で、気難しい主演俳優に苦しんだことがあった。なんらかの理由で個人的に涼が気に入らなかったのだろう。個人攻撃をされるのは涼だけというわけではなかったが、涼がもっとも多かった。攻撃の矛先が涼であってもなくても、いつも舞台裏の空気はピリピリと緊張していて、みんなが張り詰めていた。そんな風に人間としては破綻していたが、舞台で見せる迫真の演技の集中力はすさまじく、学ぶところはたくさんあった。それでも、涼は二度とこの俳優とは仕事をしたくなかった。もっとも涼だけでなく、向こうもそう思ったかもしれない。

 涼は自分が主演したときは絶対に舞台裏の空気を悪くしたくない、と強く思うようになった。どんなに舞台として素晴らしくても、一緒に仕事する仲間を攻撃し、緊張感を高めることで起爆剤にするような方法は嫌だと身に染みて思った。涼は仲間の俳優や裏方達が、気持ちよく仕事をできるよう気遣っていた。だがそのことは、はじめての主演でストレスがある涼に、さらなるストレスを加えることになった。


 舞台が中日まできたとき、マネージャーが、舞台が終わればまとめて休みを取れることを告げた。少しゆっくり休んでください、とマネージャーは言ったが、おそらく涼のストレスが限界になっていることを見越したのだろう。

 まとめて休みが取れると知って、やはり涼はエリクサに行きたくなった。もちろん、故郷の両親も涼の帰省を待っているだろうが・・・。

 休みのはじめにエリクサに行き、後半は故郷に戻ろう、そう思い立った。しかし、どうやって行こうかと涼は悩んだ。有名になってしまった今、前のように、半日かけて電車とバスを乗り継いでいくことは難しい。だが、涼はまだ車を購入していなかった。何度か購入しようと思いたち、パンフレットを取り寄せたりはしたのだが、ゆっくり販売店で車を見る時間が取れず、そのままになっていた。仕事の場合はマネージャーの送迎があるので車は不要だった。

 この三年、ほとんどプライベートはなかった。涼は改めて、車が欲しいと思った。しかし、主演公演をしている途中で車を購入するのは無理だ。今回はどうやってエリクサに行くか考えなくてはいけない。レンタカーで行くにしても、ペーパードライバーの涼が、東京から長野までの長距離を運転するのは無謀だった。

 かといって誰かと一緒に行くのは気が進まなかった。エリクサのことは誰にも話したくなかった。独り占めしたかったわけではなく(もしかしたら少しそういう思いもあるかもしれないが)無神経な人たちにエリクサへ踏み込んでほしくなかった。


 長野新幹線では、エリクサのある下伊那郡に遠い。特急あずさのほうが少しは下伊那郡の近くまで行ける。隣の席も購入しておけば、隣に誰も座らない。あずさを下りたら、在来線を乗り継ぐのではなくてレンタカーを借りよう。観光客の多い上諏訪駅ならレンタカーが借りられるだろう。そこからエリクサに向かえばいい。帰りは故郷に帰るためにまつもと空港までレンタカーで行く。調べてみると、借りる場所と返す場所が違っていてもいいレンタカーがあった。そうと決まれば早速、エリクサに電話をかけよう。そう思い立って、涼はエリクサに電話をかけた。


「はい、エリクサでございます」

 なつかしい伊那の声が耳に響いた。

「こんにちは、高瀬涼です」

「あら、涼さん、お久しぶりですね。お元気?また泊まりにいらっしゃるの?」

「はい、泊めていただきたいです」

 涼は伊那に宿泊の日程を告げた。

「はい、了承いたしました。お待ちしておりますわ。ところで涼さん、どうやっていらっしゃるの?」

「特急あずさで上諏訪まで行って、そこでレンタカーを借りようと思っています」

「あら、そう?」

 伊那はしばらく考えているようだったが、笑いをふくんだ声で続けた。

「私が上諏訪まで迎えに行ってあげるわ」

「えっ?いや、それは、申し訳ないです」

「遠慮する必要はないわ。だって涼さん、運転は下手でしょう。エリクサへの道は楽な道ではないわよ。危なすぎて運転させられないわ」

 伊那は珍しくあははと笑った。運転が下手、とはっきり言われて涼は言い返せなかった。いや、下手なのではなくて慣れてないだけです、と心でつぶやいてはみたが、慣れてないのは下手ともいうし、とも思った。

「それに涼さんがレンタカー借りにうろうろしていたら目立って仕方ないでしょう。お客様の多い時期じゃないし、留守番はロウにお願いするわ」

 留守番をロウにお願いする、ということは、今回はロウに会えるということだ。涼はうれしくなった。

「帰りは故郷に戻るのでまつもと空港までになるんですが・・・」

「大丈夫よ、帰りはまつもと空港まで送ります」

「すみません、では、お言葉に甘えていいですか。お迎えをお願いします」

「気にしなくても、送迎代金は高額ですからね」

「はい、いくらでも払います!」

 伊那は再びあははと笑った。

「まだチケットは取っていないのでしょう。到着する時間がわかったらまた連絡くださいね」

「わかりました」

 涼はさらにしばらく話してから伊那との電話を切った。久しぶりにエリクサに行ける、やっとロウにも会えると思うと元気が出てきたようだ。公演の残り半分も、集中してやっていこう、一度決めたことだからちゃんと最後までみんなに気を遣っていこう、とそう思えた。


 ロミオとジュリエットの千秋楽を無事に終え、さっそく翌日、涼は特急あずさに乗り込んだ。テレビに出ることもあるが、主として舞台俳優である涼はそこまで有名人ではない。それでも外出するときは伊達メガネをかけていた。サングラスはいかにも芸能人、という気がして涼はあまり好きではなかった。顔を隠しているように見えて、有名人ですと主張しているように感じるのだ。

 

 上諏訪駅に到着し、改札口から外に出るとすぐ伊那が手を振っているのがわかった。涼はほっとして伊那に近づいた。

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