第8話 涼 23歳 東京へ戻って

 涼はエリクサに来たのと同じルートをたどり、バスと電車を乗り継いで東京のアパートに帰り着いた。まるで涼がアパートに帰り着くタイミングを見計らったように電話が鳴った。事務所のマネージャーからだった。


「涼!このあいだのオーディション、もう一度最終選考が開かれるぞ」

「えっ?!」

「選ばれたやつが、急にプライベートの事情で辞退したんだと。もう一度呼ばれたのは、お前を入れて三人だけだ。再選考は三日後だ。明日は歌のレッスンを入れておいた。がんばれよ」

 マネージャーは、再選考の日時、場所を伝え、さらに激励をして電話を切った。

 涼の耳にロウが中国茶を飲みながら語った言葉が蘇った。

「行くべき道は開く。行くべきでない道はふさがれている。大事なのは三ケ月目と三年目。三ケ月目に新しい展開がない道には未来がない。本当はチャレンジして三ケ月目でいずれ開く道かどうかの判断はつく。だが、覚悟を決めて真剣に取り組むことが条件だ。宇宙は覚悟にしか反応しない。はっきりするのは三年目だ。三年目に開かない道は撤退することだ」

 俳優を目指して三ケ月目で何があったかは覚えていない。だが今年は俳優を目指してちょうど三年目だ。道が開くのか開かないのか、開かないならスッパリやめるというのもありだ、と涼は胎を決めた。


 翌日は歌のレッスンだった。もともとは歌手を目指していたという宮本先生は、いまは生徒を世に送り出すことに情熱を傾けている。レッスンはいつも熱心で、生徒の得意と不得意を的確に分析し、どうすれば声質が活きるのか、どういう歌が声を活かすのか、つねに向上させるための工夫を怠らなかった。歌、演技、踊り、いろいろな教師についていたが、涼はこの歌の教師が一番好きだった。

「俺は舞台に立つより、教えるほうが天職だったんだよ」

 そう常々言っており、レッスン中も陽気でよく笑わせてくれた。

 宮本先生は、名前を哲夫と言った。

「哲夫とか、絶対に歌手になれない名前だよ。芸名をつけたってファンは本名を調べるじゃないか。えーっ、本名は哲夫なの?ってがっかりするのが目にうかぶ。俺の歌手への夢は、哲夫と名付けられた地点で終わっていたのさ。涼はスターになれる名前だよな」

 そんな風に話してくれていた。


 宮本先生は、いつもと同じような笑顔で迎えてくれたが、ややいつもより興奮しているようだった。

「最終オーディション、やりなおしだってな」

「そうなんです。どんな事情が知らないけれど、断る人とかいるんですね」

「人生にはいろいろあるんだよ。まぁしかし、せっかく棚からふってきてくれたぼたもちだ。気合入れてやっていこう。さっそく始めるぞ」


 先生は、最終選考の歌のイントロを弾きはじめた。これは先生のいつものスタイルだ。オーディションでは発声練習はできないから、という理由で、いつでもいきなり本番スタートだ。そのあとで発声練習に入る。


 歌い始めてすぐ、涼は自分の歌声がいつもと違うことに気づいた。いや、違う、歌声が変わったのではない。歌い方が変わったのでもない。

 自分の声を、自分の歌を、なにかが聴いている。

 なんだろう、何かが歌に応えている。

 なにかがこちらを見つめている。誰だろう? 

 誰、ではない。人ではない。誰かが聞いているということではない。

 いつもより世界は静かだ。だが、沈黙という意味ではない、

 静けさが広がっている。歌っているのに、静けさが広がっている。

 空気だ。空気が、歌を聴いている・・・。


 曲が進んでいくごとに、その感覚は明確になっていた。意識が研ぎ澄まされる。くっきりと世界が見える。とりまく世界のすべてがこちらに意識を向けている。人の目が見ているのではない。とりまく空気がこちらを見ている。空気が、空気が歌を聴いている。


 何が起こったのかわからない。歌が終わり、後奏が終わったあとも涼は茫然としていた。


「おい!すごいじゃないか。何があったんだ!」

 先生が目を見開いて興奮していた。涼はすぐには答えることはできなかった。

 エリクサに行ったせいだ、と直感で感じた。だが、なぜ?何が、どうして?

 それはわからない。エリクサでのすべての経験を語ることは難しかった。

 エリクサで歌のレッスンをしたわけではない。歌ってさえいない。

 伊那の話を聞き、ロウの黄金の声を聴き、ロウの竪琴を聴き、山を歩き、星を見て、安らぎと平和を感じただけだ。


「何があった、と言えるようなものじゃないだろうがな。だが、歌が変わったのはわかっただろう?」

 涼は黙ってうなずいた。

 宮本先生も、腕を組んでしばらく考えていた。それから口を開いた。


「歌ってのは、階段を上がるみたいに一歩ずつうまくなるんじゃない。歌うための技術というのはあるが、それは結局、次の段階へすすむための試行錯誤のひとつにしかすぎなくて、ある日いきなり、いままでの訓練をすべてぶち破って、次の段階に進むんだよ。階段じゃなくてワープみたいなもんだな。ある日いきなり、今までとまったく違う景色が見えるのさ。涼ははじめからうまかったが、それだけに一度も次のステップには進まなかった。まさかこのタイミングでワープするとは思わなかったが、こりゃぁオーディションは涼のものだな」


 涼はオーディションのことよりもさっきまでの感覚に気をとられていた。

 まるで空気が耳を澄ませて聴いているような不思議な感覚。歌を歌いながら、すべてが鎮まった世界にいるような、自分がここにいてここにいないような感覚。永久にこの世界にいたいという感覚。でもその世界は、歌が終われば消えていく。

 歌がうまくなった喜びはまったくなかった。ただ、自分は違う世界に足を踏み入れたと感じていた。それは確かにワープに似ていた。まるで異世界のようだ。

 異世界、そうだ、エリクサで過ごした時間こそが、異世界だ。エリクサも、伊那も、ロウも、異世界だ。


 その日以来、歌を歌うたび、異世界に入ってしまったような感覚はずっと続いていた。その感覚は心地よかったが、馴染むことはできず違和感があった。自分の感情を歌にこめるとか、心の情熱を呼び覚ますとか、今までやってきた歌うためのツールはまったくなんの役にも立たなかった。

 歌い始めると、感情とはまったく無縁の世界にいた。どこまでも静かな世界、音以外には何一つない世界、空気が固唾をのんで自分の歌を聴いている感覚。自分を取り巻き、歌声に耳を澄ませている空気の静けさを決して壊さないように、自分の全身全霊をかけて慎重に音を紡いでいく。自分だけがこの世の唯一の音であるかのような感覚。

 いったい今までやってきた「感情をこめて歌う」というセオリーはなんだったのだろう。ここは感情の世界ではない。感情なんていらない。感情よりもっともっと静謐で美しい世界。

 今まで歌ってきた歌はなんだったんだろう。歌うときはいつも聴き手のことを考えていた。今はもう、聴き手のことを考えられない。空気が全身全霊で聴いてくれている。観客がいてもいなくても関係がない世界。満員の聴衆の前で歌っても、深い森の奥でひとりきりで歌っても、自分にとっては同じことだ。


 オーディションの歌も、涼にとっては同じだった。審査員でもなく、見えない観客でもなく、ただ、空気が聴いている感覚と静かな世界だけがそこにあった。審査員の熱意のある拍手に対して、自分も同じような熱量で返すことはできず、静かに頭を下げた。

 

 果たして、オーディションの結果は合格だった。この役は今までの端役とはまったく違う。主役ではないが、物語の重要な役どころで、観客の注目を集める役だ。見せ場のソロの歌もある。実質的なデビューといえる。


 舞い上がっている事務所のメンバーや、激励や賞賛や嫉妬を投げかけてくる仲間たちに、自分も同じようにラッキーチャンスに舞い上がっているように振る舞いながら、予想したようには喜びを感じていない自分に涼は戸惑っていた。涼が本当に感じていることを話せたのは宮本先生だけだった。いったいどう言えば自分が感じている違和感を話せるだろう、悩みながら涼は語った。宮本先生は黙って聞いていたが、こんな風に話してくれた。


「俺は今まで、何人かスターになっていく人間を見たが、だいたいにおいて、顔がよくて声がいい奴っていうのは、呪いのような歌い方をするもんだ。呪いというとただ事じゃないようだが、単純にいえば、耳元で甘くささやくような声で歌って、自分に歌いかけられているように錯覚させる歌い方だ。女をしびれさせて中毒にさせる歌い方、つまりは麻薬みたいな歌ってことだ。一瞬の幻を見せるのも芸のうち、それもありだろうと思って俺は別に咎めたりしない。

 これが逆に、顔がたいしたことなくて音楽への愛で歌う奴は、そういう歌い方をしても観客はついてこない。顔の悪いやつが甘い声で歌っても「気色悪い」とか言われるのがオチ、残念だがそれが現実だ。結局は、音楽に集中して、音楽の神髄を表現できないとファンはつかない。音楽の神髄というのは、俺が考えるには、雄大で美しい自然に触れたときと同じように、浮世をすべて忘れてしまうというか、もっと素晴らしい世界があると気づくというのか。なんというか、結局は自然と一緒で、音楽を通じて神に触れているような感覚、それが音楽の神髄だと思っているんだ。

 だがごくまれに、そういうものをすべて飛び越えてしまう奴ってのがいる。俺も飛び越えてないからたいしたアドバイスはできんが、涼がたいして喜んでいない、というのはわかるし、それは別におかしなことじゃない。涼の歌を聴けば、大勢に歌を聴かせたいとか、舞台に立ちたいとか、そういうものと無縁の世界に入ってしまったことはわかる。そういう欲が消えてしまったからこそ歌える歌だよ。自分ではどうすりゃいいかわからないだろうがな。だが、歌っている間はなんというか、一種の幸福感はあるんだろう?」


 涼はうなずいた。


「じゃぁいいじゃないか。涼が幸せで、聴いているほうも幸せなんだから、それで十分だ。自分の仕事を通して自分が幸せを感じられるのは、一握りの人間だけの特権だ。余計なことをあれこれ考えずに、開かれたドアの向こうへ進めばいいんじゃないか」


 そうだ、と涼は思った。俳優になると決めて、俳優への道が開けた。行くべき道へ行くだけのことだ。自分の歌が自分にとって違和感があるが、歌っているときに味わう静謐な世界から離れたいわけではない。この道を進んでいこう。


 だが、それからしばらくしてまた次の展開があった。

 歌っていないとき、仲間たちと一緒に過ごしていたときに、突然、歌っているときと同じ感覚に入ってしまったのだ。まわりは同じように話している、自分も同じように話している、だが空気の流れが突然変わった。すべてのものが、息を詰めて、耳をそばだてて、涼の声を聴いていた。空気だけじゃない、いまは人間も涼の声に集中している、みんながこちらを気にしている。だが、その感覚は数分で終わった。

 しかしそれからも、前触れなしにその世界に入ってしまうことがあった。涼はしばらくの間、もとの世界とその静謐な世界を行ったり来たりしていたが、やがて完全に戻らなくなった。

 いつでも、どこでも、誰もが、涼の声に集中している。そしていつしか、涼もその感覚に慣れていった。結局はこれが、俳優になるということだったのかもしれない、と思いながら。

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