第7話 涼 23歳 おしゃべり、そして夢

 伊那がお茶を入れた木造りの大きなお盆を持って戻ってきた。急須以外に、いろいろなカタチの杯が載っており、お盆部分は二段になっており、すのこのように縦に穴が並んで開いている。


「残念だわ、私も参加したかったのに」

「歌の時間は終わったよ」

「私はのけものなのね。いいわよ」

 

 伊那は拗ねたような口ぶりで言ったが、顔は微笑んでいた。伊那が運んできたお茶は深い濃茶色の急須のそばに、まるでお猪口にしか見えない小さな杯が三つ並んでいる。他にもいろいろな器があった。まさか、この小さな小さな杯で飲むのだろうか。一口で飲み終わってしまいそうだけど。そう思いながらしげしげと見つめていると、伊那が声をかけてきた。


「高瀬さんは、こういうお茶を飲むのは初めて?」

「はい」

「ふふ、こんな小さなカップで飲むのが不思議なのでしょう」

「そうです」

 やっぱりこの小さな杯で飲むのか。そう思っていると今度はロウが口を開いた。


「この杯の小ささには意味があるのだ。何回も何回も注がなくてはいけない。何度も何度も飲まなくてはいけない。それは時間を贅沢に使うということだ。これは中国茶だが、ひとりで飲むものではない。一緒にお茶を飲む人に向けて、あなたのためにいくらでも手間をかけよう。あなたのためにいくらでも時間をかけよう。あなたのために手間と時間をかけることこそが喜び、そうしたもてなしの心を表すのがこの小さな杯なのだよ。

 だがもちろん、自分で自分をもてなすためにも飲める。自分のために時間を使ってこそ、自分を知ることができる。自分自身を知れば、自分が行くべき道がわかる。自分が行くべき道にしか、人生から得られる喜びはない。この世の中では、生まれる前に決めてきた、やるべきことをやるための時間はたっぷり準備されている。時間がない、と感じるのは本来はやるべきでないことをやっているからだ。無駄な時間の使い方をしているからだよ。

 現代は、生きるために絶対必要なことの多くは機械が代行してくれているぜいたくな世界になっている。それなのに自分のために自分でお茶を入れることを無駄だと思うのは、本当にやるべきことをやっていない証拠だ。手間暇を省いて、大きな杯で飲むなど無粋なことだ。もっとも近頃では、杯すら使わない人間も増えているようだがね」

「まぁロウ、私の大好きなカフェオレボウルが無粋みたいじゃないの」

「私は西洋の文化にも限りない尊敬の念を捧げているよ」

「はい、そうでした。勝手に決めつけてすみません」


 そう言いながら伊那は手際よく、お盆の上の茶器に湯をかけていった。どうやら、すべての器をまず湯で温めるようだ。ロウは茶葉が入っている器を開けて、茶葉を平べったい器に移し替えた。伊那が急須をひっくり返して、すのこの下の空間に湯を落とす。ロウは伊那からお湯が入った大きめのやかんを受け取り、急須にお湯を溢れるほどに注ぐ。ロウが急須の蓋をすると、伊那が他の器のお湯をさらに急須の上からかけている。急須を温めているのだろうか。頃合いを図って、ロウが急須のお茶を別の茶こしのついた器に移し、さらに細長く背の高い器に入れる。伊那の白くて細い手と、ロウの大きながっしりした日焼けした手が交差して、四本の手が連携して無駄なく空間を滑っていく。なんだか上質の東洋の舞踊を見ているかのようだった。


「君は初めてのようだが、この細長い器は、香りを楽しむためのものなんだ」


 ロウはそう言って、細長い器から小さな器にお茶を注ぎ、細長い器だけを涼に手渡した。

「香りを嗅いでごらん」

 涼は器を受け取り、器に鼻を近づける。お茶の濃厚な香りが鼻腔に広がっていく。たしかにお茶の香りなのだが、こんな涼やかに目が覚めるかのような濃厚な香りは初めてだった。まるで初めてアロマを嗅いだときのような新鮮なショックだった。


「すごい。ものすごくいい香りです」


 涼はそうとしか言えなかった。上手な表現ができない自分をもどかしく感じた。ロウと伊那が微笑んで涼を見つめていた。

「お茶も召し上がれ」

 そう伊那が言い、涼はいただきます、と答えて小さな杯を口元に運んだ。ふわっとお茶の濃厚な香りが口腔と鼻腔から、まるで脳の中まで染みとおっていくようだ。こんな香りのするお茶は初めてだ、と涼は思った。涼が口をつけるのを見て、ロウも小さな杯に口をつけた。大きな体躯のロウが持つと、小さな杯がさらに小さく見える。


 あなたのために手間と時間をかけます、か。そんな風に誰かのために時間を使ったことがあっただろうか。そんな風に、誰かから時間をかけてもらったことがあっただろうか。時間はいつも、縦割りに線が引いてある。何時から何時は●●。何時から何時は○○。縦割りの時間、そうだ、小学校で時間割をもらってからずっと、縦割りの時間を使って生きてきた。誰かのための時間も、いつだって縦割りだ。何時に帰る、もしくは何時に次の用事がある、それまでの間の縦割り時間。いつだって、時間は有限だ。


 それから三人は、いろいろな話をしながらお茶を飲んだ。たいてい話題をふってくれるのは伊那だ。ロウは伊那の話題にあるときは注釈をつけ、あるときは意見を滔々と語り、涼に意見を聞く。涼の意見に対し、ときには単にうなずいたり、ときには深い洞察を語ってくれたり、ときにはロウの質問返しに涼が答えに窮することもあったが、そういうときは伊那が茶化したり突っ込んだりして助け舟を出してくれた。そうやって語っていると、やがて涼は心地よい疲労感を感じ始めた。何倍も何倍も飲んだ中国茶も、お湯が尽きたようだった。

「そろそろお開きにしましょう」

 伊那がそう言って、ロウが同意した。涼は二人に礼を述べ、おやすみなさいのあいさつをしてリビングを後にした。伊那は茶器を片付けに行き、ロウはそのまま椅子に座っている。ロウはどの部屋に泊まるんだろう、とは思ったが、何も聞かずに涼は二階の天窓のついた部屋に戻った。


 二階の部屋の照明は、明るい蛍光灯ではなく、すべてが柔らかい間接照明の光だ。ひとつ残らず灯りをつけても、天窓から星の光が見えている。月は天窓からは見えず、星だけが綺麗に見えた。今日は新月なのだろうか。


 まずシャワーを浴びようと部屋に備え付けのバスルームに入り、完璧に洋風のバスルームに檜の浴槽がついているのを見つけて思わず声を上げた。せっかくだからお湯を張って入ることにした。髪も体も洗い、さっぱりしたところで檜の浴槽に体を沈める。

 自然に鼻歌がでてきたが、やっぱりそれはオーディションに落ちたあの歌だった。まるで宗教歌のように重厚に歌い上げたロウの歌声を思い出した。いくらロウがあの黄金の声で、重厚に壮麗に歌い上げたとしても、やっぱりオーディションは落ちるだろうなと思うとおかしくなってきた。もっとも、役柄を考えるとまず書類選考を通らないだろうが・・・。

 ゆったりと湯につかり、十分温まってからバスルームを出る。髪を乾かし終わると、もう眠気が襲ってきた。灯りをすべて消し、青いシーツの上に横たわって天窓から星を見上げる。

 あのM字をした星の形はなんだっけ。たしかカシオペア座だ。カシオペア座から北極星を探すのはどうやるんだったかな。


 涼は小学生の頃、両親の勧めで夏休みになると子供だけのキャンプに参加していた。そのときのグループのリーダー、おそらく今の涼くらいの年だったと思うが、そのリーダーが北極星の探し方を教えてくれた。誰も来ないような山奥や、船で海に出ているとき、誰もいないところでたったひとりきりになっても北極星さえ見つければ、必ずどこかにたどり着けるという話をしてくれた。道に迷ったときに一番怖いのは、同じところを堂々巡りすることだ。堂々巡りしている間に体力がつき、帰れなくなる。北極星を見つけることができれば、方角を知ることができ、堂々巡りは避けられる。そんな話とともに、夏の夜空の北斗七星と北極星を教えてくれた。そのときに、秋になったら北斗七星は見つけにくいから、カシオペア座を目印にするように、と教わったのだ。

 ひとりきりで迷子になってもどこかにたどり着ける、その話に幼い涼はロマンを感じていた。涼はその話をちゃんと覚えていて、秋の星空にカシオペア座を見つけ、そこから北極星を探すことに成功した。成功したら満足して、毎年星空を見つけて探すようなことはなかったが・・・。たしかカシオペア座から、まんなかの三つの星の交点を結んで、そこから下に五倍。

 あった、見つけた、あれが北極星だ。

 涼は小さい頃のロマンを思い出し、無事に北極星を見つけ出せたことに喜びを感じていた。天窓から飽かずに北極星の光を見つめる。眠らずに、いつまでも星の光を眺めていたい。そう思っていたが、睡魔には抗えずあっという間に眠りに落ちていた。


 涼は夢を見ていた。

 星空の下、森の中でロウが背筋をまっすぐ伸ばして悠然と立っている。掘りの深い立体的な横顔。星の光しかない闇夜なのに、ロウの姿はくっきりと浮かび上がって見える。まるでロウ自身が発光しているかのように、周囲に光が広がっている。ロウの前にいるのは一本角の鹿だ。いや・・・角は二本ある。森の中で出会った、ロウと似た黒い静かな瞳を持つ一本角の鹿だが、角は二本揃っている。鹿はロウにゆっくり近づいていき、まるでひざまずくかのように前足を折り、頭を垂れる。ロウは腕を伸ばして優しく鹿の角に触れる。本当はないはずの右の角に触れる。ロウが軽く角をつかむと、右の角はすっと離れ、鹿は一本角になった。ロウはまるで魔法使いのように鹿の角を天に掲げる。星がまたたいている・・・。


 涼ははっと目を覚ました。まだ真夜中だ。北極星は変わらず天窓から光を投げかけている。

 妙にリアルな夢を見たな、と涼は思った。

 昨日から、人里離れた森の奥にやってきて、不思議な瞳の伊那と話し、一本角の鹿と出会い、不思議なことを黄金の声で語るロウと語り合った。まるで魔法の館に来たかのような非日常。だけど、伊那もロウも人間だし、いまはこの同じ館のどこかで眠っている。館はしんと静まり返っている。もう一回寝よう。涼は目を閉じ、再び眠りについた。


 再び涼が目を覚ましたときはすでに朝になっていた。星の光はもう見えない。天窓を開けたまま寝たので、明るい朝の光が部屋を照らしている。涼は起き上がってのびをした。窓を開けて新鮮な朝の空気を胸いっぱいに吸いこむ。洗面所へ行って身支度を整えると、朝の日課になっているストレッチをした。散歩でもしたい気分だが、朝食までに出かけられるだろうか。それとも、もう朝食を食べられるのだろうか。とりあえず一階に降りてリビングに顔を出してみよう。


 涼は、おはようございます、と言いながらリビングの扉を開けた。おはよう、と言いながら伊那が厨房から顔を出す。ロウはいない。

「涼さん、すぐ朝ごはん食べられるわよ。どうする?お茶入れようか?」

 伊那は昨晩のおしゃべりの途中から、高瀬さんではなく、涼さんと呼ぶようになっていた。私のことは伊那って呼んでね、とも言った。

「お願いします」

 伊那が、カフェオレボウルだけどね、と笑いながら言ってダイニングに戻った。しばらくすると、カフェオレボウルになみなみとつがれたカフェオレと、パン、山盛りのグリーンサラダ、色とりどりの多種類のジャム、いろいろなチーズ、イチジク、ブドウ、ナシ、リンゴ、カキなど果物の盛り合わせをもって現れた。

「はい、朝ごはんはフランス風です。フランス風と言えばおしゃれだけど、要は手抜きです」

「手抜き??」

「そう、よく見て。私、料理してないでしょう」

 たしかに、包丁が必要な料理もなければ、火を使った料理もなかった。わざわざ客に手抜きと言わなくていいのに、と涼はおかしくなった。しかし、ロウはどこに行ったのだろう。

「ロウはもう帰ったわ。老人は朝が早いのよ。涼さんも、朝ごはん食べたらまた散歩に行く?バスの時間までゆっくりしてらしてね」

 ロウがもう帰ってしまっていたのは少し残念だったが、涼の心は十分に満たされていた。ゆっくり朝ごはんを食べ、伊那がむいてくれる果物を食べる。朝食のあとは再び山に散歩に出かけたが、今朝は一本角の鹿とは会わなかった。それでも朝の山の新鮮な空気とさわやかな光と風をあびて涼は自分がフルチャージされたのを感じていた。来てよかったと心から思った。すべてが洗い流されて、自分がゼロになって、空になっているような感じがした。


 涼は伊那に挨拶してエリクサを後にした。伊那は涼の姿が見えなくなるまで玄関で見送ってくれた。角を曲がる前にもう一度振り返って伊那に手を振ると、伊那も手を振り返した。また来たい、と心からそう思った。


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