第6話 涼 23歳 星の歌

 ぎしっ、ぎしっ、と重量のある確かな足音が近づいてきて、背の高い老人がリビングに姿を現した。噂通りの見事な白髪だが、涼が勝手にイメージしていた仙人風の長髪ではなく、ちょうど顔のまわりに白い光輪を与えるだけの短髪だった。シンプルな青いセーターに白髪が映えて輝いており、白髪というより銀髪にも見えた。がっしりと肩の張った大柄で頑丈そうな体躯、血色のいい肌の中で輝く黒い瞳を見て、涼は思わずぽかんとした。一本角の鹿の瞳にそっくりだったからだ。静けさのある黒い瞳、時が止まったような、時が永遠であるような・・・悠久の昔を思い出させる黒い瞳。


「どうしたの?」

 伊那が涼に声をかけた。

「その・・・さっき、一本角の鹿に会って・・・」

 涼はしどろもどろになった。老人の黒い瞳が見開かれた。

「一本角の鹿に会ったのかね」

 老人の声には空間をふるわせるような力があった。その声の重厚な響きは涼をさらに驚かせた。決して大きな声ではない。だが、こんな種類の声の持ち主には会ったことがない。声がいいともてはやされる俳優たちはいたが、まったくレベルが違うとしか言いようがなかった。総じて、声のいい俳優たちは甘い声を持っていて、たとえて言えばショコラのような、とかベルベットのような、とか柔らかく甘いもので表現されている。だが、この老人の声は低く空間を震わせるドラムのような響きがあり、甘くもなく、優しくもなく、それでいて溶けるように広がっていく。


「さっき裏山にあがったときに、繁みの奥から現れて・・・」

 老人はじっと涼を見た。やっぱり、一本角の鹿と同じ瞳だ、と涼は感じていた。老人は鋭い眼光を和らげて、唇のはしを少しあげた。そうすると少し柔和な顔になる。

「あの一本角の鹿は、この山の王なのだ」

「王?」

「そう、つまり、この山の鹿たちの中の王だ。オオカミたちが絶滅してしまった今、山の王はオオカミから鹿になった。だから、鹿の王が山の王なのだよ」


 鹿の群れのボスという意味かな、と思って涼は聞いていた。老人の声は、やはり素晴らしく張りがあり、美しさと重厚さのある声だ。老人の声を跳ね返している壁や家具たちまでが、身を震わせて喜んでいるようにさえ感じられる。こんな声の持ち主がいるのか、こういう声を黄金の声というんだろうか、と涼は考えていた。黄金の声?なんだっけ、昔、本で読んだような? 涼は思い出そうとしたが記憶の海から「黄金の声」の情報は出てこなかった。


「夕食は済んだのかな」

 老人は問うた。

「はい、お茶を入れますわ」

 伊那はそう言って食器を片付けはじめた。涼は反射的に手伝おうとして伊那に制された。お客様はおとなしくしていて、と言われ、すみません、と答えると伊那は優しく笑った。

「この人のことはロウって呼んでね」

「ロウさん?」

「そう、ロウだ。呼び捨てでもかまわない」

 老人はそう言ったが、とても呼び捨てできるような雰囲気ではなかった。ロウ、というと中国人なのだろうか。たしかに体の大きさといい、雰囲気といい、日本人離れしているとも言える。

「ロウ、この方は高瀬涼さん。俳優を目指しておられるのよ」

「ほう」

 ロウは改めて涼を見た。ロウの全身から発されるパワーに涼は圧倒されていた。端役で舞台やテレビに出演したとき、スターと言われる人のそばにいたこともあるが、そうしたスターの誰よりもロウから感じる圧力のほうが突出していた。見えない力で空間を押されているようだった。

「さっき、涼さんに竪琴を演奏してもらったのよ」

「そうか」


 そう言ってロウは席を立ち、竪琴のほうに向かっていった。伊那は食器を下げて厨房に消えていった。ロウは竪琴を抱えると涼のそばの椅子に腰かけて、一曲歌おうかと言った。

 どんな歌を歌うのだろうか、竪琴の生まれたケルトの歌だろうか、それとも中国の歌だろうか、そんな風に思いを巡らせた涼の予想を完全に裏切り、ロウが歌ったのはほんの数時間前に涼が奏でたミュージカルの歌だった。つまり、涼が何度も何度も練習したオーディションの曲だ。若者の恋の歌だ。ロウはきっと伊那から、さっきの出来事を聞いたのだろう。

 しかしロウが歌うと、とうてい恋の歌には聞こえなかった。ロウの迫力と黄金の声に彩られ、あまりにも荘厳すぎて宗教歌にしか聞こえない。まるで神に祈っているかのようだ。それも身近な神ではなくて、まるで宇宙の根源神にでも祈っているような歌だ。甘い優しいメロディにしか思えなかったこの曲のどこにそんな壮麗さが潜んでいたのだろう。涼は唖然としながらロウの歌を聴いていた。


「どうかな?」

 ロウは涼に感想を求めてきた。

「まったく恋の歌に聴こえません・・・」

 涼は素直に言った。ロウは、はははは、と豪快に笑った。ロウが笑うと空間が明るくなるようだった。

「どうしてその歌を?」

 涼がそう聞くと、ロウは

「竪琴がこの歌にしろと言ったんだよ」

 そう答えた。涼がその意味をはかりかねていると、ロウが重ねて言った。

「君は恋をどんなものと思っているのかな」

 真正面から問われて涼は戸惑った。恋について、真面目に真剣に語ったことはなかったような気がした。女の子を好きになったことも、つきあったこともあるが、恋について深く心からとらえたことはないような気がした。しかも、この迫力のある人に聞かせるような意味のあることを言えるだろうか。でも何か言わなくては、と涼は頭をめぐらせた。

「姿を見るとときめいたり、一緒にいたいと思ったり、笑顔にさせたいと思ったりすることかな、と」

「それは欲だな」

「えっ」

 ロウは笑顔のままで涼を見た。

「自分にないものを求め、自分にないものを他者によって埋めようとするのは欲なのだ。とくに若い間は、自分にないものを求めているということがわからない。真のパートナーを見出すためには、ないもの探しをしないことが大切なのだが、それが難しいようだ。

 この世界では、せっかく心惹かれる人に出会って恋に落ちたとしても、いずれはお互いに要求をぶつけあうか、片方が要求し片方が与え続けるか、要求をやめて我慢するか、惰性になるか、それではパワーゲームでしかない。だがそれでも、ごくまれに真実の恋に巡り合う幸運な人間も存在する」

「ロウさんは、そういう相手に巡り合ったんですか?」

「昔にな」

 ロウはふっと笑った。昔ということは、やはり伊那はパートナーではないということか、と涼は思った。

「どうやったら、ないもの探しをしなくてすむんですか?」

「それは自分で見つけ出さねばな」

「ええっ?」

 ロウは再び、はははと笑った。


「ひとつ教えてあげよう。相手のことが気になって仕方ない、その感覚に鋭くなることだ。相手のことを考えているとき、心が温かく優しい気持ちで満たされるのではなく、誰かに取られるのでは、自分は愛されていないのでは、さっきの発言をどう思っただろう、とネガティブな感情に満たされる相手は、相手にエネルギーを取られている。逆にあれをしてあげたい、これをしてあげたい、どうすれば喜んでくれるだろうと気をもむのは、自分のエネルギーを差し出して相手のお気に入りになろうとする隷属の関係だ。

 君のようなタイプは、相手が君の気を引こうとしてあれこれ画策していることを好ましくは思わないだろう・・・。逆に、相手に自分の気を取られることを恋と勘違いしやすい。何かしてあげたい、しなくてはならないと感じる相手は危険だよ。気を取られる、とはよく言ったものだ。こうした相手には、本当は自分のエネルギーを抜き取られているのだから。真のパートナーに出会ったときは、不思議な安堵があるものだよ。なにしろ、出会えることそのものが奇跡なのだから」

「誰でも出会えるのですか」

「この世に生まれることそのものが奇跡なのだから、出会いの奇跡ももちろんある。愛する人にすら巡り合えずして、生まれてきた甲斐もないだろう。だが、自分の人生に不満ばかりを抱いていてはもちろん見いだせない。

 自分の直感を信じず、他人や世間の目で判断していても見いだせない。まわりにどう思われるかではなく、自分がどう感じるかが重要なのだ。

 人生は平坦ではない。良い日もあれば悪い日もある。真のパートナーは良い日にばかり出会うとは限らない。悪い日に、救い主のように現れることだってある。恋を、余裕がある時期に探しに行くレクリエーションのようにとらえないことだ。

 もちろんこの世界で自分がやるべきこともやらず怠けて生きていては出会えまい。だが今回の計画にパートナーが入っていないこともある。その場合、真実のパートナーは守護する存在となってそばにいる」

「そういうときは自分でわかるんですか?」

「自分ではわからないことが多いだろうが、はたで見ていたら意外にわかるものだよ。パートナーが見えない世界にいる場合、その当人はこの世の中で真剣にパートナーを探さない。魂はわかっているからね。真のパートナーは見えない世界にいることを。さて、ほかに質問があるかな?なければ、もう一曲歌おうか」

「何を歌いますか?」

「何を歌ってほしいかな」

「どんなレパートリーがありますか?」

「なんでも歌えるよ」


 そう言って、またロウはふっと笑った。なんでも、というと本当になんでもだろうか。ロウの黄金の声で聴きたい歌はどんな歌だろう。いま一番聴きたい歌はどんな歌だろう。さっきのミュージカルの恋歌はまるで宗教歌のようにしか聞こえなかったが、じゃぁ逆にロウが宗教歌を歌ったらどうなるんだろう。


「じゃぁ、アヴェ・ヴェルム・コルプスを」

「了解」

 ロウは竪琴を抱えなおすと、弦をつま弾きながら、今度はささやくような優しい声で歌い始めた。

 さきほどの荘厳な歌い方とはまるで違う、ロウの柔らかく優しい声が空間に広がっていくと、その声が部屋に広がり、壁に声の光の粒子が集まっていく。光の粒子は輝きながら、円を作ってまるくまるく流れていく。まろやかに円を描いた空間をロウの声がゆったりと天に向かっていく。天に向かった歌声は、天頂に集まり、集まった光の粒子は蓮の花のように四方八方に開いていく。開いた花のその向こうに広がるのは星空だ。満天の星空。どこまでもどこまでも無窮に続いていく星空。星々がまたたき、銀河がゆったりと渦を巻いて回転している。そしてひときわ輝く美しい星がある。静かにまたたきながら美しい星がこちらに近づいてくる。いや、近づいてきているのではない。自分が星に向かっていっているのだ・・・。


 涼ははっと我に返った。ロウが放った最後の一音の余韻がまだこの部屋に残っていた。ロウも余韻を感じるかのように、じっと竪琴を見つめている。涼は大きく息を吸い込んで、しずかに吐いていった。この空気を壊したくなかった。しばらく音の余韻を感じてから、涼はようやく口を開いた。


「いま、ここが星空の真ん中のような気がして・・・」

 ロウは涼の顔をじっと見てから、口を開いた。

「彼の曲は天界の扉を開くのだ。天に通じ、宇宙に通じ、星に通じる。彼の曲が天界の扉を開けるとわかっていれば、そしてそれを意識すれば、演奏しながら天界の扉を開くことができる。だが、天界の扉を開くのは地上的には必ずしもいいこととは言えない。それは彼の人生を見れば明らかだ。天界の扉を開くとき、ハートは完全に開かれて無防備だ。その無防備なハートには、人の世の悪意がまるで刃のようにつきささる。隣に苛立っている人が来るだけで全身を切り裂かれるような傷を負うものだよ。その相手が愛しているパートナーであればなおさらだ。ハートに負った傷はやがて細胞に傷をつける。そして肉体の生命力は失われていく。美しい曲を紡いでいく作曲家たちが、ほとんど短命なのはその理由だ。美しい音楽を作るには、天界にアクセスしなくてはならない。内なる燃える情熱の炎を創造力に変えていく他の芸術とは種類が違うものだよ。だが、真の音楽家ならば、天界にアクセスするかわりに自らの肉体を犠牲にすることを厭わないものだ」


 涼は、モーツァルトもいまの星空を見たのだろうかと思った。いつでもあの星空を見ることができるなら、それはなんて幸せなことなのだろう。悠久の星空に自分が溶けていってしまうような気がした。

「君も何か歌うかね」

 ロウにそう問われたが、涼はまったく歌う気にはならなかった。星空の余韻に浸っていたかった。涼が首をふるとロウはそうか、と言って竪琴をおいた。

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