第5話 涼 23歳 森の出会い

 涼はまだ若く、体を鍛えていて体力には自信がある。それでも、この山道のアップダウンはかなり厳しく、そう歩かないうちに息がはずんできた。でもたしか噂では、例の森番の老人は、この山道を歩いても息すら上がらないのだという。一体どれくらい鍛えている人なんだろう、負けるわけにはいかない、と涼は気合を入れ直してずんずんと登って行った。森小屋がどこかに見つかるかと思ったが、何の建物も見つからなかった。


 三十分も登っただろうか、山道が開けて遠くが見渡せる高台に出た。涼は足を止めて、青空と雄大な山、樹木ばかりで人里が見えない風景を楽しんだ。里もない、家もない、人もいない。ただ空と山があるばかり。

 雄大な自然に包まれていると、自分がいかにつまらないことにキリキリとなって毎日を生きていたのかがよくわかる。自分だけじゃない、自分のまわりの人間もほとんどが小さなことだけを見て、それが世界の重大ごとであるかのように勝手に深刻になって、大げさに騒ぎ立てて人生を生きているのだ。涼はそんな哲学的なことを考えていた。

 俳優になる、という熱意は別として、昨日のトラブルや、アルバイトを失ったことなど、どうでもいい小さなことではなかったか。そんな風に思うと自分の小ささが笑えてきた。親友や恋人など、大切な人と深刻なトラブルを起こしたわけではない。働く場所はほかにもある。自分にとって大事でないもののことをあれこれ考えることはやめよう。そう思うと気持ちも軽くなってきた。


 手ごろな石に腰を下ろし、雄大な風景を眺め、風を感じ、ただ自然を感じてみる。心に刺さったとげが抜けていき、もやもやが消えてゆく。ずいぶん長い間そのまま座っていたが、まだペンションに戻るには早いような気がした。伊那からもらった地図を眺めると、もう少し先まで山の遊歩道は続いている。とりあえず地図に書いてある道までは登ってみよう、山小屋があるかもしれないし。そう思って涼はふたたび山道を登り始めた。だが、山小屋らしきものは一向に見つからなかった。


 そのとき、森の奥でザザッ、と何かが動く気配がし、反射的に涼はびくっとした。道のある方角ではない。動物だろうか。音のした位置から考えると小動物ではなく、もっと背の高い動物だ。

 熊だろうか。この森は熊が出る森なんだろうか。

 緊張しながら涼は繁みの奥を見据えた。最初に見えたのは角だ。角に続いて茶色い顔と真っ黒な瞳が表れた。鹿だ。頭部から鋭く長い角が天に向かって伸びている。

 だが、どうしたことだろう。この鹿は、右の角がなかった。幾重にも分かれた堂々たる威厳を持つ左の角と、何もない右の角。その不思議なアンバランスさが、この鹿にさらなる威厳を与えていた。鹿は黒く大きな瞳でまっすぐに涼を見つめていた。涼もただ鹿を見つめ返していた。どうしよう、とも、何かするべき、とも、何も考えられなかった。涼と鹿はしばらくじっと見つめあっていたが、やがて鹿はくるりと体を反転させて、再び繁みの奥に消えていった。


 涼は鹿が繁みの奥に消えていき、音が聞こえなくなるまでじっとそこに立ち尽くして、いつまでも鹿が消えた後を見つめていた。不思議な感覚だった。熊か、と思ったときには不安や恐れもあったのに、鹿の目を見つめた瞬間、そういった普通の感覚はなくなっていた。鹿の黒い瞳の中には、静けさがあった。感情なんかでは表現できない、もっともっと深いもの・・・永遠の瞬間、永遠を感じる・・・時が止まったような、時が永遠であるような、悠久の昔のような。誰かの瞳を見て、そんな風に感じたことがあっただろうか?

 まるで一目ぼれの感想みたいだな、と涼は思いついて苦笑した。

 恋か。恋なんて、この三年、まったく意識したこともない。演技に歌に、踊りに、ひたすら俳優になるためのスキルをアップさせることに夢中だった。生活をしていくためのお金と、レッスンのためのお金を稼ぐアルバイト、その隙間を縫って、レッスンして、オーディションを受けての毎日。恋愛なんて眼中になかった。もちろん恋愛したいという気持ちはあったが、あえて出会いを探すような心の余裕も時間の余裕もなかった。俳優を目指す仲間には、つねにいつでも女の子たちのことを考えている仲間もいた。俳優になるための熱意より、女の子たちへ向ける熱意のほうがはるかに大きく見える。なんでそんなに他のことに気を取られるんだろう、と不思議だった。

 涼はずいぶん長い間、一本角の鹿と鉢合わせした場所に立ち尽くしていたらしい。ふと気づくと、山には夕暮れの気配が迫っていた。秋の夕暮れは早い。ペンションに戻ろう、と踵を返し登ってきた山道を足早に下って行った。


 ペンションに戻り、奥の厨房で料理中の伊那に声をかけて自分の部屋に戻った。一本角の鹿に会ったことは言わなかった。どう伝えればいいのかよくわからなかった。天窓からは夕暮れのほのかな光が赤く差し込んでいた。明るい青のコントラストの部屋に、その赤みは不思議にマッチして、えもいわれぬ美しい風情を醸し出していた。真昼の光の下では青空のように見える明るい部屋のインテリアに翳りが差していた。それはまるで子供の頃に秘密基地にしていた洞窟のわくわくする暗さだった。涼は電気をつけずに、夕焼けの光と部屋のインテリアのコントラストを楽しんでいた。


 夕食はフレンチだった。牛肉の間にトマト、パプリカ、ズッキーニ、コーンなど彩り豊かな野菜が交互に並べてある串焼きで、見た目にも美しく、肉汁の香りの間にハーブの香りが漂い、食欲をそそる料理だった。つけあわせはレモンの香りのする一風変わったポテトサラダと大盛りのハーブにチーズでできた煎餅のようなものが載せてあり、トマトソースがかかっている。野菜とソーセージ、ハーブの入ったスープもついている。フレンチの串焼きは名前をブロシェットと言い、ポテトサラダはシチリア風、チーズ煎餅は、パルメザンチーズをお好み焼きみたいに伸ばして焼いたのよ、と伊那が教えてくれた。


「私はフランス・イタリア・スペイン料理が好きなのよ。つまり南のヨーロッパね。」

 そう言って伊那は笑った。

「私はヨーロッパ風のインテリアのほうが和風より落ち着くし、ヨーロッパ料理のほうが口にあうの。ずっとヨーロッパを旅していても、日本が恋しくなることもなければ、和食を食べたくなることもないわ」

「そんなに長くヨーロッパを旅行したんですか?」

「旅行ではなくて、暮らしていたの。パスポートを破って、このままヨーロッパで雲隠れしちゃおうかと思ったわ。ふふ、不法滞在者ね。でも戻ってきちゃった」

 そんな話をしながら、伊那は何も食べなかった。

「食べないんですか?」

「あら、私はカスミを食べて生きているのよ、料理はいただきませんわ」

 涼をケムに巻きながら、伊那は適度に会話を続け、涼が夕食を食べる世話をしていた。

「本当は、フランス人なら絶対にワインを外せないところなんだけど、このペンションでは基本的にはお酒は出しません。なぜなら、お客さんには目覚めていてほしいから」

「目覚める?」

 涼は首を傾けた。

「朝になると目覚める、の目覚めるではないのよ。そういうことではなくて、頭も心もはっきりさせて、すっきりしていてほしいっていうのかしら。お酒を否定しているわけではないのよ。一緒にお酒を飲めば、神経も感覚も少し麻痺して、人と人を隔てている境界線が薄くなって、お互いの気が交じり合う。そうすることで、人と人はより仲良くなったり、共に生きている喜びを感じたりする。それが悪いというのではないのよ。ただ、このペンションは、お客さんと仲良くなったり、楽しく過ごしたりする目的で経営していません。お客さんに、いろんなことに気づいてもらって、いろんなことを明らかにしていきたいっていうのかしら。エリクサって意味わかるかしら?」

「わかります。ゲームのアイテムにあったから」

「ふふ、若い人はみんなそう言うのよ。ゲームの力ってすごいわね。エリクサは不老不死の薬だけど、もちろんお客さんを不老不死にしようとしているわけじゃありません。エリクサの不老不死の力ではなくて、病を癒す力のイメージでこの名前をつけました」

「エリクサは薬草ですよね。それでハーブも使っているんですか」

「そうね、私は植物が好きなの。ハーブだけじゃなくて、花も木も好きよ」

「僕は田舎出身だから、ときどき自然に触れたくなるんです」

「そうね、私も同じよ。私も涼さんのように東京に住んでいたことがあるわ。都会に住んでいると、自然が恋しくなるわよね。緑の中で、思い切り呼吸したいって感じていたわ。だから、都会で暮らす人々に、自然の中で自分自身を取り戻すような場所があればいいなと感じたの。ここにいると、ここの雄大な自然の中で、本当の自分が解放されていくのを感じたの、それがこのペンションのきっかけね」

「なんだかわかります。僕もここにきて、自然に触れていると、いままで悩んでいたことが小さなことに思えてきました」

「自分の本当の夢を思い出すことって大切よね。自分の夢を取り戻す空間を提供したいというのが私の夢なの。自分の夢、といっても、心の夢ではなくて、魂の夢のことよ。心の夢と魂の夢の違いはわかるかしら」

「いえ、夢は夢、と思っていますけど。自分が叶えたい、って思うことは自分の夢だって思っています。違うんですか?」


「心の夢と魂の夢の見分け方は本当は簡単なのよ。年齢を重ねていくと、心の夢と魂の夢を見分けることが大切になっていくの。心の夢には時間制限があります。心の夢は年齢とともに叶わなくなっていくから。

 高瀬さんはまだ若いけれど、もう叶わなくなっている夢はたくさんあるでしょう。たとえば、今からオリンピック競技に出たいといっても、それはかなり難しい。ピアニストになるのもかなり難しいでしょう。厳しい身体訓練を必要とする夢は、志すのが幼い時でないと叶わないものよ。だけどこれは、『オリンピック競技に出たい』『ピアニストになりたい』というのが心の夢だからなのよ。

同じことを魂の夢にしてみると、こうなるのよ。

『スポーツの喜びをこの体で味わいたい』

『音楽の喜びを感じたい』

 ね?こうすれば、魂の夢だから、年齢制限はなくなるの。年老いてしまって、若い頃のように走れなくなったとしても、自分の体を動かす喜びは持てる。孫にスポーツの喜びを伝えることもできる。

 ほとんどの人間は心の夢に気をとられすぎて、年齢とともに心の夢をあきらめ、もはや自分の夢は叶わないのだ、もう自分は年老いたのだ、この人生は取り返しがつかないのだ、と苦々しい思いを感じていくもの。それが大人になることだと勘違いしている人たちがたくさんいる。

 夢をあきらめた大人は、まわりに悪影響を及ぼすわ。若い人たちの可能性をつぶしてしまうのよ。『そんな夢物語みたいなことを言って』と若い人をけなし、傷つけ、夢を追わないつまらない大人にさせようとする。それがこの地上で蔓延している先祖代々受け継がれてきた呪いなのよ。

 でも魂の夢なら、どんな老人になってもかなえられる。年齢があがるほど、心の夢ではなくて魂の夢を大切にするよう意識を変えていくことが、満たされた人生を送るための知恵なのよ。でも、若い人にとっても魂の夢は大事。魂の夢は、心の夢の土台をなすものだから。

 音楽の喜びを感じたい、という魂の夢の上に、人々に歌声を届けたい、という心の夢があり、歌手になりたい、という現世の夢がある。そうやって土台があるからこそ、夢は土台から芽を出し、茎をのばし、花を咲かせる。でも、土台がない夢は伸びないわ。有名になりたい、みんなに注目されたいという夢の上には、人々に歌声を届けたいという心の夢は生まれない。自分の内側を振り返れば、自分の夢が、芽を出し花を咲かせる夢かどうかはわかるのよ。そうやって、夢の土台を振り返れば、かなわない夢を追って悲しむこともなくなるの。

 ほとんどの人は、なにが本当に自分を幸せにする夢なのか知らない、気づいていない。それどころか、自分を幸せにする何かを探すより、親やパートナー、あるいは世間を幸せにできる何かを探し求めて、いつまでたっても得られなくて、夢を追うことをあきらめていくの。大切なのは、他人の夢ではなくて、自分の夢を探すこと。心の夢ではなくて、魂の夢を探すこと。そうすれば、生まれてきてよかった、と思える瞬間がある。その瞬間があれば、魂は生き返るのよ。魂が生き返る薬のようでありたい、そういう願いをこめてエリクサと名付けたの」


 伊那はいったん、言葉を切った。

「なんだかいろいろつっこんでしゃべってしまったけれど、大丈夫?高瀬さんは若いのに聞き上手ね」

「僕、話の聞ける男と言われます」

 涼は最近読んだ本のタイトルをもじって答えた。

「あら、奇遇ね。私は地図の読める女と言われているのよ」

 伊那も同じ本のタイトルで返し、ふたりは顔を見合わせて笑った。

「薬になるのが魂の願いなんですか?」

「心の願いかもね」

伊那は目をきらきらさせた。

「人の悩み事って、ほとんどが人間関係の悩み事なのだけど、それって結局、自分に嘘をついていることが本当の原因なの。自分につく嘘をやめない限り、人間関係の悩みが解決する日は来ないのよ。だけど、自分についている嘘を見抜くのはものすごく難しかったりする。物心ついてすぐ、ほとんどの人間は自分をとりまく世界に適応しようとして、自分に嘘をつきはじめてしまうから。

 高瀬さんが、自分に嘘をつかずに自分の夢を追う人生を送っているのは素晴らしいことよ。高瀬さんのご両親は、きっと夢を大切にする人なのでしょうね」

 涼は田舎にいる両親のことを思い出した。俳優になりたい、と告げたとき、父は渋い顔はしたが「やるだけやってみなさい」と送り出してくれた。何かをやりたい、と告げたとき、頭ごなしに否定されることなどなかったが、それは稀有なことなのだと今ならわかる。俳優を目指す仲間には、両親と絶縁した者や、そもそも両親と親子らしいつながりがない者もいる。女優や、子役出身の仲間には、逆に母親が異常に干渉する者もいた。総じて、家族関係が複雑な仲間が多かった。


 涼はふと、『呼ばれていないものはたどりつけない』という噂を思い出した。

「いまは嫌いな客は来ないんですか?」

 伊那はちょっと肩をすくめた。

「呼ばれていないものはたどり着けないって噂?嫌な客って、電話を受けたらわかるでしょう。これは嫌な客だな、と思ったら基本的には満室ですって答えるのだけど、あとでこれはヤバイ、と気づいたときはペンションの立て札を抜いちゃうの」

「えええ?!」

 涼は『ペンション・エリクサ』を示す矢印つきの立て看板を思い出した。たしかに、この険しい山道で、あの立て札がなかったらたどり着くのは難しくなるだろう。山の奥だけあって、携帯の電波も届かない。

「都合のいい噂がたつものだなと思って感心しちゃったわ。いいのよ。嫌なものは嫌なんだから、私は自分に嘘をつかないの」

 伊那はしれっとそう言い、涼は大笑いしてしまった。ちょうどそのとき、見計らったかのように玄関の呼び鈴が鳴った。

「あら、高瀬さんお待ちかねの彼が来たわよ」

 涼は一瞬息を呑んだ。自分が緊張するのがわかった。そんな涼を見た伊那が笑った。

「大丈夫よ、魔物に会うわけじゃあるまいし。落ち着いて」


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