第4話 涼 23歳 森番の老人

「竪琴がお好き?」

 お盆にお茶を入れたカップを持ち、戻ってきた女主人が尋ねた。

「はい、本物ははじめて見たので。どんな音がするんだろうと思って」

「私が竪琴を弾くわけではありません。でも、鳴らしていただいていいですよ」

「いいですか?じゃぁ・・・」


 涼はさっそく立ち上がって竪琴に近づき、そっと竪琴を持ち上げた。竪琴は意外に重く、ずっしりとした重量があった。涼は竪琴を左手で抱えた。

「あら、正しい持ち方をなさるのね」

 女主人が声をかけた。

「えっ?そうですか」

「ハープなら右手で抱えるんです。その竪琴は左手。」

「知らなかったんですが、なんとなくこうかな、と思って・・・」


 涼は右手で弦を弾いてみた。優しい音が鳴る。涼は音階を確認した。なにか弾きたいと思ったが、耳に一番焼き付いているのは、やはり最終選考で落選した曲だった。オーディションに落ちた悔しさと悲しさが蘇る。それでも最初の音を竪琴の弦ではじいてみると、自然にメロディが続いていき、最後まで演奏してしまった。竪琴の音色が、涼が歌った曲とはまるで違う、別世界のように優しく穏やかな音楽を空間に広げていた。


「あなた、音楽関係の仕事をされている方なのね」

 女主人が笑みを浮かべて言った。

「音楽を仕事にしているというか・・・」

 涼は一瞬、どう言おうか迷ったが、はるばるここまで訪ねて来て、隠したり嘘を言ったりするのも変だと思い直した。

「僕は俳優志望です。この曲は、この間オーディションで歌った曲で・・・だけど、自分としては自信あったのに落ちてしまったんです。それでがっかりしたのと、悔しかったのでちょっとイライラして、トラブルを起こしてしまって・・・落ち込んでいるときにこのペンションの話を思い出して、それで来させていただきました」

 涼はそこまで話して、さすがに『運が好転する』という噂まで話してもいいのかどうか逡巡した。


「どんな話をお聞きになったの?」

「えーと、あの・・・森の番人に会うと運がよくなる、とかいう・・・」

 女主人は茶目っ気のある表情で目をくるくるさせた。

「あら、よかったわね。今日の夜は彼が来ることになっているわ」

「本当ですか?!」

 涼の声は思わず大きくなっていた。女主人の目は笑みでさらに細くなった。

「今日のお客様は、高瀬さんひとりだけなの。お客様が誰もいなかったり、お客様がひとりだけだったりする場合は彼が泊まりにくることになっているのよ。彼が、運をよくする力を持っているとか噂になっているのは知っています。だけど、そうね、この私が彼と出会って運がよくなったかというと、そうであるともいえるし、違うともいえるし。ともかくこちらのテーブルへどうぞ。お茶が冷めてしまうわ」

「はい」


 涼は森番の老人に会えると聞いて心浮き立った。わざわざここまできた甲斐があったと思った。涼は竪琴をもとあった場所に戻しにいった。なんだか竪琴から離れがたかったが、竪琴に心を残しながら女主人がお茶をおいてくれているテーブルへ移動した。


 女主人が名刺を差し出した。

「私の名刺です。次に来られるときは、こちらに連絡くださいね」

 名刺は宿泊台帳と同じく葉の透かし模様が入った和紙だった。そこには、

『ペンション・エリクサ オーナー齋藤伊那』

 という文字と電話番号、メールアドレスが記入されていた。


「伊那?」

 涼は思わず口にした。ここは下伊那郡だ。

「そう、地名と同じ名前です。でも私はここの土地出身ではありません。地図で偶然にも自分の名前と同じ地名を見つけて、なんだか気になったから旅行にきて、ここの山や木々がすっかり気に入りました。でも、ここに住むことになるとは思っていなかったわ。人生にはいろいろ不思議なことがあって、結局はまるで導かれたようにここにいます。伊那に伊那が住んでいるって、少し面白いでしょう?いまではすっかりここになじんで、もう他の土地に行くなんて考えられないわ」

「いいところですよね」

 涼はお世辞抜きでそういった。山があり、森があり、陽の光は暖かく、風は心地いい。それから涼は、伊那に問われるまま、俳優になろうとして田舎から出てきたこと、歌や踊り、演技のレッスンのこと、今回のオーディションへの期待から落選までのいきさつ、昨日のアルバイト先での事件まで洗いざらいしゃべってしまった。伊那は、竪琴を弾くのは噂の森番の老人であることを教えてくれた。

「彼とはすぐに会えるのだから、あとは彼に会ってからいろいろ考えたらいいわ。先に私が彼のことをあれこれ説明するのも妙な話だもの。それより涼さん、陽が高いうちに森の中を散歩されたらどうかしら。本当にいい森なのよ。散歩コースは地図をお渡しするわ。私は晩御飯の準備をします。その前に、今日のお部屋にご案内するわね」

「はい」


 伊那は先に立ち、リビングを抜けて玄関に戻り、二階へ続く階段を上がっていった。二階に上がって左に曲がり、突き当りの部屋のドアを開いて伊那は言った。

「今日はこの部屋を使ってくださいね」

 部屋は明るい青のグラデーションと白で統一されており、晴れた青空と雲を彷彿とさせるインテリアだった。それになにより、斜めにカットされた屋根には大きく天窓が開いていた。涼は思わず歓声を上げた。

「夜になると、もちろん星空が見えます。星を見ながら眠るというのも、なかなか素敵な経験でしょう?星はお好き?」

「はい、大好きです!」

 涼は勢いこんでそう言ったが、もちろん東京では星空など見えない。星空など、何年見ていないかわからない。小さい頃は星空を見上げるのが好きだった気がする。だが、満天の星空を見上げたことなど、いったい何年前だろうか。

「じゃぁ、ゆっくりしてらしてね。散歩に出かけるときには声をかけてください」

 伊那はそう言って部屋から出て行った。


 涼はとりあえず荷物をテーブルにおき、青い色のシーツのかかったベッドに大の字で横になった。ベッドは天窓の下においてあり、横になると青空が見える。夜になると、青空は星空になるのだ。ビルも街頭もなく、車や人の騒音もないこの場所で、こころゆくまで星空を眺めて眠りにつけるなんて、なんてわくわくする体験だろう。浮き立った涼の心に、オーディションを落ちた失望がちくりと蘇った。


『もしかして、別の道を考えるときなのかな・・・』


 ふと、涼の心にそんな思いがよぎった。俳優を志して三年。ハタチだった涼は二十三才になっていた。夢をあきらめる年齢でもない。だが、同級生の友人たちは社会人としてスタートを切っている。たまに学生時代の友人と飲んだり食べたりする機会があると、彼らと自分の間には隔たりができ始めていることに気づいてもいた。

 俳優という特殊な道を歩んでいる自分と、普通の人生を歩んでいる友達の違いだと思おうとしたが、社会人として着実な道を歩んでいる人間と、中途半端な立場である自分との違いであることもわかっていた。実際のところ、十代から俳優を目指している仲間は、二十二歳という大学卒業の年齢を区切りとして、普通の社会に戻ることも多い。

 涼は「俳優になりたい」と考えたことはなかった。「俳優になる」と決めてこの道に入った。熱意と覚悟が揺らぐことは三年間ただの一度もなかった。今まではただがむしゃらに前を向いてきた。端役ではいろんな舞台に出たし、テレビドラマに出演したこともある。歌や演技のレッスンも、重ねていく度に手ごたえを感じていた。今回のオーディションは集大成のつもりで臨んだ。自分の容姿や特性にふさわしい役柄だと思ったし、演技も歌も手ごたえがあった。それなのに、その手ごたえはカン違いだったのだ。涼は頭に手をあてて、大きなため息をついた。


いつまでも考えていても仕方ない。気持ちを切り替えていこう!


 涼はそう思い直すと、勢いよく立ち上がり、森の中に散策に出かけることにした。一階に下り、リビングの奥にいる伊那に、「散歩にいってきます」と声をかけて外に出る。もらった地図を頼りに、ペンションの裏手から裏にある山に向かって坂道を上がっていった。


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