第十三話  二人

「下がれ!」


 冷静に、それでいて早急な対応が必要だった。人間は目で見た情報に即材に対応しようと思っても、そううまくはいかないものだ。だが、声ならば。聴覚を刺激した命令や指示というものは反射的に行動してしまうもの。この場にきて一番大きい声を出した業と、その声を聴いたシュナは即座に来た道を逆走した。といっても、教室一つ分のみ駆けただけである。


 隠せるもののない廊下で、落ちてきたがれきによって沸き起こった埃を見つめる。何があったのか。何が起きていたのか。誰が・・何人・・、いるのか。共闘という手段はほとんどない。あるのは殺すか、逃げるかのみ。要注意人物たち以外ならば殺そう、業が考えているとき、ゆらり、と何かの影が動いた。


「ふぅ、やれやれ。ひどいなぁもう」


 若そうな男の声がする。瓦礫とともに落ちてきたとは思えない、呑気な声だ。例えば、トラックが通り過ぎて水溜まりが自分にはねた時のような。学校の友達に教科書を貸したら、忘れられたか落書きをされたような。困りはするがどうにかならないこともないような。こんな殺伐とした空間で、どうしてこうも日常でちょっとばかしひどい扱いをされたような声が出せるのか。


 業の警戒心が警告を出す。『悟られる前に逃げろ』『もう悟られているかもしれないから迂闊に背中を見せるな』。二つの指示が頭の中でせめぎ合う。握り拳から手汗が滴り落ちた。頭の中が煮えるように熱いのに、頭と額は冷たくて気持ち悪い。視界が狭い。暗い。いや、白い。目の前がかすかに揺れている気がする。目が乾くのに、瞼は怯えて頑なに動こうとしない。それを責めることはできない。なんせ、業自身、動くことができていないのだから。


「埃だらけだな。きれいな着替え、まだあったかなぁ。……あれぇ?」


 気付かれた。


「やあ、シュナ。元気にしてたぁ?」

「っ、あ……うん……なんとか……」


 シュナを知っている。親しそうだ。つまり、やはり若かったこの男は、囚人。

 ようやく眼球が動いた。シュナを見ようとしたが、眼球の動きだけでは表情まではわからなかった。けれど業の服を掴み、そしてその手は小刻みに揺れている。かつての知り合いと出会えたからだろうか。それとも、親しい風に見えても恐怖の対象なのだろうか。顔が見えないことには察することもできない。聞いたとしても、それを鵜吞みにするほど二人の関係性は出来上がっていない。


「元気ならよかったよぉ。心配してたんだよ。そっちの人は?」

「あ、えと……たすけて、くれたひと……」

「……ふーーーん、そうなんだぁ……」


 足が動く。男は踏み込んで、業たちとの距離を詰めてきた。砂利や瓦礫を踏む音が、二人の心臓の音に重なる。距離が縮まる度に重圧が増す感覚。業は少しだけ回った頭で、サバイバルナイフの場所を確認する。迂闊に動くな。けれど、向こうよりも早く動け。そう念じて、一挙手一投足、目に映る現象をただ飲み込む。少しの違和感も見過ごさないように。自分の本能に語り掛けた。


「シュナ、助けてもらったんだねぇ。そんな危ない状況になってただなんて……シュナ、君って子は……」


 業の有効範囲まで……あと、8歩。7歩。6歩。

  5歩。

     4歩。

        3歩。

 2歩。


「ありがとうございます」


 男は深く頭を下げた。


「え……」


 つぶやいたのはシュナだ。約45度のお辞儀を、二人は見つめるしかできなかった。二人に与えていた重圧が、その行動に疑問しか抱かせない。油断を誘っているのだろうかと、逆にあからすぎる様子に、二人の思考は停止した。

 頭を下げたまま、男は語る。


「この子は僕にとって特別な人なんです。このゲームが始まってすぐはぐれてしまって、ずっと心配していたんです。助けてくださって、本当にありがとうございます」


 言い切って、顔を上げた。男の顔は清々しい表情をしていた。栗毛色の明るめの髪と瞳に、垂れた目つき。線は細いが無駄なものがなさそうな体形。少し高めの声色。気持ち程度に上がった口角。『優しそう』、そう思わするに十分な見た目と雰囲気を放っていた。それを、全身にまとった大量の血液がぶち壊している。誰の血かなんてわからないが、動きや見た目から想像するに、本人の血ではなさそうだ。


 業の警戒心もいつの間にか緩んでいる。完全ではないにしろ、いわゆる達人といわれるような人間がこの場にいたとしたら。業は大なり小なり怪我を負っていたかもしれない。


 眉根を寄せた業は、不愉快そうに唇を嚙んだ。目の前の人物に呑まれている自分が情けない。緊張も、油断も。相手の意のままになっている現実。この時、業は一度死んだ気分になっていた。


「あなたはいい人だ。こんな現状だけど、せめて今は殺したくないんだよねぇ。だから――シュナを連れて、逃げてください」


 にっこり、と。人のよさそうな笑顔の後ろで、また砂埃が舞った。その直前に、大きな何かが落ちた音がしていた。


「逃がさねぇぞクソが!!」

「やぁ、来ると思ってたよ、≪撲殺≫くん」


 筋骨隆々。まさにその言葉通りな、いや、むしろその言葉を人間にしたような人物が蟹股で姿を現した。ところどころに白く、大体は赤黒いタンクトップを着て、はち切れんばかりのハーフパンツを履いて。黒光りする皮膚が筋肉をより一層主張する。


「行ってください。巻き込まれますよ」

「……行くぞ」

「……はい……」


 共闘の意思はない。それは双方、共通認識だった。1対1対1も、2対1も、漁夫の利も、どれも確実ではないし、リスクのほうが高い。まだリスクをとらなければならない状況ではない。業はシュナを連れ、今度こそ逆走していった。

 途中、業は怒号と轟音を聞きながら、シュナに尋ねた。


あいつ・・・は何者だ」

「……あの人は……――」


 ≪模倣犯≫、その人である。

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