第19話 美男の泣き落とし



「まずアイツら呼……アイツらなんしてんだマジで」


ダイダラは青レンガの髪をポニーテールにして、スマホ片手にTシャツの裾で汗を拭った。


糸クズ達は基本的に家から出払っている。

彼らはそもそも家をシャワーを浴びたり寝たりする場所と認識しており、ほとんど外に出っ放しなのだ。

異世界で友達も既に作っており、カノジョだっているやつも居る。

集めようとして簡単に集められるものでもない。

普段何をしているかも把握していないし。

ギラ兄さんが動向をギリギリ知っているくらいなのだ。シャオさんだって少し前まで家には一切帰れていない状況だったし。


「はふはふ」


そのシャオさんはハフハフふうふう温かいお蕎麦を食べており、相槌すら打たなかった。


…糸クズ達に電話をかけて繋がれば良いのだが、大抵スグには繋がらない。挨拶に行くのは数日後なのでまだ余裕はあろうが、悠長に構えてもいられない。

とっとと集めて都合をつけて貰わなければ。


「GPS入れてなかったらガチ死んでたわ…川田さんアプリ入れてるッ?」

「え。は、はい?」

「GPSアプリ。これ」

「あ。はい。はい、ギラさんに入れておけと一応、あの、言われ、」

「あんのね。ンじゃ近いとこに誰かいたら迎えに行ってやってくれ。オレハンマーとジェット迎えに行くからよ。アイツらいつ電話しても繋がんねぇマジで。シャオさんは寝てて良いからな。出張帰ってきたばっかだろ」

「はふはふ…」

「ダメだ聞いてねえな。川田さんシャオさんにもゆっといて。頼むわ」

「はあ」

「アバヨ」


ダイダラはこれだけ行って、携帯充電器片手に家を出て行った。

川田さんは頭だけ下げ、ほとんど開いたこともなかったGPSを開く。

シャオさんはお蕎麦を食べ終わったようで、ごちそうさまを一言。

その後に口をティッシュで拭きながら、


「みんな何してるんだろうね。オレずっと他所にいたからわかんないや…」


ともちもちの白うさぎを抱っこして、眠そうに川田さんへ言う。川田さんは「はあ、」と曖昧な返事をして、糸クズの位置を確認していた。

しかし見ても何をしているのかさっぱり見当もつかない。

本当に何をしているんだか、というところだが、…




「…………」


何をしているかといえば。

現在コモン・デスアダーはおっぱいの大きな大狐さまの前で正座をし、大量の汗を流していた。

183㎝の彼がちまこく見えるほどその白い大狐は存在が強大で、巨大な清女である。


名を沙羅姫(さらひめ)さま。

狐道(こどう)の総本山、女神とはまた別格の古い神である。


彼女はコモンくんの前で姫さま座りをして、ジッと彼を見下ろしていた。

沙羅姫さまは狐の耳が四つ生えている。

2つは通常の獣人と同じ場所に。もう2つは人間と同じ場所に垂れ耳が付いていて、その全てがコモンくんに向いていた。

腰まで伸びた白髪は真っ直ぐで、いつも彼女の周囲には赤い蝶が数頭ヒラヒラ舞っている。耳の上にも蝶が一頭止まっており、羽を広げたり閉じたりとしていてマァ美しいのであるが。

コモンくんは彼女が末恐ろしくて仕方なく、ただジッと俯いて恐縮するばかりであった。


「あゝもこわばって」

「姫のようじゃ。蛇売りか?」

「否、真(まこと)の蛇よ。おのこには見えぬがの」

「さもさも。あとでつついてやろ。きっと泣くぞ」

「食んでやろ。きっと飛び上がるぞ」

「ほほほ」

「クスクスクス」


沙羅姫さまの左右には数人の…これもまたしっとりとした美しい狐の娘達が座っていた。互いにしなだれかかるようにして扇子で口元を隠し、コモンくんを見つめて何やらヒソヒソ話しているのだ。

彼はこれも怖かった。

何を話しているのか分からないし、たまに彼女達は笑うので。


「蛇の目ェ」


沙羅姫さまはツンとした高貴な声を出す。

それは艶っぽくて甘いけれど…同時に刺骨の冷たさであり、一声聞いただけで尊い身分のお方がコチラへ話しかけているのだと分かる、人を緊張させる声だ。

コモンくんは背筋を伸ばし、手を畳に付いたまま「は。はい。はい、沙羅姫さま」と渇いた喉で言った。

何度水を飲んでも喉はカサカサだった。


「褒美は如何にする」


畳に蝶が飛ぶ影がヒラヒラ散っていた。

重たい伽羅の香りがして、コモンくんは「あ、」とひとつ言ったきり黙ってしまう。

…何を言っても、歯で潰されて食われて殺される気がしたからだ。




【何故こうなったのか、以下解説】




コモンくんはドライバーが欲しくてホームセンターを探していた。仕事が終わったので、お蜜が買った家具の組み立てを手伝おうと思って買い出しに出かけたのだ。


『ァ絶ッッ対違う…』


が。コモンくんはSLを降り。

スマホのマップを片手に歩いていたのだが、道に迷ってしまった。

マップでは正しい道のりなのだが、彼の目の前にあったのは山と赤い鳥居だったのである。

無人駅を降り、無人の桜道を歩いている時点でおかしいとは思った。

駅から出た先に赤いトンネルがあり、そこを通った先にあったのは土が剥き出しの地面と、左右にある白いしだれ桜の群であった。

そんな一本道があり、真ん中に木の看板で「ようこそ」と筆文字で書いてあったのだ。


コモンくんはそれを見た瞬間「とてもホームセンターがあるとは思えねぇ…!!」と思ったが。

マップは真っ直ぐ10分ほど歩いた先と書いてあるので、もうよく分からずその昼の桜道を歩くしかなかったのだ。

そして10分後。

道幅は狭まり、目の前にあるのは山道。

無限に続くかと思われる石の階段、そして赤い鳥居。

木の看板。


『このまま どうぞ』


と、看板には書かれている。

どう見てもホームセンターじゃない。

コモンくんは何十回も確認したが、しかし地図はこの先を指しているのである。

5分この階段を登った先にホームセンターがあると記載されている。

コモンくんはキョロキョロしたりウロウロその辺を歩いたりしたが、もう仕方がないので。

神社なら人がいるやも知れんと覚悟を決め、仕方なく登って行った。


桜の木漏れ日が彼の白い肌を照らしていた。

石の階段には桜の花弁が降り積り、望郷を思い出すのである。

懐かしい。

こんな日本らしい場所が異世界にもあるとは思わなんだ。

コモンくんは桜の山道を、階段をふうふう言いながら登り、汗を拭いてたどり着いた。

赤い鳥居、巨大な稲荷神社に。

鳥居から捻れた梅の木が直接斜めに生えていて、マァなんともキテレツな具合である。


『………』


…そんな稲荷神社の境内には、ひとりの狐の巫女さまが箒で桜の花弁を掻き集めていた。


しとやかな京美人といったところ、目が濡れているように輝いていて、黒髪を結い上げてはいるものの…うなじに一房結い上げ忘れた毛束がほろりとかかってあるのがなんとも艶っぽい女である。

困り眉とまなじりにあるほくろ、つやつやとした唇にむちむちの体ときて、コモンくんは(い…色白はんなり未亡人…!!)と心の中で唾を飛ばして叫んだ。

が、脳内だけの話なので何の問題もない。

さて彼は「ここがホームセンターに違いないな」とめでたく判断し、ニコ!と微笑んで。


『こんにちはぁ』


とニコニコにょろにょろ話しかけた。

すると色白はんなりもちたぷ未亡人は驚いた顔をして箒を握り締め、「…はい、」と彼を振り返る。

その振り向き姿は錦絵(にしきえ)のようで、あまりに見事なのであった。

黄金の狐の耳がコチラを向いていて、どこか健気な印象である。


『お仕事中すいません。道迷っちゃって…』


コモンくんは彼女のそばまで寄ってから、ゆっくり優しく話した。眉をへた、と下げて、頼りなさげなかわゆい顔を作る。

人に信用してもらうためにはまず笑顔…ではなく。濡れた犬の顔である。とにかく困っていて大変だという顔をして見せ、あなた以外にアテがないという無害そうな顔をして見せることだ。

完璧な笑顔とは余裕の表れであり、案外怪しまれるので。

本当なら男女のペアで話しかけるのが一番怪しまれないのだが。

もちたぷ未亡人はそれに「──マ、左様ですか。どちらへお行きに?」と、眉をコモンくんより下げ、小さな汗を飛ばしながら親身な声を出してくれた。


『あー、いや、だいぶ歩いたんでこの辺に目当てがないのは分かったんですけど。ちょっと休みたくて。その辺座ってても良いですか?』

『!…そういうことでしたか…お疲れでしょう…。お茶をお持ちいたしますので、コチラへどうぞ。何かこさえて参ります』


もちたぷ未亡人は幸薄そうな微笑みをしてから、カラコロ彼の前を歩いて案内をしてくれた。

コモンくんは「ありがとうございます」と言いつつ、心中お蜜に謝る。

この風情ある幸薄そうな美しい女に彼はクラッと来てしまって、一緒にお茶くらい飲みたい気持ちになってしまったのだ。

許せお蜜、男というのは心に好きな女が住んでいても、優先順位が移動することはないのだが、もちたぷのおっぱいが目の前にあると一瞬何もかも分からなくなってしまうのだ。自分の名前も、明日でさえも…。

綺麗な女を見ると真っ先に好きな女を思い出す。が、それは抑止というよりは好きな女の再確認だ。

男は(大半は)安心すると浮気してしまうもの。

恋人ができたり家庭に入ったりすると、戻る場所ができて自分には愛する女がいるという安堵感から適当な女の元へ行ってしまう生き物なのである。そうしてスグに帰って来るもの。


コモンくんははんなりもちたぷ色白狐巫女のむちっ♡むち♡とオノマトペを出しながら歩く背中を見て自我を忘れた。

マァ因みにその頃お蜜は糸クズたちの影響を受けすぎた為、女神専用接待サービスの美男達を侍らせ、目の前に傅く薔薇のような美男へ「そなた、今宵はあけておけ」と女帝の顔をして言っていたので特に全く問題はなかったのだが。


『奥へどうぞ。沙羅姫さまに御許可を取って参ります』

『?さらひめさま。…えっと、はい。ありがとうございます、お忙しいのにわざわざ』

『いいえ。そろそろ仕事は終えようというところでしたの。お名前は…その、なんとお呼びしたら…』

『コモンです。お姉さんはなに姫さまですか?…多分オレと同い年くらいだよね』

『──マ。ほほほ。嫌や…年増ですのよ、貴方よりずっと…』


彼女は片耳をヒコ、と反応させてから、「…お蝶とお呼びくださいまし。スグに戻ります」と恥ずかしそうに、頭を下げてしずしず歩いて行った。

コモンくんは拝殿の中に入れて貰い、座布団の上に座って中を見回す。

神社の中って入ったことなかったけど、こうなってるんだと思いつつ。


いやはやしかし狐の巫女というのは本当にしとやかでなまめかしいのだな。もう騙されてもいいし、この身がここで終わっても良い…。とコモンくんはポヤポヤお花を間抜けに飛ばしてワクワクそわそわ待っていたのだが。


『…コモンさま。沙羅姫さまがお呼びにございます。コチラへ…』


と、もちたぷお蝶さんは困った顔でこちらへ戻ってきて、手のひらをするりと奥へ向けて言ったのだ。

コモンくんはきょとんとして、「…?」と首を傾け。

取り敢えずついて行ったのが大失敗。


『何をしに参った? 蛇の目ェ』


──それは宝石をねだる女の甘い声だった。

御簾越しに座った女は巨大であり、大量の女狐達が頭をペッタリ畳に付けていた。

コモンくんはそのど真ん中に座らされ、他の女と同じようにおでこを畳につける。

お蝶さんに呼ばれたと思ったらこれだ。

長い長い渡り廊下を歩かされ、回廊を歩き、目隠しをされて更に歩かされ、訳も分からずこの…コモンくん風に言うなれば時代劇みたいな、だだっ広い畳の部屋に立っていた。

御簾の向こうの巨大な女。

天井にはカラフルな天井絵が…飾られているのではなく、天井絵みたいに男の生首が規則正しく碁盤の目みたいに吊るされていた。

カラフルな髪がヒラヒラ風に揺れていて、畳へ新鮮な血をボタボタ落としている。


つまりコモンくんはもう完全に諦めていた。

自分が死ぬのは分かったし、自分は戦闘系のスキルを一切持っていない。

少しでも何かされたら、即死だ。

そこら辺の素人勇者より余程弱いのだから。

レベルアップによって身体能力は爆発的に上がったが、せいぜい素手の地球人なら確実にどれでも殺せる程度で、拳銃には敵わないし。

つまり異世界じゃ病気の乙女くらい弱い存在なのである。

故にコモンくんは「ふーん、死ぬってことね」と思って、死ぬ前の人間がそうするように薄く微笑んで畳におでこをくっ付けていた。

…えー、死にたくないな。

お蜜ちゃんと結婚したかったのに。

女神は転生者と結婚できないそうだ。マしかし、お蜜が世界ランク100位圏内に入れば高位女神となるため、一つだけ願いを叶えてもらえるらしい。

例え転生者との結婚だって叶うそうだ。

だからコモンくんは頑張っていたのだ。

お蜜を世界ランクに入れるために。


それなのにここでお終いかもしれない。

なので彼は目をスッと閉じて少し微笑んでいた…のだが。


『蛇』

『っ、はい』

『沙羅姫さまが問うておる。答えよ』

『は。はい。えっ…と。ここに来た…理由…ですよね』

『2度言わせるな』

『はいごめんなさい。あの…。…ホームセンター行きたくて…。…道迷っちゃって…ここにつきました』


怖い声で話しかけられた。

驚きに打たれたコモンくんは涙目で言った。

仮病を使う中学生みたいに頼りない声だった。

それはほんとに間違って来ちゃったんだなという声である。

思わず抱き上げて飴を与えたくなるほどかわゆくて、無垢な…可哀想な声だった。


だって最低限の装備すら彼は着けていない。

ステータス詐称用の指輪は中指につけているものの、上に着ているのはセリ×ヌのTシャツだし、ズボンは黒いスキニーパンツ、靴はバレ×ティノのボックススニーカー。

歌舞伎町から迷った挙句ここに来てしまったホストみたいな格好である。

武器など一つも持っておらず、ディオ×ルのサドルバッグの中にはスマホと財布と煙草とリップクリームしか入っていないし。

あとはなんか…ガムとかである。


マなんにせよ何か大事を企んで紛れ込んできた悪党にはまさか見えなかった。

彼はどこからどう見てもホームセンターかコンビニに行こうとしたら間違えてここに来て、かわゆいもちたぷお蝶さんにヘラヘラついて来たらこうなってしまったように見えたし、事実そうだった。

だって沙羅姫さまが「蛇の目(じゃのめ)」とただ呼ぶだけでビクッと震えるのだ。…


『蛇の目』

『は、はい』

『ん、よしよし。そうか。道に…迷うたか。ん』

『……はい、』


沙羅姫さまはトン、トン、と自分の肩を扇子で打ってから、その扇子をフッと上にあげた。

すると御簾の一番近くに座っていた平安貴族のような娘が、さくらんぼのような小さな赤い唇を扇子に押し当てつつ…「面を上げよ、蛇」と綺麗な声で言う。

その娘はあまりに長い黒檀の黒髪を床に垂らし、十二単をズルズルと垂らして着ていた。非常に趣味の良い合わせであり、挙動のたびに嗅いだこともないような良い香りがした。

雛人形のようなこの女、この中で最も美しくもあるが、最も意地の悪そうな顔をしていた。


『………』


コモンくんは時代劇で見たことがあった。

知っている、「面を上げよ」と言われて一度で顔を上げちゃいけないのだ。

なんか、確か、二回目に顔を上げるのが正解だった気がする。今は伏せているのがベター、と思って頭を下げたままでいると。

雛人形がフッと残酷に笑ってから、「蛇」と切るように言った。


『二度云わせるなと申しておろ。愚図は舌を切らねば分からぬか』

『ァごめんなさい!』


不正解!

と、コモンくんは真っ青になってガバ!と顔を上げた。

一回で顔を上げなければいけなかったらしい。

しかし不正解ではなかった。単にこれは雛人形の意地悪だ。

美男ではあるが、勝気な切長の目は沙羅姫さまのお好みではない。よって雛人形は彼を好きに痛ぶることにしたのだ。

雛人形はトントン、とさくらんぼの唇へ閉じた扇子を押し当てた。

するとコモンくんの後ろに控えていた金色の狐の女2人がスルリと立ち上がり、コモンくんの体をガシ!と掴み…。


『!?え、アっ』


…金狐は長い金の爪を生やしていた。

コモンくんは無理矢理口を開かされ、細長い長い二股のズルリと引き出され。

その金の爪で、舌をキッと引っ掻かれたのだ。


『ぅあ"ッ、』


雛人形は素知らぬ顔、金狐が勝手にやったと言わんばかりに視線を逸らして扇子の下でコロコロ笑っていた。

その顔は本当にかわゆかった。


『いっ、ウ、』


舌に血が滲む。

爪は結構深く食い込んでいて、かなり痛かった。

唇にも爪が引っかかっている。口というのは敏感で、痛みを覚えれば鼻がツンとするものだ。

コモンくんは勝手に涙が出て、振り払いたくも力が足りない。


『づ、……!う』


ズルン!と彼の右足の素足が畳を引っ掻いて伸びる。

左足は正座をして折り畳まれたまま。

血がボタッと落ちた。

真上にある首からも、血が時折落ちて、コモンくんの血と混ざっていった。

痛みに顔が赤くなる、涙が出る。

頭を強く掴まれて、舌が本当に裂けそうだった。


すると…苦しむ様子を見ていた沙羅姫さまがフム、というような声を出してから首を傾ける。

彼女は何か面白がるような目をしていた。

コモンくんの痛がり方に興味を持ったのだ。


『!』


それを見た御簾の近くの白狐が、「やめろ」と鋭い声を出す。


『下がりゃ』

『、…』


彼女が言った。

そうすれば、金狐はピッと耳を揃え、コモンくんをチロ、と睨んでからスグにやめて下がっていく。

白狐は雛人形を横目で見た。

しかし彼女は優雅に扇子を翻して口元を隠し、コン、と可憐に一つ咳をするのみ。

自分は一切関与していないという態度であった。


『〜〜〜〜〜ッッ』


コモンくんは口を押さえてドンッ、と片手を畳につき、心臓をバクバク言わせながら痛みの余韻に足の指を丸めた。

本当に舌をちょん切られるかと思ったのだ。

自分の唯一の武器だというに。

涙が止まらない。鼻周辺にできたニキビを乱暴に潰したみたいに、物凄くしみる痛みだった。

コモンくんはギュッと眉を顰め、親指につけた指輪を傷に押し当てて熱を少しでも逃がそうとしつつ。


ずびっと鼻をすすってから…。


『し、信じて、』


スン、ともう一度鼻を啜り。

濡れた目で御簾を見た。

それは低い声で、痛みを堪える男の声だった。


と言うのも。

これはシャオさんに教わったものである。

追い詰められた時、何かがバレた時。

みんなに責められた時、誰かに嫌われた時。

〝こうしてみろ〟とあの乙姫のような男が教えてくれたのだ。


やり方は簡単。

髪を乱して、ほんの僅か…近くで見ないと分からない程度に眉を少しだけ下げて寄せ、涙で下まつ毛を束にする。

前髪が片目に少しかかっていれば上等、それがクシャッと寝て乱れたようになっていればパーフェクト。

あとは口を半分開いて、足を崩して座り。

猫背で睨むように真っ直ぐ対象を見て、瞳だけを可憐に、声だけは男らしく。

目に涙を溜めるだけで決して泣かず。


『オレ、なんもしてない"…』


と、涙で滲んだ声で訴えれば良し。

シャオさんはそんなふうに大事なことをふわふわ教えてくれた。

男の泣き落としは殊更女に効くのだそうだ。

あの輝夜姫はこれで何度もアフターをすっぽかして白玉とぬくぬく眠った経験を持つのである。

さて九死に一生スペシャル、単なる泣き落とし如きで毒蛇は生き残ることができるのか。

武器はなし、味方もなし。

丸腰の裸一貫、残酷な魔の手から抜け出すことはできるのか……。


『───愛い…!』


結果から言うとできた。

しかも、一番コモンくんを気に入ったのは意地の悪い雛人形であった。

扇子をさくらんぼの唇に押しつけたまま、ホロ、と赤くなって、乙女みたいに可憐にクシクシ泣き始めたコモンくんに釘付けであったのだ。

沙羅姫さまもまたパチ、と真紅の目を見開いて、『……姫のようじゃ』と毒気を抜かれた声を出して呆気に取られていた。


彼女達は長らく生きてきた悪しき者である。

いつから生きていたかは分からぬ。

記録を辿ることもできないほど古い狐達だ。

それゆえ、ここに来るものは最早彼女達を味方につけようとすり寄る身の程の知らずの悪党か、成敗しようとやってくる陰陽師か軍勢のみ。いや、それももう最近は来なくなった。

とにかく来るのはそういう嫌な男達だ。

来るたび首を飛ばして天井に飾ってはいたが。

こんなに細身の、スルリとしたベルサイユの美男が来たのは初めてである。

しかも舌をちょいと掻いただけで輿入れ前の姫さまみたいにクシクシ泣いてしまう弱々しき者。

ドライバーを買いにホームセンターに行こうと思ったら間違えて来てしまった間抜け、娘のように線の細い子供。

男というのはタルのように巨大だと認識していたのに。


毒蛇がたった一匹で何をしにきたのかと思えば。

どこぞの神が「古狐相手など己1人で充分よ」と乗り込んできたのかと思えば、これは本当に単なるちまくて間抜けな蛇であった。


…というわけでコモンくんは。

沙羅姫さまと雛人形に「かわゆいの」「愛いではないか」と気に入られ、単なる涙一粒で命を見逃して貰ったのだ。

可愛いは作れる。

というか、可愛いは押し付けることができる。

である。




◽️




では冒頭に戻る。

沙羅姫さまに「褒美は何が良い」と言われているシーンだ。

コモンくんは泣いた瞬間空気が変わったのを敏感に察知して、このままならイケると確信、クシクシよわよわし続けた結果いたく気に入られてしまい、「痛みに耐えた褒美をやろ」と沙羅姫さまに甘い声で言われたのだ。


向き合って同じ畳の上に座り、コモンくんは手をついたまま俯いている。

「ちこう寄れ」と言われての状況である。

さてしかし褒美と言われても。

難を逃れたのは幸いであったが、これ以上のトンチは効かない。

一体この場合は何を言って切り抜ければ良いのだ。

色仕掛けまがいをして首の皮一枚繋がっただけで、この場合で気に入られる褒美のねだり方など知らん。

何をねだれば健気だと思われる?

そもそもねだるのは正解なのか。…


つーか腹減った。ここまで結構歩いたし、もう寝たい。どっかでラーメン食って帰りたい。お蜜ちゃんに会いたい。

怖い。もうほんとやだ。

と、彼にそれ以外の心は一つもなかった。


故にコモンくんは汗をかきながら、困って困って、考え抜き。

おうちに帰してください、ではせっかく可愛がられていたのに素っ気ないし、物足りなかろうと思った。

かといってご飯くださいというのもなんだし。

…もう夜も遅い。

この辺りは夜半、モンスターが出るらしいし、コモンくん1人ではスライムも倒せない。

ならば…と考え。


「えっと、」

「オウ。申せよ、なにでも」

「……その、」


コモンくんは辿々しく、困ってから顔を上げた。

そして。


「一晩、泊めてもらえませんか。あの、もちろん外で雑魚寝するんで…。夜オレ1人だとこの辺帰れないんです」


と、ドキドキしながら言ってみた。

可哀っぽく。

部屋を用意しろ、酒を持て、極上の女を左右に置いてもてなせと言っているわけではないのだ。

敷地内、外で良いから寝かせてくれと言っている。あとは勝手に帰るからと。

これくらいならば良いだろうと判断したのであるが。


「………ほお」

「────ッ」


途端、空気が冷たく変わった。

コモンくんを後ろから甘く見つめていた雛人形の目も、ザッと真っ黒く変わった。

室内は沈黙で満ち、恐ろしい煙のような殺気が立ち込めたのである。


「…あ、」


ミスった!

しくった、なにかを間違えた!


コモンくんはドッと汗をかき、もう顔を上げられなくなった。

一晩泊まるのは図々し過ぎたか。

いやだって、帰れないし。

何がダメだったんだ。布団を貸してくれと言っているわけでもあるまいし…と、彼は小さくなって息を浅くさせる。

殺気が重たくて背中が冷たくなり、声ひとつ出せなかったのである。少しでも動いたら、本当に殺される気がした、


「…なにと?」


沙羅姫さまは恐ろしい目で言った。

四つの耳を立てたまま、尻尾をふっと揺らして首を傾ける。

雛人形も扇子の下でカクンと首を傾けた。

その目は血走っていた。


さて、なぜ彼女達が突然怒ったのかと言えば。

一晩泊まろ、というのは「オレに伽をしろ」という意味であるからだ。

つまり抱かせろ沙羅姫と言ったのと同義。

流石に彼女達も怒るわけである。


昔陰陽師がそんなことを言ってきた。

大金を積まれて退治に来た男であった。

されど彼はなかなか強く、沙羅姫は案外追い込まれたものだ。

陰陽師は少し笑って、「のう沙羅姫」と彼女のなめらかな髪に触れて言った。


『我らが憎み合う事情など一つもないではないか。私は成敗を頼まれただけ、其方はただ此処に居るばかりの古狐。どれ、仲良くいこう。私と朝まで語らおうではないか』


その男はそう言った。

沙羅姫はそうするしかなかった。

当然、それは言葉通りの意味ではなかった。

寸前で喉を裂いて殺したが、燃えるような屈辱は忘れていない。

コモンくんはあの晩を彷彿とさせた。

それだけで万死に値するものだが。

沙羅姫が恐ろしい目を彼のつむじに向けて、左右の女狐が立ちあがろうとした時。

黙って肩を震わせていたコモンくんが、突然ふっと目を暗くして。唇を尖らせてから、突然。


「えじゃあもう良い。帰る。何?迷ったっつってんじゃん普通に。別にオレこん中勝手に入ったわけじゃなくて案内されただけだぜ。入るなってなら入らねーしそもそも。なんで看板とかに立ち入り禁止ってやっとかないわけ?このままどうぞって書いてあったから来たんじゃん。そっちの落ち度だぜ。ダルマジで」

「…ハ?」

「どこ?帰り道。案内して。え泊めてくんないんでしょ。もういいって帰るから。ワンチャン友達に迎えに来て貰えるか聞くしもういいわ。交通費出ねえのに…この時間ワープ料金かかんじゃん最悪…。えじゃあ友達来るまでここで仮眠取らして?おやすみ」

「…………」


見事なまでに開き直った。

彼はどういうわけか、…というか。この状況に誰よりも早く耐えられなくなり、命乞いの前に逆ギレを決め込んだのである。

分かりやすく言えば拗ねたのだ。


なんでオレがこんな目に遭わなきゃなんねえの、と。

なんでオレがこんなチクチクされなきゃいけないの。

なんもしてないのに。ホムセン行こうと思っただけなのに。

いやもう本気でどうでもいい。

殺すなら殺せば良いだろ、もう知らん。

と。理不尽な状況に本気で慣れていない彼は不貞腐れてしまって、座布団を枕にして横にゴロ!と寝転がってしまった。

そしてスマホをコテコテいじり、チャッキーへ「むかえにきて」とだけ送り、目を閉じた。


この大一番で。

狐屋敷のど真ん中で。

浮気を許してもらえなくて逆上するクズ彼氏みたいな態度をとって、彼はにょろりとトグロを巻いてフン!と目を閉じてしまったのである。


「………」


沙羅姫さまはあまりのことに固まった。

女房も固まり、雛人形も固まり。

室内の時間は止まった。

女達は誰も動けず、この弱々しき姫のようなちまい蛇が拗ねて寝ちゃったのを見て…。


「───愛い!」

「かわゆい…!!」


結果的に通用した。

奇跡体験アンビリーバボーである。

彼女達は時を長く過ごし過ぎて、当然ながら令和の男に慣れていない。

よって目新しいことをされるとそれだけで驚くし、テクノロジーの発展よりもこちらの方が俄然面白いようであった。


女狐達から見れば、彼の印象はこうである。

タルのように重たい武士か下卑た陰陽師ばかり相手にしていた彼女達は、初めてこのように華やかで甘い美男を目にした。

この姫は間違って迷い込んできたかと思えば、些細な脅しでメソメソ泣いて見せ、かわゆくか弱い姿を見せた。

その後少しこちらが不機嫌になれば、撫でられ過ぎた家猫みたいにシャ!と威嚇し、拗ねて丸くなって眠ったのだ。

大抵の人間というのは…大名でさえ…すまなそうに縮こまるか恐れて固まるか、だというに、あまりに弱い存在がこうも伸び伸びと不貞腐れるので、彼女達はこれほど間抜けな存在を初めて見たのであった。

新鮮で間抜けな弱い蛇。

こちらを害する術一つ持っていない癖に、低頭をやめてお腹を出して寝てみせる。

このあまりの無礼さは最早動物や子供のようで、見目の美しさも相まって間抜けな子猫に見えたのであった。


はわわ…と袖で口元を覆った雛人形と、ぎゅ…と拳を握った沙羅姫はほろほろと赤くなってこの間抜けな糸クズを見下ろした。

そして雛人形は「おお、」と袖に細い声を漏らしてから、彼にそろりと手を伸ばした。


「…そ。そうか、蛇よ。二心はなかったのであるな」

「スーッ」

「お、」

「触るなよ。噛むぜ」


彼は蛇の威嚇音を喉から出した。

…コモンくんに噛まれたところで赤子に指をあにあにやられているのと同じことであり、それは脅しにもならない。

が、雛人形はますます愛しい気持ちになって、「おおお…」とうめいて手を引っ込めた。


「…蛇の目。蛇の目や、可い(いい)。相分かった、掛かって(泊まって)ゆけ。好きなだけ伸ぶるが可ろしい」

「ヤダ。怒るだろ」

「おおお……」


沙羅姫さまも彼の頭に触れてみたが、コモンくんは嫌そうに丸くなり、顔をクシャ!として拗ねるだけだった。

女狐達はこう来ると最早懐かない野良猫を珍しがって、触らせて触らせてと遠巻きから扇子を仰ぐのと同義になってしまったのである。


……前提が長くなったが、ヱ、つまり。

何をしていたのかと言えば。

コモンくんは大狐の根城、総本山にて。

ヒモをやっていたのである。

スマホが繋がらないわけだった。

ずっとこうして構われていたのだから。



◽️



次にもう少しわかりやすいところ。

スグに連絡が繋がったマリンちゃんは何をしていたかというと、にこにこと嬉しそうに家具を見繕っていた。

お蜜が何故家具を買ったかといえば、これはマリンちゃんへの新居祝いであったのだ。


マリンちゃんは最近エメラルドシティに自分のお家を買った。

大きな臨時収入が入ったためである。

それというのも、彼女はシャオさんから大量の宝石や服を貰ったのだ。

シャオさんはエリーゼ嬢や公爵さま率いる大貴族たちから星さえ買えようかというほど貢がれていた。が、シャオさんは物欲がそれほどない。ペットのもちもちのウサギに美味しいご飯を与えられるならばそれで良いのである。

なので彼は貰ったものをそのままマリンちゃんに与え、「これを売ってお金にしておいで」と言い、お金をそのまま彼女に与えたのだ。


というわけで星一つ買えるほどザックリお金を持った彼女はその金をチャッキーに渡した。

ユルク星の金を大量に持っていては誘拐事件の件で監査局に怪しまれると判断し、チャッキーに資金洗浄をしてもらったのである。

そして換金した金で川田さんと共に良い物件を探して手に入れた。


新しいお家は、巨大な窓から緑の森を眺めることができるだだっ広い一間であった。

女神は基本的に一人暮らしが多いため、こう言った物件が多いのだ。

彼女はコンクリート打ちっぱなしの、その細長い一間の平屋を買った。

服屋や展示などで使われるようなその家、さてどのようにインテリアのデザインをしようかとわくわく嬉しく家具を見ていたのだが。


「なにしてんだブルーベリー」

「買い物か?チャイナブルー」

「浮かれ調子だなヘビイチゴ」

「混ぜろよブルーハワイ」

「あ…!!」


蚤の市を散策していた彼女へ、悪魔が来たりて水を差す。

いつの間にか真後ろに立ってハンマーは彼女の耳をミ!と引っ張り、ジェットはガブ、と肩に噛みついた。

マリンちゃんが悲鳴をあげれば2人は満足そうに離れて周囲を眺め。


「家具?お前引っ越すのか?」

「マヌケの荷造り」

「バカの大移動」

「嫁にでも行くのか、かわいいロリポップ」


やっと状況を把握した。

マリンちゃんはムキャ!と顔を赤くして「普通に来てください!」と怒った。誰でも背後から突然そんなことをされたら怒るに決まっている。


「お。おうちを買ったんですぅ。家具を揃えようと思ってここにきたんです。邪魔しないでくださいっ」

「ふーん。どんなの?」

「興味ないけど聞いてやるよ」

「帰って。帰って」


マリンちゃんは一生懸命2人の背中を押してどこかに行かせようとした。

しかし2人は暇だったようで、ガンとして動かず言うことを聞こうとしないのである。


「つれねえなマリンスノー」

「値切り交渉なら得意だぞ」

「荷物持ちだって大得意」

「見てろ、アントワネット」


2人はそう言って、側の出店へ歩いて行った。

そこはファブリックを扱っている店で、カラフルなラグや飾り布、絨毯が大量に折りたたまれていたりかけられたりしている。

店主の太った男はソファに腰掛けて眠っており、その下にいる白い犬もまた眠っていた。

ハンマーとジェットはその店主に近寄り、犬のプラスチックの餌皿を素手でバキ!と割って、店主のおでこにそれをドン!と突っ込んだ。

店主は眠っている間に死んだ。

血が飛んだ。

マリンちゃんは毛を逆立てて、「あう、」と一言、一歩後ずさる。


「ほら、これで店のもんは全部タダだ」

「完璧なディスカウント」

「お望みならここら一帯全部無料にできるぞ」

「値切り交渉のプロだろ」

「得意なんだ、こういうの」

「頼れよガラクタ」

「…もしかしてこの犬皿欲しかったか?」

「………」


マリンちゃんは信じられない…という顔をして。

ふうふう言いながら2人を見てから、キ、と眉を吊り上げ。


「な、なんで、殺。殺す必要、無いじゃ、ないですかぁ!」

「?生かしておく必要もない」

「ヒューマンに生きてる意味なんてないだろ」

「たかがセックスでできた産物に価値なんてない」

「どうした?ブルーサファイア」

「嫌なら戻すぞ、ほら」


彼らはキョトンとして、何がダメなのか全く分かっていないようだった。しかしマリンちゃんが怒ったので、仕方なく餌皿を割るところまで時間を戻してやった。

生き返った店主は呑気にイビキをかいている。

彼らは両手をぱっと広げて、これでいい?という顔をした。

そして暇そうにマリンちゃんの元に戻り、「間取り教えろよ」「何がなくて何があるんだ」と退屈そうに肩に顎を乗せるのだった。

マリンちゃんは周囲を見回して、全てが元通りに戻ったのを見て。

ふうふう言ってから…「もう!」とかわゆい声で言うのであった。


それからは当然買い物どころではなかった。

マリンちゃんが「4人がけの大きい白いソファを買ったけれど、それ以外はまだ何もないの」と言えば。

2人はフーンという顔をして、ほとんどガラクタの巨大な額縁を勝手に買った。

それは細く黒い板を適当に四角く繋げたというだけの…2人の身長の倍はあるような細長い額縁である。

0.2BK、つまり二百円くらいで売られていたゴミ同然の額縁だ。飾る絵もないというのに。

それと、薄い緑に透ける空き瓶。

一つの赤いしなびたリンゴ。

合計450円の、バカみたいな買い物だ。

それをマリンちゃんのちまこいコロンとしたお財布から勝手に払い、魔法陣の中にしまって「とりあえずこれで良いだろ」と勝手に納得して彼女を連れて帰ってしまったのだ。


辿り着いたのはマリンちゃんの新しいお家。

まだ真っ白な大きな布製のソファしかない、ガランとした家だ。

2人はそんな家に土足でドカドカ入って行って、中を見回してフゥンという顔をする。


「ひ。酷いですう。あの市場、今日で終わりなのに…」

「ろくなもん無かったろ」

「これで十分だ」

「じゅ、充分じゃな…た、たくさんお買い物しようと思ったのに。ランプとか、」

「なんだ、泣いてるのか?」

「可哀想なガラクタ」


2人は一切取り合わない。

それどころか彼女を見ず、白いソファの前に立って、煙草に火をつけてフッと横向きに煙を吐く。

そしてその煙を魔法陣に変え、中から先ほど買った額縁と、萎びたりんごと、空き瓶を取り出した。

450円のどうしようもないガラクタ達だ。


2人はそのどデカい額縁を、よいせ、と持ってソファの背もたれの少し上に設置した。

打ちっぱなしのコンクリートにベン、と貼り付ける。

粘着性ではないはずだが、黒い板の額縁はそれだけで壁に張り付いた。

すると。


「……?」


…なんだか、ソファの置かれた場所が少し引き締まって見えた。仕切りができたみたいに、だだっ広いコンクリートの家の中でその空間が確立して見えたのである。

大抵はランプやテーブルを置いたりラグを敷いたりして落ち着く空間を作るものだが、ハンマーとジェットはそれらを全く使わず、ガラクタの額縁だけでスマートに空間を作ったのである。


「よっと」


それから。

2人はその額縁のど真ん中に、萎びたリンゴを投げ込んだ。


「、」


リンゴは壁にぶつかってソファに落ちる…のではなく。壁の中にするりと吸い込まれて行ったのである。

すると、真ん中。コンクリートから緑の芽が出た。かと思えば、それはみるみるうちに成長し…。


「わ。わぁ、」


壁から林檎の木が生えた。

真っ直ぐ生えたわけではなく、折れ曲がって、ソファの上を傘になるよう太い枝が真横に向かって生えたのである。

白いソファに木の影がさした。

枝には真っ赤な食べごろの林檎がいくつもなっていて、それは額縁の中にぴったりと収まっている。…

木が生えたせいでコンクリートには天井から床にかけて派手に斜めのヒビが入った。

しかし元々そのヒビがあったみたいに、それは空閑にしっくり収まっているのである。


さて、最後。

ハンマーとジェットは空き瓶をバリンと真っ二つに割って、飲み口を床に捨てた。

残ったギザギザの瓶底の中に、ジェットが手の中からゴロン、と火の塊を入れた。

するとひび割れた表面やギザギザの断面が火の光に反射し、キャンドルホルダーみたいに光を放つのである。

ハンマーはこれを、人差し指をかざしてスッと空間をスライドしてみせることで、即席のキャンドルホルダーの数を増やした。

コピーアンドペーストしたみたいに火種入り瓶底が増えたのである。

それをソファの周辺にランダムに浮かせれば、そこはキラキラと緑の光に満ちる空間に変わったのだった。


「よっこいせ」

「こんなもんだろ」


2人はこれを見て納得した様子で、ソファにドカ!と座り。ハンマーはリンゴを一つもいでジャクッと齧り付き、ジェットはタバコの煙を細く吐いてくつろぎ始めるのである。


マリンちゃんは呆然と遠くに立ったまま、その空間を見つめた。

彼女から見て、それはとても素敵な空間に見えたのだ。


白くてふかふかのソファの上、額縁から飛び出した林檎の木。緑色の灯りが反射して、壁や床、2人の肌や林檎の木をキラキラと照らしている。

ソファに深く沈んでくつろぐ2人が、ファッション雑誌の1ページみたいで格好良かった。


「わ…」


マリンちゃんは両手の指を絡ませて、目を輝かせた。先ほどの不機嫌はもう捨ててしまっている。

そうだ。

忘れていた。

そういえば2人の本職はデザイナーなのだ。


「は。ハンマーさまぁ。ジェットさま」

「なんだよ」

「どうした」

「怒ってごめんなさい…。と、とっても素敵ですう…」

「全然いいよ」

「いつでも言いなね」

「あ、あのぅ。他の、その、ダイニングとかも、やってもらえたりしますかぁ…?ベッド周りとか…」

「構わねえよティファニーブルー」

「明日ならいいぜ、青羅紗(あおらしゃ」


ふわ、と欠伸をした2人は言った。

マリンちゃんはなんだか嬉しくなって、2人の真ん中に座った。

エヘエヘ笑ってみせ、どんなインテリアにしたいか話し始めたのである。

2人は全然聞いていなかったが、それで良かった。


「いいから踊ろう、ブルーキャット」


飽きたジェットが言った。

ロンドが流れて、マリンちゃんは困ったけれど手を取った。…


というわけで、マリンちゃんたちは仕事終わりに楽しくDIYの日々を送っていたくらいなので。

ダイダラからの連絡に、スグに気付くことができたのだった。






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