第18話 社会人の常識



『オレね、日当たり良くて、柔らかい庭がある田舎のお家に住みたいんだぁ。森が近いのは嫌なんだけど』


シャオさんはよくそう話していた。

庭園の豊かな風吹くガゼボにて、幸せそうな目をして言うのだ。

花々は風に波打って揺れていた。

彼はエリーゼ嬢へ将来どうして過ごしたいかの話をするのがお気に入りのようだった。


『どうして森が近いのは嫌なの?』

『狼とかいたら白玉が食べられちゃうから…。柔らかい庭もね、白玉転がしておくのにちょうど良いかなって』

『そう…』

『あなたも一緒に住むんだよ』

『え?』

『だから準備しておいてね。着替えなら手伝ってあげるし、体も洗ってあげる。オレがあなたのお世話をやるよ。使用人さんが居るのって落ち着かないし、オレたち2人がいいな』

『………』

『ユカちゃんは庭に何が欲しい?』

『わ、私?』

『?うん。2人で住むお家だよ。2人で決めないと』


シャオさんはニコニコして、彼女を空想の遊びに誘う。

そして叶える気満々で具体的な話までするのだ。どうやって働いて暮らして行くか、どうやって2人で逃げるか。

どういう問題があるのか、どんな楽しいことがあるのか。

彼が話す内容は夢ばかりでは無い。現実的で、だからこそよく考えられている気がした。

そう上手くはいかないことも分かった上で、実現化に向けて試行錯誤しているのがよく伝わったのだ。


『異世界スローライフだね。なんか憧れる』

『…そうね』

『こっち来て』 

『へ』


シャオさんはふわふわニコニコして、ジャケツを脱いで椅子に捨て、ツノに付けられた重たい宝石をあっけなく外してブラウスのみになった。

そして彼女の手を引いて歩き、大木の下に座る。

…芝生はあれど、所々土が剥き出しになっていて…そのまま座ればきっと服が汚れる。けれど彼は躊躇わなかった。


『よ。汚れるわ、シャオ』

『慣れて。一緒に暮らしたら汚れることなんてたくさんあるよ。煤で汚れるだろうし…爪も土で黒くなるかも。…いやだ?』



『…い、嫌では、ないけど』

『嫌じゃないよ。キミとの生活ならどんな汚れも愛しいはずだ』



エリーゼ嬢は、ガロミラ卿は彼の問いにそう答えていた。

全く同じ話を、全く同じようにされているとは知らず。

シャオさんは2人が別の庭、別の日、別のタイミング、しかし同じ返事をしたのに対して…ふわふわ微笑んで、「うれしい」と言った。


『ずっと一緒に居てね。ユカちゃん/キールさま』


引き寄せて笑った。

吸血鬼みたいに完璧で綺麗な笑みだった。

シャオさんはこうしてなるべく全員に同じ話を持ちかけたり、同じような口説き文句を使っていた。

何故って彼は同時進行で6名を相手にしているので、人によって何を話したか、何をしてあげたか、されたかを覚えていられない事があるので。

なので話を統一していたし、同じ感情を使って話した。

彼にとってここにいる人は、人ではなく現象だった。


…だから、エリーゼ嬢の首に刃が落ちるのを見ても。

いわれのない罪で死にゆく彼女を、高いところからガロミラ卿と見ていても…片手に持ったワインの美味しさの方が大事だった。


『───これ美味しいね』


彼はエリーゼ嬢の首へドンッ、と刃が落ちるのと同時に、ガロミラ卿に話しかけた。

血が飛び散るのを背景に空になったグラスを使用人に渡したのだ。


『次も用意しておいて。オリーブと一緒に』


シャオさんは用意されていたフルーツに目を向けず、処刑も見ず、夕日を見ていた。

風が吹いていた。

ガロミラ卿は彼の為に、この瞬間のために枕を割って手を尽くしたわけだが。シャオさんは処刑に一切の関心を見せずに夕日を見ていて、ワインの感想しか言わなかった。

横顔は狼の美貌である。

けれどガロミラ卿はそんな風に勝手な態度を取られても、何か彼をそうさせてしまった自分に原因があると思い込むようになっていた。それに今さら彼から離れることなんてできない。

ここまで彼に尽くしてきた。

だからもう戻れないのだ。


夕日を浴びるシャオさんはおとぎ話みたいにロマンティックだった。

彼がそばに居てくれる。

それだけでどんなにか。

そうだ、それだけでどんなにか…。


『…す。全てが終わったら、共に遠くへ行こう』


ガロミラ卿はお気に入りの言葉を言った。

彼はこの話をシャオさんとするのが大好きだったから。縋るような気持ちで言ったのだ。

シャオさんはそれを、鮮やかな夕焼けをボゥッと眺めながら…。


『うん。愛してるよ』


優しく彼を撫でて言ってくれた。

その言葉は媚薬であり、彼に傷付けられたことを忘れさせてくれる麻酔だった。

ガロミラ卿も既に元婚約者の血が流れて行くのを最早見ていなかった。

夕闇が迫るのを2人で感じていたかった。


それだけで、良かったのである。…




◼️




「この人物に見覚えは」

「………」


シャオ・カルトの目の前に、行方不明となったガロミラ卿の写真が置かれた。

テーブルには他にも、リリス嬢、ハスター、ヴィラック、エスラルダ…と、ユルク星から消息不明になった人々の写真が並べられていた。


問い詰める監査員は蛇の目をしていた。

その隣に太った白人の監査員が貧乏ゆすりをしながら座っていて、煙草を吸っている。

シャオ・カルトは椅子に座らせて貰えなかった。

これは監査員の嫌がらせで、椅子を取り上げられてしまったのだ。


…監査員は動悸に息を切らしていた。

彼らはその実緊張していて、胸が苦しかった。


シャオ・カルトはホワイトリストからサイコリストに下落した。ダークリストからサイコリストに落ちる人間はある程度存在するが、ここまで派手な落下は初めてだった。


転生者のリストが落ちれば監査局へ通知が来るようになっている。

通知が来次第監査局は転生者を当局まで連行するのだが、シャオ・カルトは連行する前に、地方の支部へ自ら赴いたのである。


「あの、なんか、リストが落ちちゃって。どうしてかは分からないんですけど…」


彼はのんびりした声で事務員に話しかけた。

事務員は現状を把握しておらず、「はあ」とつられて間の抜けた声を出し、「では確認いたしますので、コチラにおかけください」と彼を座らせて名前とIDを聞いて記録を辿った。

そこで彼は青ざめた。

プラチナリストがホワイトリストに落ちた、もしくはホワイトからブルーリストに落ちた…程度のものだと思っていたのだが。

やって来たのは、魔界の悪魔と同じサイコリストの男だった。それだけでも身の毛もよだつと言うのに、少し前までホワイトリストだったという記録まで出たのだ。

これは我々の感覚で言えば、牧師の男が、17名の少年少女を地下に監禁してもっとも陰惨な方法で虐待し続けて殺していたのと同じ。今まさにその黒い男が壁一枚挟んだ場所に立っているというのと同じことだった。


すぐさま彼は本部へ通知を送った。

シャオ・カルトは危険人物と判断され、まず身柄を拘束され、窓のない取り調べ室へ連行された。

彼はユルク星での連続誘拐事件と〝全く同時期に〟リストが落ちていた。

スキルは《神隠し》まで所持しており…。

よもや誘拐事件の真犯人、もしくは関係者ではあるまいかという疑いが出たのである。


取調室には本部の人間が入れ替わり立ち替わりやって来て、徹底的な調査が行われた。

が。シャオ・カルトからは「なにも」出て来なかった。

なにもとはつまり、なにもである。


目撃証言も無ければ、その時期にユルク星に居た形跡もない。物的証拠もその一切がなかった。

それにこの男は攻撃用のスキルを一つも所持しておらず、最弱と言われるスライムにでも遭遇すれば大怪我をする程貧弱なのであった。オークに襲われれば簡単に殺されるだろう。

そのくらい弱々しい存在なのである。

それに神隠しのスキルが使われた形跡もない。

スキル使用履歴を見てもまっさらなもので、彼はここ数ヶ月で全くと言っていいほどスキルを使っていなかった。

不気味な程まっさらなのである。


組織的な犯行である線も浮上したが、シャオ・カルトはなんのパーティにもチームにも所属していなかった。

転生すればまずは一番先にギルドへパーティ登録をする筈…もしくはどこぞのギャング集団、チームに所属し、名前が登録されるはずなのだが、彼は何処にも在籍していなかった。

異世界にて、どこに所属することもなく、たった1人で生きてきたことになるのだ。

スライムも倒せない男1人が。

その上、担当女神登録もされていない。…


地球で言えば、シャオ・カルトは戸籍がなく、その上国籍も出自も不明というところだ。

彼に関して分かることは、「転生者」という点のみ。

一体今までどのようにして生きてきたのか、どの惑星に居たのかも分からない。


監査員から見て彼は、過去のない、突然現れた点のような存在である。赤ん坊みたいに真っさらで、けれどサイコリストに落ちている。

大それたことをした筈だ。

それこそ最近の誘拐事件のようなことを。

一体この男は何をしてリストを落としたのだ。

一体何者なのだ。


データを見ても何も発掘できなかった。

何か一つでも良いからこの男から情報が欲しかった。

…というわけで、彼らは躍起になって問い詰め続けたのである。

時にはテーブルを叩いたり、熱が上がれば拘束された彼を椅子から蹴り落としたりした。

しかしシャオ・カルトは。


「…………」


寝かせず、椅子にも座らせず、何か少しでも喋るなら水をやると言われても。

24時間経過しても、完全な黙秘を貫いたのである。

彼は一言も何も言わなかった。

最初はふわふわ微笑んで困ったようにしているだけだったが、だんだんと面倒臭そうにフッと顔を逸らし、それからは一度も一切表情を変えていない。

眉を寄せることもない。

彼は立たされてから休憩もなく13時間立たされっぱなしだ。

けれど少しも根を上げず、ただ黙って監査員の目をまっすぐ見つめて疲れた様子も見せやしないのだった。


窓のない取り調べ室。

秒針の音に、沈黙に耐えかねたのは捜査員の方だった。

嫌がらせで立たせたというのに、強烈な美男の視線に心痛を覚えたのは彼らの方だ。

一本の夜が立っているみたいだった。

虫が人間に擬態しているみたいだった。

それくらい気持ちが悪くて、禍々しく見えるのだ。

最も彼が恐ろしかったのは、シャオ・カルトがマバタキを全くしないことだ。

いつ見てもコチラをジーッと見つめて、一切しない。


…否、本当はマバタキをしている。

しかしシャオさんは監査員がマバタキをする同じタイミングで自分もマバタキをしているだけに過ぎない。

某国では昔こういった拷問が行われていた。

囚人にロープをかけて立たせ、ただ監視をし続けるというものだ。

監視している者は一切囚人から目を逸らさず見詰め、マバタキはタイミングを合わせて同じようにする。

すると囚人はかなり速い時間で耐えかね、真実を話し出したのだそうだ。

そんな単純なことに、終わりのない取り調べに、監査員はみるみるうちに参っていった。

別の監査員がやって来てもそれは同じだった。


サイコリストは人間だと思うなという教えがあるが、全くその通り。

静かに立った麗しの幽鬼は生き物にはもう見えなかった。

監査員は時計を外し、交代制をとりながら48時間調査を続けた。

彼は最後まで何の言葉も発さなかった。


証拠はない。

記録もない。

彼を疑わしいという一点のみで拘束し続けることはできなかった。


「おせわになりました」


彼は解放された。

監査局はその後も監視を続けたが、彼はもたもた歩いて行った末。

紅紅葉の道を歩いていく最中、忽然と姿を消したのである。監視カメラや追跡魔法からもスッとすり抜けるように、煙のように消えたのだ。


それから彼は現在に至るまで消息不明。

一体どのようにして姿を消したのか、事件にどのように関与しているのか、担当女神が誰なのか、その一切が不明。

勇者適性もAIはナシとは判断できなかった。

開拓地送りにすることすら不可能だったのである。


夕凪の美男は去って行った。

けれど、一番最初に会った地方の事務員にだけ。

誰にも聞こえない声で、


「あなたになら話してもいいよ」


と、彼は耳打ちをしたのである。

事務員は胸が強く打つのを感じた。


「あなたにしか話さない」


甘い声だった。

骨を冷たくさせる紫陽花の声だった。

冴えない地方事務員はドキドキとして、職務と誘惑に揺れる。

理屈のない心拍数の上昇だった。


「いつか話そうね」


シャオ・カルトは事務員の肩にポン、と手を置いてから廊下を歩いて行き、解放された。

事務員はいつまでもいつまでも彼の黒い背中を見つめていた。

シャオの真っ白な手首は、手錠の跡で青と黄色のアザだらけになっていて…それが凄く、綺麗に見えた。





◼️




「ど、どう、どうされました」

「………」


帰宅してスグにシャオさんがしたことは、ソファに座って仕事をする川田さんの邪魔をすることだった。

隣にドス!と座ったかと思いきや、ジトッとした梅雨の目で彼を睨め上げるのである。

川田さんはギラ兄さんから借りたバレン×アガの黒いTシャツを着ていた。その下は自分で買ったらしい薄い青の、物凄くダサいスウェットの暖かそうなズボンを履いている。

そして汗を絶え間なくハンカチでポンポン拭きながら、「えっと、」と困った。

するとシャオさんは、トン!とつま先で川田さんの足を軽く蹴って、


「おそばつくって」


と、刺々しい声で言った。

甘えているのである。

川田さんは「あ、な、なるほど。あったかいので良いですか、」と辿々しく言う。シャオさんは背もたれに寄りかかって、ブスッとした顔で「うん!」と言ってから目を閉じた。


本当に疲れたのである。

もう暫くは人に気を遣いたくない。気楽に話せる人としか喋りたくない。

コチラが少し黙っても話題を提供してくれる人間と話したい。受け身の会話をしない人。一緒に爆笑できる人。

常に次があって、会話が面白い人。

物凄く簡単にこちらに気を遣ってくれて、適度に気を遣わない人。

常に会話でこちらへの期待を滲ませない人。

具体的に言えば、「私のことなんてどうせ嫌いでしょ」と言って「そんなことないよ」と言わせる人だ。

なんで女の子って、「私なんて全然可愛くないよ」と言って「そんなことないよ」をカツアゲする女の子は嫌うのに、「私なんて嫌いでしょ」と言って「好き」をカツアゲをするんだろう。


マァヒステリーの姫とメンヘラの姫を相手にするよりよっぽどマシだったから良客ではあったけど、常に付きっきりは疲れてしまった。

暴力も振るわれてないし、鬼電もないし。

ストーカーもされてないし、ボディソープの中になんだかよくわからない体液を忍び込まされていたこともないし。

泣きながら電話もかけてこないし自殺未遂もしないしオーバードーズもしないし、お風呂場は真っ赤になってないし。

それに比べたら最後の尋問も全然マシだった。

レベルは上がったから身体能力と体力も上がったし、立ちっぱなしでも平気なフリはできた。

足の裏は凄く痛いし、背中まで痛いけど。

肩こりが悪化したような気がする。足の関節がバカになった感じで、それでも案外耐えられた。

喉の乾きに耐えられるように、口の中に水を発生させる魔法を覚えておいたのも良かった。

男攻略キャラクターの痛客に監禁されるかもしれないと思って一応勉強しておいたのだが、まさか監査局で使うとは思わなかった。…


「川田さん、他の人いないの?」

「は、はぁ。外出中らしいです」

「おそばまだ?」

「もう少しかかりまして…茹で時間があと8分で、」

「うん…」


シャオさんはキッチンまでノタノタ歩いて行って、シンクのヘリに両手をついて退屈そうに作っているところを眺めた。

彼の首から下がったネックレスがキラキラ揺れている。

川田さんは焦りながらネギを切り、それを鍋の中に入れて菜箸でかき混ぜていた。

慣れた手つきである。

糸クズたちに「作って作って」と強請られて覚えたのだそうだ。


「…川田さんさ、」

「はい」

「日本に帰りたいって思う?」


シャオさんは良い匂いがして来たことで機嫌が少し治ったのか、子供っぽい態度から一変していつも通りに戻った。

川田さんは少し考える顔をしてから、鍋に視線を戻した。


「いえ、自分は戻りたいとは…思いませんね。恥ずかしい話、地球に居場所はありませんでしたから」

「そう?」

「はい。職場にも家にもありませんでしたね。今の仕事にはやりがいを感じているので、戻りたくはないです」

「やり甲斐かぁ。やってることはよくないことだと思うけど」

「…あ、いえ。その、皆さん、褒めてくださいますので。単純な話、上司から大目玉を喰らってばかりでしたんで、え、どうにも…」

「怒られてたんだ」

「はあ」

「ここの人も怒るでしょ、たまに」

「ああいえ、それは、その。真っ当なので」


川田さんは基本的に上司からのストレス解消の道具に使われていた。仕事を辞めるにも金がなく、身を切るような思いで実家に頼ったが、他人のように扱われてしまったのだ。

希死概念は物心ついた時から常にあったように思う。

自分で死ぬことは物凄く簡単で、椅子に座ることくらい楽そうに思えた。

全てが終わるなら死ぬほどの痛みは特に問題ではなかった。

思えば自分はずっとそうだった。

学生時代は友人がおらず、学校では常に寝たふりをして過ごし、培ったのはねじくれた自意識と不気味な性欲だった。

世の中の全てがくだらなく感じ、人々が楽しいと思うことに価値を見いだせなくなった。流行り物を毛嫌いし、みんなが好きな音楽は不協和音に聞こえ、人気の映画は薄っぺらい商業の匂いに顔を顰めるばかりである。

都合の良い展開と中身のない愛を歌う世間が大嫌いで、その癖都合の良いエロ漫画ばかり読んでいた。


社会的な生活と社交性を育てることができなかった人間にとって、生きることは辱めを受けることと同じだった。

虐められるほどクラスで存在感はない。

不細工でも頭が悪くても、言動が変でも、からかわれることはあっても友達ができないだけでイジメられるまではいかなかったりする。不良ばかりの学校ならば起こりやすいが、偏差値の高い学校では意外と個人主義だったりするのだ。

中途半端に頭の良い場所だとイジメが多いと聞いた。

自分には縁遠い話だった。

誰も自分を構ってはくれなかった。

女子の無邪気な笑い声は自分を笑う声で、派手なクラスメイトの男が携帯を覗き込みながら笑っている時は、自分の惨めな写真を撮られて見て笑われているのだと思った。

ずっと1人でいると自意識ばかりが巨大になっていて、世界は自分への悪口で溢れている気分になる。

資本主義社会というが、地球で一番大事なのは金より自信なのだと思う。

自信を砕かれ続けた自分には何もできなかった。

大学を出て、心の中で見下していたブサイクな女子が結婚したのを知ったその日は寝れなくて、好きだった吹奏楽部の大人しい女子は港区女子になっていて、見下していたクラスメイトの男たちはなんだかんだコネで良い企業に入ったり、自分の店を持ったりしていた。


…教室の中に突然テロリストが入って来て、自分が異能に目覚めて倒す妄想は、令和では異世界転生に変わった。

現実逃避にも流行というものがあるようだった。

自分もよく通勤中にその手の漫画を読んでいた。

社会が大嫌いで、人類が嫌いな自分にはちょうど良かった。自分が悪いのじゃない。地球が悪いのだ。

そう思っていたから、生まれ変われば…。

世界が変われば、自分も本気で変われると思った。

自分だってステージが変わればできる。魔法があればモンスターも倒せる。ゲームのルールが変われば活躍できるはず。

できなかったことができるようになるはずだ。と、中休みの間に寝たふりをしていた時の子供の自分が頭の中で呟いていた。


そしたら本当に転生して、なのにオヤジ狩りにあって…かと思えば、就職先が決まった。給料は出るし。

大嫌いだったトラウマ級の陽キャ達は恐ろしかったが、話してみれば彼らは単なる子供だった。

彼らは社会人の常識を知らない。けれどその辺の大人より余程経験値があって、いつも爆音の音楽に身を任せているみたいな生き方をしている。

失敗はあまり怖くないようだった。

挑戦を何度もして何度も挫折している彼らは転び方を熟知していて、失敗してもケロッとしている。彼らが一番恐れているのは、何も起こらないことみたいだった。


彼らは川田さんを学校の先生みたいに扱っていて、いつもなんだか子供っぽい態度で話しかけてくるようになった。

それは不思議な感覚で、多分ハーレムを作るより充実した気分になれた。

焼き付くほど嫌いで、本気で憧れていたあの陽キャの男たちのグループに入れた気がしたし、腐敗した青春をやり直している気分だった。

体力はついて行かないが、見ているだけでも案外楽しかった。クラスの中で声を聞いている時は最悪だったが、輪の中に入れば本当に面白かった。…


『川田さんも呑み行こうよ』


社畜の癖が抜けなくて、しがみ付くようにずっと与えられた仕事をしていれば。指示されていない場所までやっていれば、まずギラに好かれた。

スカウトマンのギラ兄さんは言葉すら通じない部下の教育もしてきた。仕事ができてもその金を裏カジノで使ってしまうヤツとか、女の子を怒鳴り付けて仕事に行かせるスカウトはいくらでもいる。

代表には恐怖で教育しろと言われ、ヤキを入れる部屋も存在した。

サボるヤツも、会話が成立しないヤツも、最初は挨拶すらまともにできないヤツもいる。

幹部のミーティングでは暴力が耐えないし。

そんな中でやってきたので、殴ってもないのに黙々と仕事を進めてくれる川田さんは何よりも有難い存在だった。

「これやって」と言えばちゃんとやるし、会話は成立する。鈍臭いし仕事は遅いけど、指示してない場所まで整頓して持ってくるのだ。

ギラ兄さんは彼のことが大好きになった。

川田さんは自分で何か指示を出したり司令塔に立つのは絶望的にできないが、誰かの下につくと力を発揮する人間だったのだ。

接客はできないが、事務仕事は大の得意。

ギラにとっては本当に、仏のようにありがたい男だった。


因みにチーム歌舞伎町を攻略するには、一番早いルートがギラ兄さんに好かれることだった。

ギラ兄さんは人を見る力があって、彼が好きになるのはとにかく「仕事のできる人間」なのだ。

ギラ兄さんが「好き」と言えば、コモンくんはかなりその人物を信用する。コモンくんが好きになればシャオさんが懐く。シャオさんが懐けばオドロアンも興味を持つ。

チャッキーとダイダラはあまり人を選ぶ男ではないので、全員が認めれば友達になろうとするのだ。

よって川田さんは図らずもギラ兄さんに好かれたことで糸クズの中に馴染むことができたのである。

そのおかげで呑みにも誘われるし、サウナに誘われるし、今ではこうして普通に話しかけられる。

無理矢理仕事を押し付けられることもない。

この生活を気に入っている。

帰りたいとは思わない。

お蜜さんも、マリンさんも優しいし…。


「オレも帰りたくないな。休みとかほぼ無かったし。夜職ってキツイけど、一回やるとそれ以外で働けなくなるんだよ。やりたかったこともわかんなくなるしね」


シャオさんは淹れたお茶を川田さんに渡しながら話した。彼も地球に疲れ切っていたのだ。


「なんか、漠然としたストレスがすごくてさ。言葉にできないズシッとした疲れが突然来るみたいな感じ。不健康だしねぇ。ホスラブであることないこと書かれるのも結構怖いし、女の子って結構普通に暴力振るうし泣くからさ、管理ってかなり大変で…」

「ええと、その」

「ん?」

「自分も飲み会が辛かったです、接待も。ホスト?は毎日それをするみたいな感じですよね」

「ああ、うんうん。近いのかも」

「えっと、キツいですね」

「キツイ。ふふ。何時間もスマホ使えない時とかザラにあったよ」

「?それはどういう…アレですか」

「姫から鬼電ってやつが来て、携帯が使えなくなっちゃうんだ。気付かないふりするんだけどね」

「なるほど。休み無し…ですかね」

「ないねぇ。感情がね、なくなる。でも大金稼ぐと麻痺してくるよ」

「どのくらい稼がれてたとかって、聞いても…」

「最高は4億7000万。バースデー月だけど」

「よん…」

「他でお仕事できなくなるよ。でもオレは毎日辞めたかった。同時に天職だって毎日思ってたけど」

「チ、チートですね」

「…チートじゃないよぉ。努力だよ。チートって、ルール無視とか、努力しないで簡単に能力を得ることでしょ」

「あ、す。すいません。強いことを咄嗟にチートという癖がついてしまってですね、その」

「ううん。いいよ」


シャオさんは髪を耳にかけ、換気扇へタバコの煙を吐いた。そしてふわふわ微笑んで、「お互い辞められて良かったね」と優しく言う。

川田さんは温かい蕎麦を作り終えて、頷いた。


「今はアレですか。辛くないですか。仕事内容も、ホストの時とあまり変わらない気が」

「ううん。ちょっと疲れたなーって思うけど、友達とやってることだから楽しいよ。ルールが全然違うから意外と面白いしね。あなたも重労働だけど楽しいでしょ」

「…そうですね。ですね。昔より仕事をしてる気がしますが、自分で進んでやっているので。辛くないです、全く」

「ね。オレも。お蕎麦ありがとう。アイスあげる」

「あ、あ。どうも」

「川田さんの分は?お蕎麦食べないの?」

「あ。1人分しか材料がなかったので…」

「え?そうなの?じゃあ半分こしようよ」

「あ。え、きょ。恐縮です」

「なんで恐縮してるの。ふふ」


シャオさんは器を出して、適当に蕎麦を分けてそれを渡してくれた。

そしてもちもちの白ウサギにビスケットを与えながら、ツルツルそれを食べ始める。

川田さんもいただきますをしてから無言で食べ始め、なんだかな、と思った。

確かに業務時間はそんなに変わっていない気がする。

しかし今は仕事を消化するのが楽しいし、休日も好きな時に取れるので。自分の意思でやる仕事は楽しかった。

ギラお兄さんはたまにフラッと外に行って信じられないくらい呑んで帰ってきて、庭で潰れているが。

それ以外はほとんど働いている。

彼もまた仕事が楽しいようだった。


さて、そんな折。

川田さんとシャオさんでツルツルお蕎麦を食べていた、昼下がりに。


「か。川田さん、やべぇ。助けて」


突然帰ってきたダイダラが、靴を脱ぎ捨てながらやって来た。息を切らして汗をかいており、髪をかき上げて「ガチで終わった」と言いながら。


「あ。あ、はい。どうされました」


ただ事ではない雰囲気だ。

ダイダラは基本的に凪のような心を持っていて、よほどの緊急事態でない限り爪とかを見ている男なのだが。

泡を食っているのを見るに、つまり緊急事態なのだろう。

彼はゼェゼェ言いながら「やばい」と言って中に入り。


「監査局長に全員で挨拶行くことになっちまってよ。何持ってけば良い?名刺?の作り方とかオレわかんねえんだけど。こういう時のスーツ何着たら良いか分かんねえんだけど。手土産何持ってくか知らねえし挨拶の仕方わかんねえんだけど!」


と。

矢継ぎ早に行って、肩で息をした。

川田さんは曇ったメガネを拭きながら、「は、はあ」と返事。

糸クズのシャオさんもキョトン…!として、川田さんを見た。ディオ×ルのスーツしか持っていないこの男も、社会人は一体どうやって挨拶をしに行くのか分からないのだ。

この場にいないコモンくんも、オドロアンもギラ兄さんも当然名刺の作り方なんて分からない。

菓子折りもわからなければ挨拶のマナーも知らない。

お蜜とチャッキーも女神という特殊な仕事をしているし。

チーム歌舞伎町は誰もそういう基本的なところを知らんのだ。


それをしっかり知っていて、身に沁みて分かっているのは。堅実に社会人生活を営み、不動産業で散々人を見て来た川田さんのみだった。

彼が唯一持っている地球でのスキルは、《社会人》である。


社会に嫌われていた彼は、まさかここで社会での基本を武器に戦うこととなったのである。











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