第15話 否定系の女



「日本では何をしていたの?」


悪役令嬢/エリーゼお嬢様は、優しい香りのする紅茶を飲みながら言った。

大貴族のヴァレンロッド家のテラスは花の香りがして、やってくる風は全てが穏やかだった。


彼女は美しい。

ウェーブを描いた豊かな紫の髪も、勝気な鋭い目も、乙女の理想が詰まっていた。

なにだかまるで感じの悪いフランス人形みたいで、ど変態が独自の技術で作ったような銀河色の目をしていた。

瞳孔に紫の銀河が浮かんでいるのだ。

それがキラキラ光って、しかし目がなかなか合わない。

シャオさんは向かい側に座っているのに、彼女は不自然に目を背けて小さな声で喋るのだ。

落ち着き払って話しているように見えるが、奇妙な早口で聞き取りづらかった。


外見と所作が全く合っていない。

着慣れない服を着た彼女。

着ぐるみの中には一体どんな女が入っているのやら、というところだが。

シャオさんは「お仕事の話?」とのんびりした声で言った。


「オレ、レコード屋さんで働いてたんだ。お酒とか、コーヒーとかも飲める場所だったんだよ」

「レコード?」

「うん、あの、蓄音機とかね、レコードプレイヤーとかの上でクルクル回るやつ…」

「分かるわよ。そう、音楽が好きなのね」

「うん」

「………」

「………」


シャオさんは試しに、不自然でない程度に黙ってみた。

すると彼女も黙った。

「どんな音楽が好きなの?」とか、「どういうお店だったの?」とか、「勤めて長いの?」だとか、いろいろ言えることはあると思うのだが。


「そう…」


と、沈黙を濁すようにポツッとあらためて言うだけで、他には何も言わない。

それで、ああ自分から積極的に話す子ではないんだなと思う。

多分緊張しているのだろう。


会話のペースは互いに少しズレていた。

彼女は早口で話す。

それは淡々と話しているようにも聞こえるが、ちょっと不自然だ。

染み付いた習慣はなかなか消えないもので、これはきっと前世の癖なのだろう。

話す時に早口になると言うことはつまり焦っているということだ。会話に慣れていないし、何かを話す際、相手に注目されているのが怖いから早く喋り終わりたいのだろう。


自分が話している間は相手に見られている時間だ。

それを無意識のうちに恐れている。

それに話し慣れていない相手、更に美しい異性とくれば免疫がない為、慢性的なパニック状態に陥る。


だから自分が上手く話せているかどうか気になるし、自分にしかフォーカスが当たらない。

人に気を使う程余裕がないから相手にパスを渡せない。

余裕のある人間は相手を観察して相手の嬉しそうな話題を探し、反応が良ければそれを広げる。

会話が苦手な人間は自分に意識が向く為、自分が得意な話題になることを祈る。沈黙が続けばもっと焦って、「つまんない奴って思われてるんだろうな」「申し訳ない、いたたまれない」とやっと相手を見るのだ。

しかしこの「申し訳ない」という気持ちも自己保身からくる為、気の利くカードはいつまで経っても切れないでいる。


これがオタクに優しいギャルが愛される理由かもしれなかった。

カースト上位、学生時代には雲の上だった自分に関わりのない人種がオタクに優しい…

ということはつまり、優しくされたオタクは自分の得意な分野しか話さなくていいのだ。

故に気楽であり、都合が良いのである。

自分の趣味を理解されたければ相手の趣味を理解してからだし、相手の価値が欲しいならまずは自分の価値を上げるべきなのだが。


「……」


シャオさんの喋り方がゆっくりなのは、産まれた時から人に話を集中して聞いて貰えた経験が圧倒的に多いからだ。

彼はどんなにまったりゆっくり話しても、話を遮られることなどなかった。むしろ彼が口を開けば周囲は神経を集中させて話を聞く。

幼少の頃からそれが当たり前だったので、彼が焦ることはない。注目されることに慣れているので自分が話している時間がどんなに長くても問題なかった。

魅力のある人間というのは会話で焦る必要がないらしい。

マリンちゃんやお密、ギラお兄さんが比較的ゆっくり話すのもそのせいである。

チャッキーがボソボソダラダラ話すのは、恐怖で場を支配するのに慣れているからなので、ちょっと別だが。


コモンくんは会話のペースが早く、彼も割と早口で自分を主役に置く癖がある方。しかし滑舌が良いので聞き心地が良く、声も滑らかでカンカンカンカンッ、と畳み掛けるような調子が実に小気味良い。

敏腕な詐欺師や司会のテレビタレントに多く見られる会話の技術なので、あれはどちらかというと現場を盛り上げたり相手のテンションを上げるのに特化したスキルだ。

つまり、さまざまなコミュニティを染めてきた人間だということ。

マしかし相手によって調子を合わせることもできるので、お蜜と話す時は会話のテンポがとてもゆっくりになるのだが。


コミュニケーション能力というのは生まれついたものもあれば、練習やこなす量で恐怖心を捨てられるものでもある。

数学と同じで苦手意識を放置してサボるとできない。

病気や家庭環境など、極端な例に関してはまた今度記載するが。


というわけで、彼女は大貴族のお姫様なわけだ。

ならばシャオと同じように、何かを話せば周囲に集中して聞かれる存在であり、発言に常に意味を持つ人間。

注目されるのに慣れていて、焦るのは相手の仕事だと思う側の人種のはず。

しかしそれが全く備わっていないしできていない。

これが違和感の正体であった。


「なんて呼べばいいんだろう。エリーゼ様…?かな。…あ。敬語も使わなきゃいけないか。ちゃんと分かってなくてごめんね」

「いえ、構いないわ。こちらでの振る舞い方も分からないでしょう。気楽に呼んでちょうだい」

「じゃあ、えっとね。どうしようかな」


シャオさんはジーッと彼女を見つめた。

エリーゼ嬢はちら、と彼を見てから、(なんか凄く見られるんですけど…!?)という顔をして…暫く耐えていたが。


「な。なによ。あまりジロジロ見ないでちょうだい」

「?ごめんね。なんで呼ぼうか考えてて…。見られるのは嫌だ?」

「あ、あまり良い気はしないわ」

「そっか…」


シャオさんはそれを聞いて、「失礼します」と言って立ち上がり、椅子を持ち上げて彼女の隣にそれを置いた。


「え、」


そのまま紅茶だけを持って、隣に座る。

そしてふわふわ笑って、


「お隣さんになればあんまり目ぇ合わないよ」


ちまいお花をふわふわ飛ばしながら、そう言った。

エリーゼ嬢はク、と喉を引き締め、俯いてから「…そ、そう」と小さな声で呟く。

なんだか気が抜けてしまうような感じだ。

シャオさんは自分の美貌で緊張されることが多いので、人の緊張をほぐすのが日常である。

なので丸っこいのんびりした喋り方はそれも起因していた。


毒気を抜かれたようだが…しかし、エリーゼ嬢はこの男がまだ怖くもある。

彼が突然行った、リリス嬢とガロミラ卿への大道芸が脳にチラつくのだ。

あんなものまともな人間がやろうとしてできるものではない。慣れない緊張やプレッシャーで多少セリフに変な間が空いたりつっかえたりしてダラけるだろうし、あんなに空気を張り詰めさせたまま場をコントロールするなんてできないはずだ。

舞台役者のようだったし、物凄く嫌な迫力だった。

彼の独壇場であった。

そんなものを単なるレコード屋の店員が…こんなにまったり話す男ができるとは思えない。

一体何者なのか、という疑念は当然積もっていた。


「ねえ。呼び名は本名の方がいい?」

「え、」

「本当のお名前、なんていうの」

「…ユカ」

「ユカちゃんか。オレシャオが本名だからな…お返しに何も教えられない」

「べ、別にいらないわよ」

「えっと…オレは両効きです。ユカちゃんは?」

「?みぎ…」

「そっか。じゃあ、ユカちゃんの横座る時は左側に座るね。覚える…」


シャオはスマホのメモ帳にそれをちまちまメモして、覚えておいた。エリーゼ嬢はギョッとして、「そんなの、いちいちやらなくても、」と目を逸らして言う。


「仲良くなりたいから…良くなかった?」

「…別に」

「よかった。優しいね」

「…ねぇ」

「うん」

「貴方、凄くモテたでしょう。日本で」

「?モ…」

「モテたでしょう」

「………」

「え。なによ」

「…うんと…。バレンタインチョコ、貰えたことないんだ…」


シャオさんは聞かれて、ズシ…と凹んだ顔を見せた。

そのあからさまな俯いた横顔は怒られた犬みたいで、幼い哀しさである。

ふわふわした髪が片目を隠し、グッとしとやかな印象になるのだった。良い体格をしているのにこうすると弱々しく見える。

バレンタインに苦い思い出があるらしい。

若干本題からズラされたような気もするが、言及はしづらかった。


「だから今年こそっていつも思うんだけど毎年貰えなくて…この世界に来たらもう無理だよね。欲しかったな」

「…貰えなかったのね。信じられないけど」

「ちょうだい」

「え?」

「チョコ。ちょうだい。今がいい」


フ、と突然シャオさんは何かに気が付いたみたいな顔で彼女の横顔を見つめ、真剣に言った。

会話を切るようにトーンを変えて右手を出し、「今欲しい」と唐突な我儘を言うのだった。


「い、今?チョコ?」

「だってオレこのままじゃ一生貰えないかもしれない。今日じゃなきゃ嫌だ。いつとも知れないの、やだよ」

「だからって私なの?可愛い子に貰えばいいじゃない」

「可愛い子にねだってるのに。聞いておいてくれないのは酷いよ」

「…っ、…わ。分かったわよ。はい!」


エリーゼ嬢は茶菓子の中の、チョコレートケーキをスッと彼の皿に乗せた。

メイドの仕事であるが、会話を聞かれたくない為メイドは今下げさせている。するとシャオさんはホワ…とお花を顔の周りに増やし、「え。ほんとにくれるの」と優しく肌へ触るように言った。


「貴方が言ったんでしょう」

「…わ。ありがとう。女の子にチョコ貰った」

「…バレンタインじゃないけど」

「バレンタインだよ。今日は2月14日にしよう。ね、これ本命?」

「義理!」

「義理かぁ…。じゃあオレ今度本命チョコ渡すね」

「な、に言ってんのよ、」

「え?本命には本命渡すでしょ」


シャオさんはケーキを見つめながら、素っ気なくも聞こえるような音階で言った。

もうすでにケーキの方に夢中になっていると言った感じ。その簡単な声は真実味を増してエリーゼ嬢を追い詰めた。隣に座っているので顔を見られる心配はないが、流石に落ち着かない。


「…女の子にそう言って近づくの?策士ね、貴方。私のことなんてどうとも思ってないでしょう」

「?どうして嫌われてるって思いたがるの?オレはあなたのことが好きだよ」

「、…思い込みたい訳じゃなくて…」

「嫌われた時に困らないようにしてるの?」

「………」

「でもそれ、好かれた時にも困っちゃわない?疑うわけだし。嫌われたら寂しいし。ずっと困ることになるんじゃないかな。あとオレも困るからやめてね。信じて貰えないのは悲しいし」


シャオさんはモタモタケーキを食べながら、モタモタ喋った。


「あなたは人に好かれる人だよ」

「…巷では悪女って言われてるわ」

「それはエリーゼ嬢の話でしょ。オレはユカちゃんのこと言ったんだよ」

「………」

「このケーキ美味しいよ。食べる?…たくさんはあげられないけど…オレが貰ったやつだから…」

「…い。いらない。あげたんだからあなたが全部食べて」

「はい」

「む、」


シャオさんは未使用のフォークでチョコケーキを一口取り、彼女の口の前にスッと持っていった。

いつも彼女にしてやっているみたいな自然な仕草で。

唇の真正面、すぐそば。

しかも尚迫ってくるので、彼女はもう咄嗟に慌てて口を開けるしかなかった。

フォークが中に差し込まれ、口の中にケーキが入る。

シャオさんはそれを見届けると目をフ、と自分の皿に落とし、そのフォークをそのまま使ってモタモタケーキを食べ。


「そういえば、ガロミラ卿のことだけど」


と、本当になんでもないやりとりみたいに別の話を始めた。エリーゼ嬢は口の中のチョコケーキを食べながら、口元を隠して押し黙る。

慣れていないから、どう反応して良いか分からないのだ。

それに話が逸れてしまったので、もうこのことについて何も言及できなくなった。


「ユカちゃんはガロミラ卿のこと好きなの?」

「な。どう見たらそう思うの。好きじゃないわよ。あれはエリーゼが好きだった人。私は好きじゃないわ」

「ユカちゃんの好きな人は誰?」

「い……いないわ」

「そっか。じゃあこのケーキは保留ケーキだね」

「なによそれ」

「んと、義理でも本命でもないやつ。本命になるかもしれないから保留ケーキ。大事」

「、…なんなの。私たち知り合って時間も経ってないわ」

「え、うん。だからこうやって一緒にお茶してるんじゃないの?沢山過ごしたいし」

「私のこと、全然知らないでしょう」

「うん。まだ」

「じゃあ好きな理由もないでしょ?」

「え?あるよ」

「あ、あるの?」

「うん。内容を言っても良いけど、言うなら部屋に入りたいかな。あとカーテンも閉めたい」

「は、」

「近寄って言いたいし。言う時はキスもしたいし…それで良いなら部屋に入ろう」

「!、……ッ」


エリーゼ嬢は目を泳がせ、肩を上げた。

何を言って良いかももう分からなかった。

シャオさんはモタモタ紅茶を飲み、シラッとした顔である。

ふわふわお花を出しているばかりで、ふわふわ微笑んでいるばかり。

彼は何も変わらない。

いつも乱されない。


「か、からかってるの?」

「?うん…多少」

「な」

「なんか、怒るの可愛いから。…えっと、グー作ってくれる?手ェ握ってみて」

「?…、え、な。て、手?」

「うん」


エリーゼ嬢は赤い顔のまま、言われて、なんだかその通りにしてしまう。真っ白な手を握って拳を作ってみせた。するとシャオさんはそれをツンと触るように指差して、「そう。そのくらいのサイズの猫に怒られてるみたいでね、なんか、かわいい」とニコニコふわふわ笑った。

彼の下まつ毛がキラキラ光るのである。

彼女は手を握ったまま眉を寄せ、唇を引き結んだ。

もう目は見れなかった。

けれど黙ると沈黙がやってきて、空気に耐えられない。だから必死に考えて、今とは全く関係ない話に飛びつくことにした。


「り。…リリス嬢、の、ことだけれど」

「うん」

「ほ。本当に繋がってたの?あの時…色々、言ってたじゃない」

「ああ、アレ?…なんか、ユカちゃんが困ってたからやっただけ」

「…だとしたら凄いわ。昔芝居でもしてたの?」

「ううん。そう見えたんなら上手くいったんだね。褒めて貰えて嬉しいな」

「本当にうまかったんだもの」

「嘘つきって思った?」

「え、」

「嘘つきな男嫌い?」


エリーゼ嬢は困ってしまった。

だってどんな会話にしても、結局エリーゼ嬢の話にされてしまうから。彼はきっと政治の話をしても天気の話をしても、エリーゼ嬢の話に上手くすり替えてしまうのだろう。

その癖自分の話はあまりしないのだ。


「…き。嫌いよ」

「そっか…。なら、やめた方が良かったね」

「あの場合は別よ。だって、庇ってくれたんでしょう。傷つける嘘じゃないわ」

「え?でもあなた以外のことは傷つけるウソだったよ」

「、…」

「マァ、リリス嬢がそもそも嘘をついていたんだろうし…一番の被害者はガロミラ卿かな。証人もいるから信じちゃったんだろうね」

「………」

「わかった。ユカちゃんを守る嘘なら良いんだね。ならユカちゃんには嘘付かないよ、オレ」

「信じられないわ」

「どうして?」

「まだ知り合ったばかりだもの」

「そうだね。これから沢山会おうね。理由ができて嬉しい」


ニコ、と優しく笑った。


「一応もう一回聞くけど、このケーキって義理?…本命?保留?」

「ぎ。義理よ」

「え?」

「え、」


シャオさんはそれを聞いて半笑いになって、グッと顔を近付けた。顔を傾けて彼女の目を見て。わずかに上からグ、グ、と近づけて行く。

彼女は電気を流されたみたいに肩を跳ねさせ、目を限界まで逸らして「え。あ」と視線の置き場も心臓の落ち着ける場所も失ってしまう。

シャオさんは「なに?」と顔をくっ付けるほど近づけて、瞼を半分おろした。

その時、視線を下にしている彼女は。

彼の首のあたりにチラッとタトゥーが見えた。

首から胸にかけて入っているような…黒いタトゥーだ。


「ぁ、ほ。保留!保留よ、」


慌てて言った。

これ以上は死にそうだったから。

シャオさんはそれを聞いても離れない。

なのでパニックになって、「本命に、なる、かも、」と懸命に言う。

拷問された娘みたいに、許されるために言葉を紡いだ。

するとシャオさんは黒い目でやっとマバタキをして、このまま眼球でも舐めてやろうかと思ったが。

妥協して瞼にゆるくキスをした。

そして「ふふ」とお花を飛ばして笑って。


「ひ、!?」


彼女の座っている椅子の背もたれを片手で掴み、グイッと後ろ側に押す。そして前に引き、後ろに押してグラグラ揺らし。


「あは、

は、

は、

は」


と、ケラケラ笑った。

エリーゼ嬢は完全に固まってしまって、胸の前で握った拳を揃えて小さくなっている。彼を見上げて、目を見開いていた。

彼は片手で、手の甲を唇にくっ付けるようにして口元を隠してジョークに笑う若い娘みたいにくすくす笑う。

椿のようだった。

強烈で綺麗だった。

あでやかで目が離せなくて、キュンとするような嫌悪と媚薬みたいな恐怖があった。


「かわいいね!」


シャオさんは蹴っ飛ばすように言った。


「、…」


彼女は彼の大きな手が、優しいのか、怖いのか分からなくなってしまった。撫でられた手で突然穴に突き落とされた気分だ。

彼はニコニコして、ふわふわして、背もたれから手を離し。

笑いの余韻を引きずったまま彼女を見つめ。


「沢山会おうね。これから」


と、片手に包丁を隠しているみたいに優しい声で言ったのだった。






【おっさん勇者、治安維持のために近所のダンジョンを攻略してたらそこは世界最高ランクのダンジョンだった。〜オレが王都の姫様の旦那候補?いやいや、オレはおじさんなんでなぁ〜】

難易度:★★★★⭐︎

→チャッキー・ブギーマン派遣済み




「コンチワーッ」

「、」


おっさん勇者はダンジョン攻略中だった。

ここは聖騎士たちでも苦心するようなダンジョンである。

が、おっさん勇者にとっては初級のダンジョンレベルとしか思えないようなモンスターしかおらず、弟子にしてくれと懇願してきた〝超絶美少女剣士〟とダンジョンをゆるく攻略していたのだが。


洞窟の奥から元気な挨拶が聞こえ、顔を上げた先。

そこに居たのは、黒いスーツを着た、下駄を履いた男だった。嬉しそうに笑っている黒い狐の獣人。

美男なのだが、ボサボサのウルフカットとドロっとした泥濘の目がその美貌を台無しにしている不気味な男である。

そんな男が壁から迫り出している巨大な岩に立っていて、岩肌に片手を付いてこちらを見下ろしていた。

気さくに手を振られ、おっさん勇者は眉を顰める。

なんせ、彼が丸腰であったからだ。


「…おい。アンタ、危ないぞ。こんなところで1人…」


か。


言おうとした瞬間。

フ、と目の前にその男が立った。


「、」


先ほどまで遠く向こう、岩の上に立っていたのに。

身長は189センチ、塔のように高い身長と肩幅のせいで実際よりも物凄く大きな印象与えられた。


「コンニチハ、タナシくん。チャッキー・ブギーマンです。気軽にチャッキーくんって呼んでネ」

「ぁ、な」

「タナシくん。冒険の邪魔してごめんね。今日は楽しむべき日だったのに、日曜日は楽しい日なのに。本当に悪いと思ってる。謝罪と挨拶のためにスーツを着たんだよ。これで許してくれるよね。友達になれる?なろう。だって日曜日は楽しいことしか起こっちゃいけない日なんだから」

「……は?」


チャッキーと名乗った男は、勇者の目をジーーッと見つめて低いガサガサした声で言った。

何を言っているか全く分からなかった。

距離感もおかしいし、視線も変だ。

勇者は意味が分からなくてただチャッキーを見つめることしかできなかった。

奇妙な沈黙。

洞窟の反響。

マバタキをしない狐。

一体何が起こっているのか理解できなかった。


「っ。お師匠さま。ここはわたしが!」


つまり、美少女剣士の方が反応は早かったのである。

彼女はあまりにも不審なチャッキーを敵と判断、剣に金の光を纏わせてチャッキーの手を振り払う。

そしてドンッ、と黒い狐の獣人めがけて飛び出し、剣で胸を突こうとした。


「マァ聞けよ」


が。

その剣は確かにチャッキーの胸を突こうと触れたが。

彼の体に触れた瞬間、剣が〝腐って〟崩れ落ちた。

放置して数年経った果物みたいに柔らかくなって、ボトボトボトッと床に落ちたのである。

腐り落ちた剣の断面からウジが湧いて飛び出し、地面を這った。

美少女剣士は当前に動揺し、地面へギョロ、と大きな目を向ける。


「オレ、今日が初出勤なんです。パーティを組んだんだけど…3ヶ月経ってやっとスタートアップの段階なんです。初めてって緊張するし、ワクワクするよね。失敗したくないなって気合が入るよね。つまりオレは気合が入ってるんだ。なんせ大事な仕事を任せられたんだもの。男の子だし、良いところ見せたいって思うよネ〜〜…」

「…アンタ、何者だ」

「チャッキーくんです、コンニチハ。そろそろ挨拶返してくんねぇかな。オレだって傷付くんです。無視されると」

「何しにここに来た?」

「そりゃ、タナシくんを殺しにきたんだよ」


狐が言った。

これは疑いようもない決定打だ。

おっさん勇者はその瞬間、剣に強大な魔力を流し込み、紫に剣を光らせて彼の首を取ろうとした。

ヒン、と剣が空気を割く音が反響する。


「キャッ!?」


が、チャッキーは片手で美少女剣士の髪を引っ掴み、自分の身代わりにしようと剣先が当たるようにした。


「っ、」


流石に勇者の剣は寸前で止まる。

美少女剣士の首ギリギリで止まり、彼は攻撃体勢のまま無理矢理停止した。


「おお、ビックリした…。普通に会話してるんだから普通の態度をとって欲しい。友達になんてことするんですか」

「、ユリアナを離せ。何が目的だ」

「マァそれはコッチの勝手なアレなんで…」

「答えろ」

「そっちが会話を中断させたのに。男の人っていつもそうですよね。ヤになっちゃう…」

「答えないのか?」

「お、お師匠さま、」

「ウーン、じゃあ答えないでおこうかな。無理やり吐かせてみてくれ。オレと遊ぼう。トランプとかオレ強いよ」

「そうか。吐かせた方が早いんだな?」


おっさん勇者は彼が到底話し合いの成立する男には見えなかったし、実際にそうだ。

よって「ユリアナ、逃げろ」と美少女剣士へ言って炎の刃を背中にいくつも出現させた。

無詠唱魔法、それもかなり高度な大型魔法だ。

三人の顔が炎に照らされ、ダンジョンが一気に明るくなった。

チャッキーは「あ、もう熱いや」と顔を顰める。

巨大な火の塊は当然出現するだけで熱いのだ。それに煙も立ち込めるため、当然換気の悪いダンジョンの中では一酸化炭素中毒になりかねない。

地下に続く洞窟なのだ、酸素の薄い場所もあるに決まっているのに。

「コイツバカだ」とチャッキーは嫌そうな顔をして目をしょぼしょぼさせた。煙が目に沁みたのだ。

美少女剣士を助ける為なら、そんな危ない魔法は使っちゃならんと言うのに。

闘いはカッコいいだけじゃ成り立たないし、頭を使わない殺し合いなんてこの世にないのに。


「アブネッ」


忠告なしに勇者はその炎の塊をチャッキーへ…剣を振り下ろすことで集中砲火した。

チャッキーは「そんな急な、」という顔をして美少女剣士をお姫様抱っこしてひとまず上へ高く飛んだ。

煙が上に充満するため上には逃げたくなかったが仕方ない。

すると当然もう目の前、彼と同じように飛翔した勇者が剣を振り下ろしている。チャッキーはそれを寸前で避けて、思い切り美少女剣士を地面へぶん投げた。


「ユリアナ!」


勇者は守るものが多い。

当然彼女を守るために…地面に落ちる前に魔法を放ち、彼女の落ちた先にクッションとなるような草花を出現させた。

チャッキーは彼の気が逸れた瞬間を見逃さず、右手を振り上げて。


「あー、ナイスショット」

「ッブ」


バチィン!と思い切りビンタをした。

そして下駄の音を響かせて地面に着地。

サリ、と手の甲を舐めて、「苦心した…」とよれた声を出すのであった。

ビンタされた勇者は空中で体勢を崩したが、さすがに着地は無様に転がるわけでもない。

なんとか立て直して着地し、剣を構えた。

勇者の名は伊達ではない。

見事な身のこなしであった。


「タナシくん。炎魔法を使ったらちゃんと火の後始末をしねぇと。これ魔放火罪に該当するぜ」

「人の弟子を投げておいてよく言えたな」

「それは本当にそう。反省してますしあとで改めて謝罪します。メロンとか持っていきますんで…」


チャッキーは炎魔法の残骸、まだバチバチと空気を鞭打つような音を立てて燃える火へチンケな水魔法をかけて消火した。

ツンと火が消えた際の匂いが立ち込め、黒い煙に美少女剣士はコンコン咳をした。

ついでに空気の循環を魔法でしてやれば、ホッとするほど息が吸いやすくなる。

このまま放置していれば本当に危ないところだ。

チャッキーは胸を撫で下ろし、良いことしたなぁと流れた汗を拭く。

そしてチカチカッと片目を金色に光らせて、


「さて、無理やり吐かされたってことで話そうと思うんだが」

「…は?」

「タナシくん。今のオレへの暴力は転生法第26条1項、女神に対する威力業務妨害罪に該当する。1500年以下の開拓地への懲役又は680BKの罰金だ。魔放火罪の疑いもあるからもっと行くかな。マァ詳細は追って監査局から通知が来るんで、そこで対応してくれ」

「───は?」

「普通に話してくれたら楽しい日曜日になったのに。オレは友達になろうとさえ言ったのに。残念だなぁ。ハハ…は、…はぁ、はは…」

「め。女神。アンタが?」

「はい。そうですが」

「バカ言え。そんなわけ、…。…あ。アンタも、ユリアナに手を出したじゃないか、」

「やだな、正当防衛だろ。怖くて咄嗟にってやつだ。適応範囲内だぜ」

「お。オレはアンタが女神だって知らなかった」

「その理屈じゃ知らなかったら殺人をしても良いってことになる。知らなかったら物を盗んで良い、放火して良い虐待して良い。いやぁ、そりゃ無理があるね。オレは知っててよくやりますが。お母さんに顔向けができない。マァ正月は必ず実家帰るけど」

「て、転生法違反?嘘だろ」

「予想外はいつも突然だ。転生したのも突然だったろ。人生はサプライズの連続だよ」

「か。開拓地。…?」

「なんかごめん。司法に頼っちゃって」


おっさん勇者は脳の裏側がスーーっと冷めていくのを感じた。軽かった剣が2度と持てないほど重たく感じる。

けれど胸中は「どういうことだ」「何が起こってる」と混乱状態で、彼の言葉を正しく受け取ることができなかった。

脳みその中の血が動く音以外、上手く聞こえなかった。


「人生って何が起こるかわからないね。一緒に頑張ろうタナシくん。剣より法律とか権力の方が強かったりするから大変だけど、勉強すれば今からでも遅くねぇよ。開拓地行きになったら精神的なショックで文字読めなくなるらしいけど。でもゼロからレベルアップをまたやれば良いんだと思う。ちなみにオレは今無責任かつ適当に喋っています」


彼はバシ、バシ、と自分の頭の後ろを叩きながら喋り。

それから。

ズズ、カラン。カラン、ずず、カロン、と下駄を引き摺るようにして歩き、美少女剣士の前にしゃがんだ。

そしてジーーッと顔を眺めて。


「…あ。お構いなく。好きな男が開拓地送りにされる時の女の顔が見たいだけなんで」


と、ダンジョンの魔物みたいな声で、

真っ白な無表情で言ったのだった。




◽️




「猫っ毛……」


お蜜はソファにうつ伏せに寝転がったギラ兄さんの髪の毛とやわこい猫耳を夢中で撫でていた。

彼の髪はぱっと見普通に見えるが、触ると猫と全く同じ手触りをしていた。

獣人になると頭髪が動物の体毛とほとんど変わらなくなるのだ。よってギラお兄さんの髪の毛はふわふわして気持ち良く、暖かい。

チャッキーは犬っぽい毛なので猫より少し硬いが、しかし動物を撫でているのとそこまで変わらないのでたまに撫でたるのである。


撫でられているギラお兄さんは延々スマホをいじっていた。

遊んでいるのではない、仕事である。

…激務である。

彼の携帯はずっと通知が鳴り止まなくて、5分に一回電話がきていたし、またどこかに電話をかけたりメッセージを送ったりとひっきりなしであった。


『ハロー狐さんです。タナシくんのクエストを終えました』

「あ了解す。お疲れ様です。じゃ今日上がりで良いすよ」

『マジ…?まだ午後だけど。暇だしそっち行って良いか?』

「全然いいすよ。失礼します」

『はいよ』


チャッキーからのコール。

ギラお兄さんは通話を終えてスグに「川田さーん!ちょっといーっ?」と寝っ転がったまま大きな声を出した。


「はい、はい」


川田さんは呼ばれてスグに汗をハンカチで拭きながらこちらにやって来てPCを開いた。


オドロアンは基本的にだらしなく、窓を開けたら開けっぱなし、物を出したら出しっぱなしの性格なので…川田さんも出したら出しっぱなしなのだ。

彼はオドロアンの召喚獣である。

お蜜に「もう、川田さん出したら出しっぱなし!」と怒られたけれど、もう言っても治らないので糸クズたちは川田さんをだんだんパーティメンバーとして受け入れ始めた。


彼は皆が苦手な書類関係や役所手続き、重要書類の整理などの事務的な作業を任されているのである。

川田さんは案外任せれば手は遅いけれどキッチリやる性格で、案外完璧に管理できるし細々した数字の処理も得意だった。

よって糸クズ達の苦手を一手に請け負ってくれたのである。


昔はお蜜に書類関係を任せていた。

魔法カスタムの申請やレベルアップした際の免許証更新など、糸クズ達はどんなに自分たちで頑張ってもできなかったから。

細かい文字をたくさん見ていると具合が悪くなるし、何回読んでも理解できない。

女の子への連絡以外マメに処理できない男ばかりだった。


なのでコモンくん達はお蜜に土下座をして、「コチラの書類手続きをして頂けないでしょうか」「代わりに椅子になります」とお願いしたのである。

お蜜はちょっと困りながら、「んと…じゃあ、そうしてくれる?」と言って床に蹲ったコモンくんの上に座り、ダイダラをテーブルにし、シャオさんとギラお兄さんに大きな葉っぱでゆっくり仰いでもらい、オドロアンに紅茶を淹れてもらいつつ手続きをしていた。

「火。」と言って葉巻に火を付けてもらい、「目を楽しませろ」と言って舞わせたりしながら仕事をしていたのだが。

この度それらは川田さんの仕事となったのであった。

これにより糸クズ達は作業効率が上がり、かなり機動的に動くことができるようになったのだ。

まだまだ手は足りないが、理想的な職場である。


それに糸クズたちは川田さんが「頼れる」と知ってから、かなり友好的に接し始めた。

学校の先生みたいに扱い始め、暇な時があれば「ねー川田さん聞いて。オレこの服買うか靴買うか迷ってんだけどさ」とどうでもいいことまで聞くようになる始末である。

買い出しに一緒に行ったり、仕事の相談を受けたり、「川田さんって結婚してたの?」と恋愛についての話題を振られたり、食事を共にしたり…と、微妙に懐かれ始めたのだ。

もはや正ヒロインの位置である。


占い師は興味があって彼のタイトルを占ったのだが、出てきたのは【ハーレムを期待して転生したおっさんなのに、チートドS系イケメンの逆ハーでスローライフになるなんて聞いてない。〜「オレら川田さんいないともうダメかも」〜】だった。

普通はお蜜かマリンちゃんがこの位置のはずなのだが、物事は蓋を開けてみないと分からないものだ。

マァ糸クズたちが人に役割を与えるのが上手いというのもあるのだが。

何はともあれ、川田さんは異世界にて居場所を見つけたのである。


「川田さん、チャッキーさんの仕事終わりました」

「あ、はい。はい、分かりました。次のタイトルメールで送っておきます。難易度は4当たりがいいですよね」

「あざす。そすね、難易度はまだ固定で。オレにも一応派遣先メールで送っといてください。あ、コーヒー淹れるけど飲む?」

「あ、い。頂きます」

「ん。つか川田さんこれポイしていい?」

「どれですか?」

「え、この辺の書類。邪魔なんすけど」

「あぁもちろん。もう不要になりましたので、」

「うぃ」


スル、とギラ兄さんはお蜜の手を抜け、コーヒーメーカーの前に立って人数分のコーヒーを淹れた。

お蜜はブラック、川田さんはミルクだけ、自分は砂糖とミルク入り。

それを持ってきて置き、タバコに火を付けた。


「ありがとうございます」

「ん」

「がとね(ありがとうね」

「んー」


お蜜は淹れてもらったコーヒーを嬉しそうに飲み、


「っ、」


苦さに驚いてから目をバッテンにして「どく!(毒」と口を押さえた。

彼女は甘くしないと飲めないのだ。

ギラ兄さんはそれを知っていてわざとブラックにした。

からかったのである。


「ギラくん、」


わざとやったわね。

痛め付けられた小動物の顔で彼を見れば、ギラお兄さんは深くソファに座って背もたれに頭を乗せ、煙を上の方に吐いてから、上を見たままベッと舌を出した。

その舌にはニコちゃんマークのタトゥーが入っていて、人を揶揄うのには打って付けである。

お蜜は悔しくなって「キィ」と声を出した。

が、残念ながらギラお兄さんの携帯へ着信が来て、怒ることができなかった。


「…ん。あ、はい。ヴォイニッチっす」

『あもしもしギラニキ?今エニグマさんといたんだけどさ。やっぱ監査局抑えなきゃダメ感あるわ。なんか監査局の中で一番影響力あるのがLLって人らしくて、今後その人調べた方がいいかもしれん。取り急ぎ報告でした🫡』

「おっけ、監査局…局長スか?そのLLって人」

『そそ』

「了解っす。調べます」

『ウィス』

「アス」


ギラ兄さんは通話を切って、スグに闇市の友達、ラスネールに電話をかけた。


「もしもし、ヴォイニッチだけど」

『ハイお疲れィ。どしたん』

「調べて欲しい人いてさ。監査局長のLLって人わかる?その人と仲良くなりたいんだけどなんか知らん?」

『待った監査局は勘弁してくれ。専門外だ。秘密警察に攫われる』

「マジか。危ない?んー…あー、分かった。どこもそんな感じ?」

『多分無理。知ってても売ってくれない。監査局の中入んねえと分かんねえよ』

「了解。じゃ…んー、なんとかするわ。お疲れ」

『ごめんな〜空振りで』


ギラ兄さんはスーッと歯の隙間から息を吸い、着信を切ってスマホを眺めた。

ラスネールでも無理か…と少し悩んでから渋い顔でダイダラに電話をかけてみる。

ダイダラはいつもワンコールで電話に出るのだが、最近は忙しいようで連絡がつかない。

常にいつも家の中にパーティメンバーがいるわけではないのだ。

全員忙しいので、基本的に最近は全員が揃うのは稀である。


『オウ。どうしたよ』

「あ、出た。お疲れっす。スマセン忙しかったっすか」

『いや暇してたわ。悪ぃな最近バタバタしててよ。バギースモーカーに捕まっちまってて』

「えっ?なんすかそれ」

『おおなんか…仲間やっちまったから捕まってたんだわ。暫く小せえ箱ン中閉じ込められて殴られる時だけ出される生活しててよ。死にかけてたらよく分かんねえトコに売られちまって。んで結果なんか色々あって…話長くなっからハブくけど…マァなんか買われた先と仲良くなって出してもらったんだわ。今パン屋のイートインでピザパン食ってた。ピザパンってダメだわ、オレコレ食うなら次からピザ食うって今決めた』

「その話ゲロおもろいんで今度詳しく聞かせてください」

『いいよん』

「じゃあ暫くずっと監禁状態だった感じっすかね。そりゃ忙しいわ」

『死にかけてたわ。ワリ。ダイダラくんはトラブルメーカーなんだ』

「や、だいじょぶっす。無事でよかったっすよ」

『ンで何?要件』

「あー、やなんか。オドロアンくんから監査局長について調べて欲しいって言われてて。ワンチャンなんか知ってないかなと思って連絡したんすよ」

『監査局長?名前何?』

「LL?さん?って人っす」

『LL?…』


電話の向こうは平和な喧騒が聞こえていた。

パン屋のおだやかな声と店内BGMが薄く聞こえる。

ダイダラが背もたれに背中を押しつける椅子の軋む音、唐突な沈黙。


「…もしもし?」


突然に彼が黙ったので、不審に思って声をかける。

するとダイダラはもう少し黙ってから、


『神様どうかあの人が監査局長じゃありませんように…』


と、物凄く小さな囁き声で言った。

彼は椅子の背もたれに背中をより掛け、テーブルに足を上げていた。

そしてイートインから見える店内のパン売り場にて。

トングをカチカチさせながらクロワッサンを買うかどうか迷っている男を見つめている。


その男の身長はおよそ230センチ。

クラシカルなスーツを着ていて、頭は真っ黒な煙であった。

バギースモーカーと違う点は、煙が丸くないところ。

空っぽの首から黒い煙がドロドロ加湿器の水蒸気みたいに湧き上がっては床に流れていて、形をとどめていない。指は合計11本あって体格に合うよう巨大であり、黒い皮の手袋を付けている。

そして。

スーツの胸に、幼稚園でつけるようなチューリップの名札を付けていて、そこに「えるえる」と丸っこいひらがなで書いているのであった。

…ギラ兄さんが言った名前と該当していた。


そんなスレンダーマンみたいなバケモノが首を傾けてドロリと立っている。

ダイダラはそれをジッと見ながら「絶対にアレが監査局長じゃありませんように…」と小さな声で天へ祈っていたのだ。


「え、なんすか?いるんすか?!監査局長っぽいの」

『っぽすぎる…あれが監査局長だったらオレはこの〝盤上〟(ゲーム)を降りる…』

「えそんな怖そうすか?ゴツい感じすか?話しかけてください」

『バカお前無理に決まってンだろ…そんな命知らずなことできるかよ…!あのー、スマセンLLさんって言うんすか?オレダイダラって言うんすけど友達待ってたらドタキャンくらったんで一緒に飯食いません?笑』

「話しかけた!!!」


ダイダラは汗をかきながら、しかしここで引き下がって何もしないのはノリ的に何も面白くないと判断して結局話しかけた。

ボケるなら今だと思ったのだ。

この男はボケるためなら命を捨てられるのである。

というわけでサングラスを外してなんとか見切り発車で話しかけてみたのだが。


『…おや。それは悲しいですネ。私でよろシければご相伴に預かりマす』


カチン、カチン、とトングを鳴らし、バケモノはそう優しく返してくれた。

その声は機械を通した音声みたいで、人間の声ではない。

人工的に作った男の声みたいで、その声は胸板の辺りから聞こえていた。

機械の不思議なイントネーションである。

それがガサガサ電子音に紛れて聞こえるのであった。

そして加湿器みたいに出っ放しの黒い煙がフヨフヨ動き、ニッコリした笑顔を作る。

子供の落書きみたいに単純な笑顔だが…しかし、煙が作っているので、目の端や口の端はドロドロ輪郭が解けるように蠢いている。よって血液で壁に描いたニコちゃんマークみたいで本当に怖かった。


『LLです。よろしクお願い致しマす』

『あす笑』


恐怖で半笑いになったダイダラは汗だくになりながらヘラヘラして、後頭部をさすった。


『メシ奢ります』

『おや、これハ嬉しいでスね』

「任してくださいよ』


引き笑いのダイダラの声と一緒に、そこで電話は切れた。

そして少ししてから、「頑張るわ👍」とのメッセージだけが送られた。

頼もしいことだし、それは遺書のようにも見えた。

ギラお兄さんはジッと画面を見つめてから、「お蜜さん、マジすません。あとで殺してください」と言ってお蜜のおっぱいを拡大した写真を撮った。


「お…?」


突然体を撮られた彼女はびっくりしたが、ギラお兄さんは間髪入れずそれをダイダラさんに無言で送った。

最後に服越しでも女神のおっぱいが見れたら、悔いなく死ねるかもしれないと思って。


『ありがとう…』


ダイダラから震える声のボイスメッセージが届いた。

これから戦争に行く人のしわがれた声だった。


「すません。あの人、最期だと思うんで」


聞き届けたギラお兄さんは、その瞬間ビッ!とお密に頭を下げた。お蜜はそのやり取りを見て、成程…と瞬間的に事情を察し。

ちょっと考えてから、


「私、よければマイクロビキニとか着ますよ」


と、物凄い提案をしてくれた。

全てを理解した上で協力してくれようとしているのだろう。


「肌とかを…こう、火照らせて、身をくねらせたりします。えっと、アイスの棒をこれみよがしに溢しながら舐めたりすればいいのよね」

「お蜜さんそこまではコモンくんにカチ殺されるんで大丈夫っす。マジありざす」

「ほんと?入用ならいつでも言ってね」

「い、いつでも…?…ガチ…?それオプションとか付けれます?」

「ふむ…内容次第ですね」

「今度交渉します」

「そうしてみてね」

「あざす!」


お蜜は自分のふしだらな写真が糸クズのモチベーションになり、重要な価値を産むことを正しく理解しているようだ。

触られなければ特に問題はないらしい。

この娘のほのかなナルシズムと思い切りの良さには毎度助けられることだ。


さて、LL、監査局長はダイダラが担当してくれた。

難易度に関しては最早計り知れないが、あの男ならきっと死ぬかなんとかしてくれるかの二択だろう。

連絡がつかなかったら新しい男を日本からスカウトしてくれば良い。最早ここまでくれば減ったら足すだけなのだ。

あの男ほどの人材が2人といるとは思えないが、多分コモンくんなら数秒もあれば捕まえてこれるだろう。


チャッキーもクエストを終えたようだし、コモンくんも昨日仕事を終えたらしい。

あとは現在進行形でシャオさんが悪役令嬢のクエスト処理中だが…。


「お疲れ様ですヴォイニッチです。シャオさん今どうなってます?」


電話をかけてみた。

するとシャオさんは「あ、ギラくん、」とふうふう息を乱しており、「えっとね、」と優しい声で言ってから。


『ガロミラ卿っていう侯爵様がいるんだけど。今終わったよ。待って、動画送るね』


と。

穏やかな声が聞こえた。

すると動画がシャオさんから送られ、見てみると。

半裸で布団に包まれ、ふうふう言いながら赤い顔で寝ているガロミラ卿を背景に、はだけた服でニコニコピースするシャオさんが映っていた。ガロミラ卿の隣には聖女・ラーラ様がほとんどおっぱいが出た状態でガウンを着て、画面に向かって投げキッスをしてくれている。


…落とした。

悪役令嬢ではなく、先にガロミラ卿を。

ラーラ様と2人がかりで。


『これで動きやすくなった』


彼はそう言って、「聖歌」という銘柄の煙草にガチッと火を付けて笑った。


『ユカちゃんとリリスちゃんは時間の問題だから、あとは他の攻略キャラクターかな。頑張ってみるよ』


悪役令嬢だけでなく、やはり彼は全てを落とすつもりらしい。人数は多い方がいいだろうと。

ギラお兄さんは「了解す笑」と右肩をカク、と落として笑った。


全員あまりに仕事が早すぎる。

いやはや全く、頼もしい仲間たちであることだ。



「………」


コモンくんから大型犬用の首輪をつけられているペットの占い師は、それを部屋の隅からじっとりとした目で見つめていた。

そしてコッソリとギラお兄さんのお蜜の目を盗んで、占いの結果を書き換える。

占ったタイトルの上から、嘘のタイトルを書いたのだ。

これで難易度を誤魔化して誤った情報で派遣すれば、きっと糸クズの誰かがチート勇者の犠牲になってくれるはず、と。思った、のだが。


「ッぎゃ」


こちらに背中を向けていたギラお兄さんが、おもむろにポケットから拳銃を出し。

ズガァン!!と天井に向けて突然発砲した。

そして首を傾けてカリカリ頭を掻いてから。


「にゃーん。」


と半笑いで言った。

占い師は鳴り響いた発砲音に、耳を塞ごうとした半端な格好で固まる。


…別に彼は、悪魔的な勘の鋭さで占い師を止めたわけではない。

コモンくんのつけた首輪には発信機が付けられており、占い師が悪事を働こうとすると通知がギラ兄さんのスマホに行くようになっているだけだ。

これはギラ兄さんが「一応」と言って作った見張り用の監視システムである。

故に、今のは脅しの発砲であった。


占い師は真っ黒な顔で俯いた。

彼はどうにももう逃げられそうにも、復讐のしようもなかったのである。







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