第24話

不思議だ。

ベッドに寝転がりながらどこかぼやーとした気持ちで天井を見上げる。

【月夜の森】から戻る時は頭がぐらぐらするぐらいに疲れ果てていたのに、今ようやく横になれたにも関わらず眠気が訪れない。睡魔が遠ざかってしまったようだった。手をゆっくりと掲げると、千紘くんの手の温もりが思い出されて、思わずさっと布団の中に閉じ込めた。ひんやりとした空気にさらしておくと、すぐにその温もりが消えてしまいそうで怖かったからだ。

早朝、男の子と手をつないで人気のない歩道を歩いたことなんて自分の人生では一度も経験したことのないことで、むしろ悪いことをしたのではないかという罪悪感に支配されていた。でも、とても言葉では表現できないほどの高揚感に包まれていた。

いつもは冷え性で足先が冷たいはずが、じんわりを熱を持っているようだ。それを分散させるよう、私は布団の中で卵のように体を丸くして足をバタバタとさせる。

でも、むしろ顔までかっかと熱くなってしまったようで、ぷはぁと布団から顔を出した。息が止まるかと思った。

両手で顔を覆い、すーはーと大きく息を吸う。大丈夫、呼吸は出来ている。

少し布団の中で動いたらぼんやりとした睡魔が襲ってきたようだ。段々と瞼が下りてくる。下りきる前に、小さく笑った千紘くんの顔が脳裏に浮かんできた。

おやすみなさい、千紘くん。


目を覚ますと、空が赤と紫が溶け込んだような色をしていた。

時計を見ると、もう夕方4時を過ぎていてびっくりした。9時間近く眠っていたようだった。いつも以上に寝ていたので首が少し痛かったが、すっかり眩暈も取れていてすっきりしていた。また今夜の勤務も頑張れそうだ。

ぐーとお腹が鳴り、6時に千紘くんと少しのサンドイッチとコーヒーを口にしてから何も食べていないことに気が付いた。

夕ご飯まではまだ早いので、母もまだ準備はしていないだろう。普段はやらないことだが、お菓子などを貰えないか話してみようと部屋のドアを開けると、階下で話し声がした。声が筒抜けだったので、リビングではなくて玄関で話しているようだった。

ゆっくりと手すりに掴まりながら下に下りると、ふわっとした普段嗅がない香りがした。どこかで嗅いだことのある匂いだった。

階段を降り切る前に、少し手すりに掴まったまま下を覗き込んだ。母は眼前の女性に何か強い口調で話しているようだった。胸までの栗色の髪を垂らし、ラベンダー色のスーツを着こなしている。ファー付きの白いコートは脱いで腕に抱えているようだった。

「……仲林有沙さん」

私の声に気付いたか、仲林さんはふいに視線を上げた。視線が合うと、にっこりと微笑み会釈した。私が固まったままそこに立っていると、母も気づいたようで後ろを振り返った。

「―――雫、起きていたの?」

「夕方に押しかけてごめんなさい。雫さんと少しお話ししたくてお伺いしたんです」

「だから、雫はあなたと話すことは何もないと言ったじゃないですか。お帰りください」

「母さん、待って」

雫は手すりに掴まりながら下りると、ゆっくりと母の隣に移動した。

「仲林さん、私もあなたに訊きたいことがあるんです」

「……雫?」

「どんなことかしら?」

「先日、病院であなたを見かけました。5階の脳神経外科で」

母は息をのんだようだったが、仲林さんは笑みをたたえたままだった。

「……ここでお話しするのもなんですし、少し場所を変えましょうか?菜月さん、雫さんを少々お借り出来ますか?」

「ちょっと―――」

「母さん、すぐに戻ってくるから。ちょっと待ってて」

母は心配そうに私を見つめている。

「菜月さん、私がここに来たのはあの方の命ではないんです。だから、きちんと雫さんはこちらにお返しします。安心してください」

仲林さんのその言葉に、母は少し胸を撫で下ろしたようだった。そして、「分かりました」と小さく呟いた。


仲林さんの背中を見つめながら歩いていると、今まで黄緑やピンク、そして今日はラベンダー色と毎回淡い色のスーツを着ていることに気が付いた。

私は黒色の服ばかりなので、綺麗な色を自分の色として着こなしている仲林さんがとても羨ましく、眩しく思えた。私は自分に合う色とか分からないので、何にも染まらない色を選んでいるに過ぎない。

「雫さん、ここからすぐのところの喫茶店に入ってもいいですか?長年一人でやっているマスターがいるお店で、コーヒーがとても美味しいんです」

「コーヒーですか?飲みたいです」

今後の研鑽のためにも、と口にしそうになり慌てて口元に強く力を入れた。

淡いベージュの壁の喫茶店は、目立った看板などは出しておらず、小さな窓のところに「喫茶 トーヘンボク」と黒い木の板が貼られているだけだった。地元の人だけが知る喫茶店、というところだろうか。

「トーヘンボク、ですか?」

「そう、唐変木。喫茶店に付ける名前じゃないですよね。数年前に亡くなった奥さんと喧嘩した時によく言われた言葉だとか」

「……そうなんですか」

扉を開けると、一組の男女が談笑している以外にお客さんはいないようだった。カウンターにいるマスターと思しき初老の男性は、白い髭を口元に蓄えていて威厳ある風格をしていた。

「マスター、奥の席、借りますね」

マスターは小さく頷くと、片手でどうぞとばかりに促した。私はぺこりと一礼し、仲林さんの後を着いて行った。

窓際の席は大分奥まっていて、半個室のように周りにあまり話し声が聞こえないような作りになっていた。日が十分に差し込む小窓があり、ほんのりとした温かさが感じられる。

「……一人になりたい時とか、何かをじっくりと考えたい時とか、ここに来るんです。多分、あの方もここを知らないと思います。だから、思ったことをここで話してください。答えられる範囲にはなりますけど」

「あの、早速なんですけど、仲林さんも誰かのお見舞いであの病院にいらっしゃったんですか?」

「そうですね、まず、仲林さんはちょっと堅苦しいので有沙とお呼びください。それと、まずはここのコーヒーをお願いしましょうか?雫さんは、何にしますか?私はブレンドで」

「じゃあ、私もそれで……」

その時、悪いタイミングでくぅーと腹の音が鳴ってしまい、私は恥ずかしくて顔を上げられなくなってしまった。だけど、目の前の仲林さんは笑うことなく、

「あまりここで食べると菜月さんのご飯が入らなくなってしまうので、パンケーキはいかがですか?生クリームとか季節のフルーツがたくさん乗っているんです。ちょっと大きいので、シェアしませんか?」

と提案してくれた。私は思わずがばっと顔を上げて、「お願いします」とはっきりと言った。

「……脳神経外科には、妹の未沙が入院しています。私が中学生くらいの時に、小学生だった未沙は交通事故にあいました。そこで大きく頭を打ってしまい、脳に深刻な損傷を負ってしまいました。片田舎のあぜ道を通学路としていた未沙は、ひき逃げにあって、事故後数時間にわたって処置が行われなかった。脳神経外科の加賀見先生……先日お会いした加賀見先生のお父様ですが、あの方に手術をしてもらい命は取り留めました。だけど、意識は取り戻さなかった」

有沙さんは悲しそうでもなく、ただ淡々とそう述べた。

「脳組織が死んだわけではなかったのですが、未沙は今でも目を覚ましません。だけど、生きているんです。両親は交代で懸命に未沙の病室に通いました。私も、未沙は今も生きているという希望だけをもって、家族の支えになろうと何でもやりました。だけど、段々と同じ思いを持って並走していこうと未来に陰りが出始めました。結局、両親の言い争いは続き、離婚しました。父は今でも送金は続けてくれていますが、新しい家族を養わなければならず微々たるものです。母の稼ぎだけでは未沙の入院代など賄えませんでした。私は高校を中退して働き始めました。だけど、中卒の人間を雇ってくれるところなんてほとんどありません。私は年をごまかして、夜の世界に飛び込みました」

「夜の世界、ですか……?」

そこで、有沙さんはほんの一瞬だけこちらに侮蔑の色を向けた。

「雫さんは知らなくてもいいことですが、キャバクラや風俗嬢といった女性の性を大いに誇示した職業があるんです。好きでその仕事に就いている人もいるでしょうけど、当時の私はそれにすがるしかなかった。母と未沙のために、必死にしがみ付きました。私はその世界で働く内に、お客様間のトラブルに何度か巻き込まれたことがあります。何度か殴られて、危ない目にあったこともあります。齢17とかの娘が、そんな怖いことに巻き込まれても抜け出せない、そんな生き地獄想像したことがあります?」

有沙さんの視線に、私は何も言うことが出来なかった。何も知る必要がない、と抑圧された生活に押し込まれていた私と、知りたくもない世界に堕とされ苦汁をなめる生活を送っていた有沙さん。どちらがどうとかは言えないが、無知の知―――自分に知識がないことを自覚し、とてつもなく恥ずかしかった。

「それを無知と思うことはありません。無知であることを至上と教え込んだのは、誰であろうあの方なんですから。雫さんは、変わろうとしなくていいんです」

有沙さんはにっこりと微笑んだ。

「でも、その生き地獄の中で、私はあの方に出会い助けていただきました。あの方の下で働き、未沙の入院費も母の生活費もすべて工面していただいています。だから、私のこれからはあの方に捧げると決めているのです」

「お待たせしました」

マスターがブレンド二つ、そして大きなパンケーキと天を衝こうするほどの大量の生クリームと果物が敷き詰められた皿を目の前に置いた。有沙さんはぱっと表情を明るくすると、ナイフとフォークを取り出した。

「雫さん、半分で大丈夫ですか?生クリームもたくさん乗せますか?」

「あ、はい……」

先ほどの会話と時と打って変わって、有沙さんは楽しそうに小さく体を揺らしながら入刀していった。甘いものが好きなのかもしれない。中皿によそってもらうと、手を合わせた。

「んー美味しいー甘すぎずくどすぎず、ここのパンケーキが一番だと思うんですよね。さあさあ、雫さんも食べてください」

有沙さんに促され、私は一口サイズにパンケーキを切り分けて口に運んだ。確かに、こってりとした甘さは感じられず、いくらでも食べられそうな丁度いい甘さ加減に調整されている。

「とても、美味しいです」

「そうですよね。あ、そうだ、雫さん、私の身の上話をするだけのためにここに来てもらったんじゃないですよ。今後のお話です」

私は手を止めて、有沙さんを見やった。有沙さんは話しながら凄い勢いでパンケーキを口の中に放り込んでいる。

「あのブックカフェで働き続けることを、あの方は良しとしないと思います。だけど、私は報告しません。報告義務違反で何かしら罰を与えられるかもしれませんが、それはそれで構いません」

有沙さんの言葉に、私は思わずナイフとフォークをテーブルの上に落としてしまった。

「雫さんと菜月さんは本当によく会話が漏れないように工夫されていると思います。だから、諜報機関には一切ばれていないでしょうね。私は別のツールで、雫さんの動きを把握しています。だけど、ブックカフェで働くことを、私は止めません。今後の事態が多く動くまでは、雫さんの思うように働いていただいて結構です」

「……いいんですか?」

「ええ、もちろん」

有沙さんの皿はいつの間にか空になっていた。ゆったりとブレンドを飲んでいる。

「自身の悔いのないよう、日々をお過ごしください。それが、雫さんのためですから」

「……」

有沙さんの意図は分からなかった。

だけど、父が放つような言葉にできない不可解な雰囲気は伝わってこなかった。

「今は、有沙さんを信じても大丈夫ですか?」

一語一語噛みしめるように発する私に、有沙さんは目を大きく見開いた。そして、赤いルージュの線が大きく引き伸ばされる。

「はい、信じてください。今は」

私は強く有沙さんを見据えた。不安で仕方ない状況なのは変わりないが、その言葉を信じて、無理矢理にでも心に押し付けるようにしなければ倒れそうで仕方なかったからだ。

先ほどまで口に入れるのが楽しみで仕方なかったパンケーキが、今は無造作に置かれたただの白い物体にしか見えてこないのが悲しくて、私は唇をかんだ。





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