第25話

母に気取られぬよう、私は不安な気持ちを心の奥に無理やり押し込んで帰宅した。

ドアを開けると、母は玄関先でずっと待っていたのかすぐにこちらに駆け寄ってきた。私は、ふっと顔を上げて口元に力を入れた。

「ただいま」

「……お帰りなさい。お腹が空いたでしょう。ご飯、食べましょう」

有沙さんとパンケーキを食べてきた、というのも口に出来ず、私は小さく頷いた。

とはいえ、半分に分けられたパンケーキをすべて私は食べることが出来なかった。とても美味しかったのだが、すべてを知り尽くした有沙さんを前に、美味しそうに咀嚼することすら困難になってしまったからだ。

有沙さんに申し訳なさそうに残すことを話すと、マスターに話して包んでくれた。

喫茶店を出ると、有沙さんは颯爽と去っていった。

次に会うときは、すべての事態が動いてブックカフェで働く一店員の私ではない時なのかもしれない。その日がいつになるのか、私は私のままでいられているのだろうか。日常から切り離された未知なる未来が、希望ある光を少しでも纏っているのだろうか。そこに、宮原さんや千紘くんはいてくれているのだろうか。

ぐるぐると考えが目まぐるしく動く。怖くて怖くて仕方がない。両肩を抱きしめながら家路を辿る間、ふわっと独特な夜の香りが鼻をくすぐる。

これからこの街に夜の帳が下りて闇の世界が訪れる。段々と訪れる静寂と静謐の世界は、私にとっては一日の始まりに値する。

また、【月夜の森】での時間が私を待っている。

そう考えるだけで、自然と足元にぐっと力が入る。大丈夫、まだ大丈夫。まだ、私でいられる。このままの私で良いと言ってくれる人と空間が確かに待っていてくれているのだから。


夜の11時に開店すると、少しして五十嵐さんが来てくれた。

「五十嵐さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」

「こんばんは、お嬢さん」

五十嵐さんは黒の帽子を片手で脱いで会釈した。

「最近、家の近くの市民会館で独居老人用のコミュニティが出来上がってね。ヘルパーさんに行ってみた方が良いって言われたものだから顔を出すようにしたんだよ。妻以外の人と話すのは苦手でね、いきなり面と向かっても話すことなんてないから大体は皆で手遊びしたり歌を歌ったりすることが多いね。最初はくだらないなんて思っていたけれど、誰かと何かをするというのはなかなかに楽しいものだ。大体近隣に住んでいる老人たちだから、道中で会うと何を言うわけでもなく会釈をするようになったんだ。それが、自分の存在を認めてくれているようで嬉しくてね」

ふふっと微かに笑みを浮かべながら五十嵐さんはそう話してくれた。

「以前、お嬢さんがカモミールティーを出してくれたでしょう。キッチンの棚などを探してみたらたくさんのフレーバーティーやハーブティーが出てきてね。簡単に入れられるティーパックではないのだけど、急須でゆっくりと淹れるのもいいものだね。きちんと砂時計で抽出時間を測って、じっくりと茶葉が広がっていく感覚を味わうのはとてもいいものだと妻がいなくなってから気づかされた。私は紅茶類をあまり飲んだことがないから、妻が一人の時間を楽しむために買い集めたものなんだろうね……」

そして、五十嵐さんは目元にかすかに寂しさを滲ませた。

「じゃあ、五十嵐さんは奥さまとの時間を紅茶を飲みことによって過ごされているんですね」

私の言葉に五十嵐さんは目を丸くしたが、何かを噛みしめながら何度も頷いた。

「うん、そうか、そうなんだろうね。それは、私自身も思い当たらなかった。妻が……喜美子が親しんでいたものを私自身も親しむことによって、繋がっているということになるんだな。だけど、欲を言えば彼女が生きている時に共に親しむことが出来ればよかったのになぁ」

五十嵐さんはカモミールティーをこくりと一口飲んだ。


五十嵐さんから宮原さんのお父さんの貴弘さんとの思い出を聞いている最中、がらんがらんと勢いよくドアベルが鳴った。

私はびっくりして、とっさに体を低くし縮こませながらドアを振り返ると、そこには小学生くらいの男の子がびっくりした様子で立っていた。

「……え、凄い、こんな遅い時間帯なのにお店が開いてる!本も図書室みたいにたっくさん!」

小さくわぁーと歓声を上げて、男の子は本棚に向かった。

私は元気の塊の男の子のエネルギーに圧倒され、すぐに声を掛けられずにいた。

「お嬢さん、お客様じゃないのかね?」

「あ、ああ、はい」

五十嵐さんの声に、私は恐る恐る本を眺めている男の子に近づいて行った。

「こんばんは。お一人ですか?」

しゃがんで視線を合わせると、男の子は一瞬きょとんとした表情になると、そのままふるふるっと首を振った。

「ううん、俺だけじゃないよ。香音と朔太郎と先生も来る」

「……先生?」

「あー悠、こんなところにいた!」

からん、とドアベルが鳴ると、そこにはくるくるっとした髪を肩まで垂らした女の子が腰に手を当てて仁王立ちしていた。女の子の後ろには眼鏡を掛けた気弱そうな男の子が立っている。

「遅い時間帯で真っ暗でよく見えないんだから、勝手に走って行っちゃ駄目じゃない」

女の子は大股でずかずかと店内に入るとそう注意した。そして、私の姿に気が付くと、一歩下がってぺこりと頭を下げた。

「騒がしくしてごめんなさい。私たち、【夜の教室】の課外学習の一環として夜のピクニックをしていたんです。私は神林香音です。本棚のところにいるのが勅使河原悠、そして後ろにいるのが本木朔太郎です。私は六年生で、あとの二人は五年生です」

「【夜の教室】ですか……?」

聞いたことのない言葉に私は復唱すると、香音は少し誇らしげな表情を見せた。

「あ、いたいた。三人とも早いよ」

カラン、とドアベルの音と共に一人の男性がのっそりと入ってきた。男性は髪の毛はぼさぼさで髭は伸ばし放題という体だったが、どうやら私とそんなに年の変わらない若い人のようだった。

「すみません、営業中に子供三人とこんな得体のしれない格好の大人がお邪魔して」

男性は何度も何度も頭を下げていた。

「いえいえ、【月夜の森】は誰であろうと訪れる方は皆さん大事なお客様です。四人席もありますので、こちらへどうぞ」

香音ちゃんと男性は席に着いたが、悠くんと朔太郎くんの二人は大量の蔵書が珍しいのか本棚の前から動かなかった。

「ここはブックカフェですか?」

「はい、そうです。夜の十一時から朝の五時まで営業しているブックカフェです。生徒さんたちは温かいココアなどはいかがですか?」

男性は無言でこちらを見ていたので、私は少し首を傾げた。

「あ、いえ、生徒たちとおっしゃっていたので、びっくりして」

「さっき香音がお姉さんに教えたの。【夜の教室】の課外授業の一環だって。僚介先生は先生だから先生って教えたの。間違っていないでしょ?」

男性―――僚介さんは照れくさそうに後頭部を掻いた。

「先生っていっても……今は休職中だし。【夜の教室】だって、非公式なものだから、俺はそんな大層なものじゃないよ」

「でも、僚介先生は知らないこと知りたいこと何でもきちんと教えてくれるでしょう?香音のパパやママみたいに色々なことをはぐらかしたりしないもん」

香音ちゃんは必死にそう口にした。僚介さんは、三人の生徒たちにとても信頼されている先生だとわかる。

「こんばんは。いらっしゃいませ」

声に気付いてか、キッチンから宮原さんが姿を現した。

「今日はスコーンとワッフルを用意してあります。ご希望とあれば、バニラアイスクリームもトッピングできますよ」

「オンザアイスクリーム!香音、一度食べてみたかったの!」

香音ちゃんはとてもうれしそうに声を上げた。

「では、俺も……いえ私もそれで。あ、じゃあコーヒーはブラックでお願いします」

「悠と朔太郎は、まだ当分こっちに来なさそうだから二人分でお願いしまーす」

「はい、お待ちください」

宮原さんの手伝いをしようと腰を上げると、宮原さんは手のひらを掲げて制止した。仕事をしないでこのまま話をしているだけでいいのか不安になるが、宮原さんの指示通りにしようとすとんとそのまま腰を下ろした。

僚介さんと香音ちゃんは二人で楽しそうに話をしている。とはいえ、香音ちゃんが一方的に話しかけているのを僚介さんが聞いているという感じだった。

「このあたりを散策するのはかなり久々なんですが、こんな素敵なブックカフェが建っているなんて知りませんでした。最近始められたんですか?」

二人の会話が途切れたのと同時に、僚介さんは私の方を見て話しかけてきた。

「私は本当に最近ここで働き始めたばかりなんですが、まだ二年も経っていないくらいだそうです。先ほどの宮原さんが一人で始められました」

「一人で経営されているんですか?凄いですね。俺は結局先生としてきちんと勤めることが出来なくて、学校からは離れてしまいました。だけど、色々な事情で学校に通えなくて苦しんでいる子たちがいることを知り、夜だけの学校として【夜の教室】を開きました。日中、世間の目もあるので不登校の子供は極力隠しておきたいという親御さんもいます。フリースクールという場所もありますが、学校以外の場所に通うということを認めたくないという考えの人もいます。まだまだ懐疑的な意見も多いですが、どういう名目であれ誰かと一緒に学ぶという空間は必要不可欠であると、俺は強く思います。だから、学校という場所に捕らわれなくてもいいと思っています。なかなかこの考え方が世間に浸透するのは、難しいんですけどね」

へへっと僚介さんはどこか苦しそうに笑った。

「……いえ、私にとっても学校は学ぶ場所というよりは苦しくなる場所だったので、よくわかります」

思わずそう呟くと、じっと僚介さんはこちらを見つめていた。

「店員さんは、この辺りの学校に通っていたんですか?」

「あ、私はここからすぐの月夜野第二小学校でした」

「え、第二ですか?俺もです!」

僚介さんはぱあっと表情を明るくした。

「先生、お姉さんが可愛いからって生徒たちの前でナンパしたりしないでよー」

香音ちゃんの言葉に僚介さんは顔を真っ赤にして戸惑っていた。

「そ、そういうわけじゃないって、俺はただ―――」

「お待たせしました」

宮原さんがスコーンとワッフルとバニラアースを乗せた皿を二つテーブルに置いた。ラズベリーやブルーベリーなどのフルーツも散りばめられている。

「わぁあああ美味しそう!」

香音ちゃんは目を輝かせた。そんな香音ちゃんの様子を僚介さんは微笑ましく見つめている。

「あの、さっきの話ですけど、俺は24期生でした。店員さんは?」

「私は22期生です」

「年齢、近いですね。あの、勘違いだったら申し訳ないんですけど、妹っています?」

「え?あ、はい、います」

「宇野美波じゃないですか?」

びっくりして声を止めると、やっぱりというように僚介さんは頷いた。

「彼女とは、四年生くらいまで同じクラスでした。勝ち気で負けず嫌いで、お姉さん想いの人でした。ずっと黒い服ばかり着ていて、色々陰口を叩かれても彼女はへこたれませんでした」

僚介さんはこちらを見やると、

「あなたが、お姉さんの雫さんだったんですね」

「……あれから、十五年以上経っているのに分かるんですか?」

「分かりますよ。俺は……彼女が好きだったから」

恥ずかしそうにそう口にした。

「でも、彼女は俺を見向きもしなかった。しょうがないんです、まわりの雰囲気に流されて彼女を守ってあげられなかったから。まぁ、守ってもらいたいとは思っていないんでしょうけど。彼女は一人で生きていく強い人でした。今は記者をやられてて、凄いですよね」

「え、記者なんですか?」

「……知らないんですか?」

「せーんせい!俺たちもケーキ食べたい!」

勢いよく悠くんがテーブルに飛びついた。

「ケーキじゃないわよ、スコーンにワッフル。悠と朔太郎にこの美味しさは分からないかもねぇ。おこちゃま舌だし」

「そんなことねぇよ!」

「じゃあ、お二人の分も用意しますね」

私は席を立つと、宮原さんのいるキッチンに向かった。

宮原さんは腰に手を当てて、少し疲れた様子で立っていた。

「宮原さん、大丈夫ですか?」

「……実はちょっと子供の声って昔から苦手なんですよね。夜中に経営するブックカフェだから、子供の来店はないだろうとたかをくくっていたんですけど」

「あ、じゃあ私が対応しますよ。宮原さんは上で休んでいてください」

「いいですか?すみません」

宮原さんが二階に上がるのを確認すると、私はココアとスコーンとワッフルを準備し始めた。


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