第23話

梶さんはきちんと呼吸をしているのか分からないくらいに静かに寝息を立てて眠っていた。

「お酒に酔って眠っているというより、今までの疲れが出て眠りに落ちたという感じですね……このまま朝まで眠らせてあげましょう」

「そうですね」

宮原さんはキッチンへと向かった。私は棚の本棚の整理をしながら、ちらちらと梶さんの様子を窺っていた。

【月夜の森】は深夜から営業しているせいか、店の灯に吸い寄せられて酔いつぶれた会社員の人が入ってくることもある。だけど、飲み屋じゃないことに気付き、悪態をつきながら店を出ていくことがしばしば見受けられた。

だけど、梶さんは用があってここに来た、と菅生さんが話していた。

先日、朝までに戻れなかったことをわざわざ謝りに来てくれたのだろうか。でも、約束が違えるくらいの理由があれば、それが果たされなくても仕方がないと思う。

普通に、会いに来たと言ってくれるだけで嬉しかったのに。

私は思わず本棚の本を抱きしめた。そして、今思ったことをあらためて反芻し、あまりの横着な考え方に酷く恥ずかしくなって大きく頭を振った。

菅生さんの言葉を、鵜吞みにするなんて愚の骨頂すぎる。

梶さんは菅生さんの言うとおり、人間としてとても魅力のある人だと思う。前までは、失礼なことを当人の前で言うところが嫌で仕方がなかったけれど、未熟な私をサポートしてくれたし、何より信用してくれた。それがとても嬉しかった。

もし、これからも信用や信頼を向けてくれるのであれば、私も誠心誠意それに応えていきたいと思う。


宮原さんと新しい季節のメニューを考えたり、試作品を作ったり、コーヒーの勉強をしているとあっという間に空が白んできた。もう少ししたら、宮原さんも起きてきて出勤の準備をするだろう。最近はレジ閉めなども教わったので、一連の閉店の作業は私がすることになっていた。そうすれば、宮原さんもバタバタせずにゆっくりとコーヒーを一杯飲んでから出勤できるからだ。

「何もかも雫さんにお願いしてすみません」

寝ぐせのついたまま宮原さんは私の入れたコーヒーを飲んでいた。

「あー本当に美味しい。自分で淹れるより、他の人に淹れてもらった方が美味しく感じるって本当ですね」

「そうですか?コーヒーの先生の宮原さんにそう言ってもらえるなんて、光栄です」

私はふと思い出してキッチンへ向かった。

戻ってくると、宮原さんはいつの間にか寝ぐせを綺麗に直し、スーツに着替えていた。

「宮原さん、これ。卵とハムとチーズを挟んだだけの簡単なサンドイッチなんですけど。毎朝、朝御飯は食べられないみたいなので良かったらお昼にでも食べてください」

ラップに包んだサンドイッチを二つ渡すと、宮原さんは心底驚いたように目を大きく見開いた。

「……え、えー雫さんがこれを?わざわざ?本当にすみません。て、違うな、ありがとうございます。実は、朝御飯は会社の近くのコンビニで買っていつも会社で食べているんです。というのも、何かを腹に入れて電車に乗ると、どうも気持ち悪くなってしまって。コーヒーだけは昔からの習慣で飲んでいくんですけど」

宮原さんはサンドイッチを大事そうに胸のあたりに抱えた。

「いやぁ、嬉しいな。コーヒーを淹れてくれるだけでも嬉しいのに、サンドイッチまで。もう私、娘の成長を喜ぶ父のような感覚ですよ」

宮原さんはわざとらしく人差し指で目の端をくいっとなぞった。

「宮原さんは、もう聖良ちゃんという可愛い娘さんがいらっしゃるじゃないですか」

私がそう言うと、一瞬悲しそうな表情を見せたがすぐに小さく笑った。

「ありがとうございます。いってきますね」

「はい、いってらっしゃい」

私は扉を開けて宮原さんを見送った。店内の片づけをしようと振り返ると、いつの間にか梶さんは上体を起こしてヨルとじゃれあっていた。

「ヨルーヨルだぁーなんか前より肉厚になってるけど、可愛いなぁ」

「やっぱり、ヨル、ちょっと太りましたよね」

後ろからの声に梶さんはびくっと震えると、おそるおそる振り返った。

「……雫さんか、あー良かった、たどり着いていたんだ」

「菅生さんという方が連れてこられましたよ」

「……菅生、何か余計なこと、話してなかった?」

「いえ、特に何も」

間髪入れず答える私に、梶さんは一瞬不機嫌そうに眉を寄せたが、そのまままたヨルに頬ずりし始めた。ヨルはあまり密着をされるのが好きじゃないようで、体をよじって梶さんから離れて行ってしまった。

「梶さん、もう朝の五時過ぎていますけど、お時間ありますか?今日は大学ですか?」

「いや、大学はもうゼミくらいしかないから、ほとんど行かなくて大丈夫。内定も取れたし、あとは再来月から社会人になるよ」

「就職決まったんですか?おめでとうございます」

「ありがとう。社会人になったらさ、完全に朝型になるし、ここにもあまり顔を出せないと思うんだよね。だから、今の内に雫さんに会わなきゃって」

梶さんはじっとこちらを見やった。

「先日は、本当にごめんなさい。結局、妹の癇癪が酷くなってお店に戻ることが出来なくって。約束を違えちゃったこと、ずっと謝りたかったんだ」

梶さんは申し訳なさそうに頭を下げた。

「え、そんな、顔を上げてください!大丈夫でしたよ、里穂子さん……あ、この前貧血で具合の悪くなった方なんですけど、シチューを食べたらすぐに元気なりましたし、その後も何度かこちらに来てくれるようになったんです」

私は早口で一気にそうまくしたてると、梶さんはゆっくりと顔を上げ、

「シチュー?俺、そんなの作ってないけど」

と首をかしげながら呟いた。

「あ、シチューは、ええと、私が微力ながらあらゆる知識を総動員して、豆乳で作りました……」

「え、雫さんが作ったの?凄いじゃん。俺も食べたかったなぁ」

くしゃっと子供のように笑いながら話す梶さんに、自然と体の底からふわっと込み上げるものがあり、いつの間にか心が温かくなっていた。

「梶さん、シチューではないんですけど、サンドイッチを作りました。コーヒーも淹れますので、お時間がありましたらどうですか?」

「うん、食べたい。前に、雫さんがコーヒーを淹れてくれるって話だったのに、何だかんだでタイミング合わなくて飲めなかったから」

「……あ、そうでしたね。じゃあ、ちょっと淹れてみますね」

「雫さんがコーヒーを淹れているところ、横で見ててもいい?」

「はい、いいですよ」

私と梶さんはキッチンに向かった。

「梶さん、濃く苦めの味わいと薄く軽めの味わい、どちらがいいですか?」

「んー苦めが好きかなぁ。エスプレッソとか?」

「そうですね、じゃあ極細挽きにしましょうか」

まずはドリッパーやサーバー、カップなどをあらかじめお湯を注いで温めておく。こうしておくと適温を保ったままおいしく頂けると宮原さんに教わった。豆を挽き、ドリッパーにペーパーをセットする。計量スプーンで三杯入れ、ドリッパーの側面を軽くたたいて粉の表面を平らになるようにする。沸騰が収まったお湯を粉全体に湿る程度に静かに注ぐ。そのまま二十秒から三十秒ほど待って粉を蒸らす。温めておいたカップに注いで梶さんに渡した。

「……何か、コーヒーの世界に雫さんがいるみたいで、声を掛けづらかった」

「コーヒーの世界、ですか?」

「それぐらい、コーヒーに集中していたってことだよ」

そして、カップ二つとサンドイッチをよそった大皿を持ってテーブルに移動した。どちらかともなく、私たちは手を合わせて「いただきます」と口にした。

「―――美味しい。こんな美味しいコーヒー、飲んだことない」

「そんな……まだまだ練習している段階で」

「うん、まだまだ粗削りで、でももがき続けて努力をし続けているコーヒーの味がする。だから、凄く美味しいんだよ」

私はカップに両手を添えながら、無言で梶さんを見つめた。

「サンドイッチもいいね。マスタードも使ってるよね?ピリッとしてるけど辛すぎないし、野菜も新鮮で美味しい」

私が何も言わないからか、梶さんははたっと我に返った。

「ご、ごめん。料理に関していちいち意見を言わないと気が済まない性分で。職業病、みたいな感じなのかな……バイト先では意見を求められるからいいんだけど、私生活で料理に関して色々言うと、大体は嫌がられるか飽きられるかなんだよ。雫さんにも、嫌な思いさせて―――」

「嫌なんかじゃないですよ。ちゃんと意見を言ってくれた方が参考になりますし、嬉しいです。人にも寄るのかもしれませんが、言いたいことを曖昧にされる方が私は嫌です。だから、ちゃんと言葉にしてくださって、ありがとうございます」

梶さんは大きく目を見張り、そのまま俯いた。

「梶さ―――」

「何だろうな、雫さんみたいに面と向かってそんなこと言ってくれる人、まわりにいなかったから。曖昧にされるかあからさまに嫌悪感を出すか、どっちかだったから」

「私はそんなこと、しませんよ」

「うん……」

しばらく、梶さんは黙ったまま机の一点を見つめていた。私も、特に声を掛けることはなくコーヒーを口にした。ちょっと苦かった。いつもは中挽きで淹れることが多いので、少し慣れなかったが、これが梶さんの好きなコーヒーの味と分かったので、それで良かったと思った。


六時手前になると、大分太陽も登り眩しいくらいの日差しが差し込んでくる。

日の光は暖かいが、主に夜に活動しているため肌がちくちくするくらいの痛みを感じるし、少し眩暈がしてしまうのが難点だった。

「雫さん、大丈夫?ごめん、仕事で疲れているのに俺に付き合わせて」

「いいえ、大丈夫です。すぐに戻って横になるので、問題ないです」

「近くまで送るよ」

「そんな……梶さん、私の家と反対方向じゃないですか……」

「具合悪そうにフラフラしていたら、家に着く前に倒れるかもしれないだろ」

強い口調ではっきりと言うと、少し逡巡した後、梶さんは私の手をぐっと掴んだ。家族以外の人から触れられることがほとんどないため、体に力が入り思わず振りほどこうとした。その時、「怖がらないで」と梶さんは悲しそうに呟いた。

「大丈夫、怖がらなくて。ただ、誘導してあげたいだけだから」

私はゆっくりと梶さんを見上げたが、日の光でよく表情が読み取れなかった。だけど、いつの間にか体の力は抜けていて、手は繋がれたままになっていた。

梶さんの優しさだと、そう言い聞かせながら、互いに向き合ったまま微動だにしなかった。

「行こう」と呟き、くんっと梶さんが手をゆっくりと引いたので、私は少しよろめきながら前に進んだ。朝の時間、手をつなぎながら男性と歩いたことなどないので、気恥ずかしくて私はあまり前を向けなかった。

「雫さん、前を向かないと危ないよ」

「……梶さんを信じていますから」

「分からないよ?このまま俺が雫さんが見てないことをいいことに、変な場所に連れて行ったりするかもしれないじゃん」

「―――変な場所って、どこですか?」

言葉の意味が分からず、私が顔を上げると、梶さんはバツの悪そうな顔をして目をそらした。

「まぁ、意味が分からないなら、そのままでいいよ」

「……?」

「あ、あとさ、そろそろその梶さんっていう呼び方止めない?」

「梶さんは、梶さんじゃないんですか?」

「あー言ってなかったっけ?俺、梶千紘っていうんだ。千紘って、呼んでほしい」

「千紘、さん」

「呼び捨てが難しかったら、千紘くんでもいいよ」

「千紘、くん」

慣れない呼び方に、声が上ずってしまった。

「だってさ、雫さんに梶さんじゃ、何か雫さんの方が他人行儀な呼び方じゃん?自然な感じで呼び合いたいからさ」

「分かりました。じゃあ次回からそう呼びますね」

「今からじゃないの?」

「……じゃあ、千紘くん」

「うん」

そのまま互いに小さく笑いあって、私たちは前を向いて歩きだした。






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