第22話

次の日、店を訪れるとすでにいい匂いが店内に立ち込めていた。

キッチンを覗き込こうとすると、ふいに足元に柔らかい感触が当たった。下を見ると黒々とした塊が擦り寄っていた。

「ヨル、久しぶりだね」

ヨルを抱き上げようとするも、なかなか持ち上がらずしゃがみ込んだ。じーとヨルと目を合わせるも知らんぷりをするかのように明後日の方向を見つめている。

「……ヨル、ちょっと太ったんじゃない?前みたいに軽々と抱っこできないよ」

「知らないにゃー」とばかりに、ヨルはしっぽをふりふりとさせながら店内を歩き始めた。

「―――あ、雫さん。先日はご迷惑をお掛けしてすみませんでした。急に梶くんにお店お願いしちゃったんですけど、大丈夫でしたか?」

気配を感じたのか、キッチンから宮原さんが顔をのぞかせた。元気そうな姿に自然と口元が柔らかくなる。

「梶さんは―――」

途中で店を出て、朝になっても帰らなかったことを話すと宮原さんに心配を掛けるし、梶さん自体の印象も悪くしかねないと思い、かぶりをふった。印象が悪くなって、【月夜の森】に顔を出しづらくなると困るからだ。

「大丈夫でしたよ。梶さんがいてくれて助かりました。あと、すーっごく美味しいナポリタンを作ってくれたんです。あんな美味しいナポリタン、初めて食べました」

私は自然と恍惚な表情を浮かべていたのか、宮原さんは遠慮することなく楽しそうに笑っていた。

「……何か、雫さん、表情がずいぶんと柔らかくなりましたね」

「え、そうですか?」

「ええ、ここに来たばかりの時は表情が硬い、というより何かに怯えるように強張っていました。だけど、くるくる表情が動くようになって、なんだかとても安心しています」

「そうなんですね……」

表情筋が緩すぎてしまっているのかもしれないと、私は頬を左右に大きく引っ張った。宮原さんと一緒に【月夜の森】を運営していく上で、あまりにもだらしない顔ばかりしているとお客さんに落胆されてしまうかもしれない。

「そんなに頬を引っ張らなくてもいいですよ。雫さんは、そのままでいいんです。そのままのあなたで、このお店で頑張ってくれれば。お客さんもそのことを望んでいると思います」

そうなんだろうか、と疑問に思いながらも、私はゆっくりと頷いた。その時、ほんのりとした甘い香りが鼻孔をくすぐり、思わず前のめりになってしまった。

「何か、チョコレートの香りがするような……」

「あ、そうなんです。あまり手のかからないちょっとしたデザートを考えてみたのですが、ホットチョコレートとチュロスです」

鍋を覗かせてもらうと、そこにはチョコレートの池が広がっていた。自分が小さくなって泳げたら最高だろう、と想像してしまい思わずニヤニヤしてしまった。

「ホットチョコレートは色々アレンジが可能なんです。マシュマロを小さく刻んで入れたり、シナモンやミントなんかも違った味わいが楽しめます。あとはコーヒーやラム酒なんかも美味しいので、雫さんのコーヒーとマッチさせたらいいと思うんです」

「美味しそうですね……」

「チュロスは休みに映画館に一人で行くことがよくあるんですけど、店でも食べられないかぁと思って調べてみたんです」

鍋の隣に棒状のお菓子が何本も置かれていた。映画館に行ったことがないのであまり想像がつかなかったけれど、とても美味しそうだった。

「チュロスってそのまま揚げるんじゃないんですね。ベーキングシートごとヘラとかに乗せて揚げるみたいです。その方が形が崩れないでまっすぐになるんですね」

「このチュロスに掛かっている白い粉は何ですか?」

「トッピングシュガーです。これはシナモンシュガーなんですが、チョコレートやキャラメルなんかも美味しいですよ。お一つどうですか?」

「いだだきます」

一口齧るとさくっとした感触と香ばしい香りが一気に口の中に広がった。揚げたてだったので、熱くてはふはふ言っていると宮原さんはくすっと笑い声を立てた。

「小さいのでパクパク食べられますね」

「映画館とかテーマパークで売っているものはもっと長いものが主流なんですけど、揚げる鍋も大きさが限られてきますし、今回は十二センチくらいのものにしてみました。小さいから色々な味のものも食べられて一挙両得って感じですよね」

「そして」と宮原さんはさらにいたずらっ子のような不敵な笑みを浮かべ、

「ホットチョコレートにディップも出来てしまうんです」

嬉々としてカップによそったホットチョコレートにチュロスを漬けた。

「これならあらためてトッピングをチョコレートにしなくても味わえますよね」

「本当ですね!」

シナモンシュガーも美味しくて、チョコレートとシナモンが合わさった味も絶妙で、私はいつも間にか三本も食べきってしまった。

「―――あ、すみません。お出しする商品をこんなに遠慮なくバクバク食べてしまって。初めて食べたものだったから、美味しくて美味しくて」

「雫さん、チュロス初めてでしたか?」

「初めてです」

「それならたくさん食べてください。これは試作品ですし、雫さんの感想を聞きたくて作っただけですから」

「すみません、ありがとうございます」

カラン

ドアベルの音がして、私は急いで四本目のチュロスを咀嚼して飲み込んだ。

「いらっしゃいませ―――あ、里穂子さん?」

「雫さん、こんばんは」

そこにはベージュのニット帽を被り、紺のダッフルコートを着た里穂子さんが立っていた。

「すみません、雫さんがいらっしゃるかぁって思って、また来ちゃいました」

「雫さん、お知り合いですか?」

宮原さんの質問に、はたっと二人は面識がないことに気が付いた。

「宮原さん、先日宮原さんがお休みだった時にいらっしゃったお客様です。本庄里穂子さんです」

「本庄と申します。先日は酷い貧血でふらふらになっている時に、雫さんに大変なご迷惑をかけてしまって」

「そうでしたか。あ、ここで立ち話でもなんですからお席にどうぞ」

里穂子さんはぺこっと一礼すると、そのまま席へ向かった。「ひゃっ」という声を上げて、少し飛び上がって席から離れた。

私は席に近づくと、そこには私の定位置よとばかりにヨルが椅子の足元に鎮座していた。

「ヨル、こんなところにいたの?里穂子さん、すみません。たまに店に来るヨルです。風来坊の猫なんです。でも、赤い首輪が付いているからどこかで飼われている子だとは思うんですけど……」

里穂子さんの反応がなく、後ろを振り返ると青ざめた表情のまま立ち尽くしていた。

「……すみません、里穂子さん、猫が苦手でしたか?」

「苦手、というわけではないんですが、猫の方が私を嫌うんです。昔から、触れようとすると毛を逆立てて引っかいてきたりとかして……」

「里穂子さんが無意識に怖いとか思って近づくと、猫の方も敏感に察知して防衛本能が出てしまうかもしれません。大丈夫だよ、とか安心してねとか思いながらだとヨルも委ねてくれるかもしれません。あ、でも、無理しないでくださいね」

「はい、ちょっと触るのは今度にします。見るだけにします」

里穂子さんは恐る恐るヨルの近くに近寄ると、ゆっくりとしゃがんで見下ろした。ヨルはこちらを見ることなく大きなあくびをして丸まってしまっている。

「……可愛いですね。実は動物全般が苦手で、小さい頃に連れて行ってもらった動物園も全然楽しめなくて、そんな感情表現が乏しいから、いつまでも扱いづらい娘でしかないのかも」

「そんなことないですよ。この前のシチューを食べた時だって、朝までお話をした時にだって里穂子さんは本当に嬉しそうに楽しそうにしてくれていました。私も、今の今まで喜怒哀楽といった感情をあまり出したことがなくて、というより制限することは普通みたいな家庭に育ったこともあるんですが、ここでたくさんの皆さんと触れ合えてとても嬉しいんです。こんな感情が自分の中にまだ残っていたんだって」

里穂子さんは黙って私の話を聞いてくれていた。

「だから、里穂子さんとお話しできて、ご飯も食べられてとても幸せなんです」

「―――雫さん、これ」

後ろからお盆に何かを乗せて、宮原さんが顔を出した。

「お話し中にすみません。ずっとしゃがんでお話しするのもなんですし、甘いものを食べながらでもどうですか?」

「宮原さん、ありがとうございます。里穂子さん、これ、宮原さんに作っていただいたチュロスです。それと、ホットチョコレート。とても美味しいので食べませんか?あ、でも、私はもう四本も食べてしまったんですけど」

ふふっと里穂子さんは笑みを浮かべた。

「雫さん、四本も食べちゃったんですか?」

「そ、それほどチュロスがものすごく美味しかったってことです」

私と里穂子さんは席についてチュロスを食べた。流石に深夜にチュロスを四本も食べてしまったので私は遠慮したけれど、里穂子さんは嬉しそうに三本食べた。

「女性二人にこんなに食べてもらえるなんて、ちょっと改良を重ねたら商品化出来るかもしれないですね」

無心に食べる姿に、宮原さんは心底嬉しそうにそう口にした。


それから一週間ほど経っても、梶さんは姿を現さなかった。

宮原さんは多分、梶さんと個人的に連絡を取れているのだろうけど、あらためて店員でしかない私が様子を訊くことでもないと思い話さなかった。

カランカラン

勢いよくドアが開き、私は俯きがちだった顔を上げた。

「こんばんはーほら、店に着いたよ」

外はねのボブスタイルの女性が、ドアを押さえながらゆっくりと店内に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

「へぇ、凄いね。こんな遅くに開いてるブックカフェとかあるんだー」

女性はぐいっと右腕を引くと、くたっと項垂れた男性が姿を現した。

「―――梶さん?!」

「え、店員さん知り合い?あーなるほどねー」

女性はにやにやと笑みを浮かべながら私と梶さんを交互に見つめた。

「今日はゼミの飲み会だったんだけど、あまり得意じゃないのに教授に付き合って飲んじゃってね。さっさと家に帰ればいいのにどうしても寄りたい場所があるからって、ここまで連れてきたの。多分、店員さんに会いたかったんじゃない?」

「え?」

「菅生……余計なこと言うなよ」

梶さんはゆっくりと体を起こして制止の声を掛けた。その声ががらがらだった。

「梶さん、大丈夫ですか?宮原さんに予備の布団を出してもらうので横になってください」

私が後ろを振り返ると、宮原さんは無言で頷き二階へと向かった。

流石に梶さんに直接触れるのに抵抗があったので、私は菅生さんと呼ばれた女性と並んで歩いた。

「―――よいしょ、ほら、ここに座って」

梶さんを少々乱暴に椅子に座らせると、菅生さんは横の椅子に座った。

「……とりあえず、まずはお水を飲みましょうか?」

「あ、じゃあお願いしまーす」

菅生さんは一瞥せず、片手だけ上げた。

私はキッチンへ移動し、浄水モードに切り替えてコップに水を注いだ。急いで席に戻ると、菅生さんが何やら話しかけている。梶さんはすでに眠ってしまっているのか、机に顔を突っ伏してしまっていた。

「―――ほんっと、難儀な奴よね。私と付き合っていた二カ月だってまともにデートなんて出来なかったし。あんな妹がいたら、そりゃあ無理って話よね」

私はびっくりして、水を零しそうになってしまった。

菅生さんは私に気付くと、そのまま何も言わず水を受け取ってテーブルの上に置いた。

「店員さん、知ってます?梶に妹が一人いるんですよ。かなりヤバい感じの」

「ええと、はい、千里さんという妹さんがいるっていうのは、聞いています」

「へぇ、名前まで話してるんだ?大分心許しているんだねー」

「いえ、そういうわけでは……」

「あまり自分の家庭のこと、話したがらないから。梶って結構顔が良いし長身だし料理も得意だし優良物件だと思ったから告白して付き合ってたんですけど、梶と会っている時にひっきりなしに妹から連絡が来るし、家には入れてくれなかったから近所を散歩していたら妹が突撃してあることないこと罵詈雑言を吹っ掛けられるし、本当に大変だったんですよ。もう、梶と付き合うのにこんなに神経すり減らされると思ってなかったですよー」

「……」

私は何も言えず、所在無さげにそこに立ち尽くしているしかなかった。

すると、菅生さんは意味ありげな視線を向けてきた。

「妹だけじゃないんですよ、ここだけの話、妹からちらっと聞いたんですけど今一緒に住んでいない母親,、変な宗教団体にいるらしいですよ?」

「―――え?」

「本当かどうか分からないけどヤバすぎですよね!妹は精神疾患持ちだし、母親は変な宗教に入信していて帰ってこないって。二カ月で別れてよかったですよ。今は梶より普通の優しい彼氏がいるんで、幸せですよ」

菅生さんはそれだけ言うと、席を立った。

「それじゃあ、私は頼まれたことはやったんで帰りますね。店員さんも気を付けた方がいいですよー」

「ありがとうございました」という言葉を掛ける間もなく、ドアを開けて出て行ってしまった。

「あれ?女性のお客様は?もう帰ったの?」

布団や枕を手に宮原さんが二階から降りてきた。

「そう、みたいです……」

「じゃあ梶くん、そのままの体勢じゃきついだろうから寝かせてあげようか。あ、でも雫さんはいいですよ。梶くん、骨格がしっかりしているからそれなりに重さがあると思うから私が寝かせますね」

「すみません」

私の声に力がなかったせいか、宮原さんは訝し気にこちらを見た。

「雫さん?どうしました、何かありましたか?」

「あ、いえ、何でもないです」

私は宮原さんに心配を掛けないよう無理やり口元に力を入れて、布団を敷き始めた。








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